城塞
「何度見ても、シュリータの都には圧倒されるよね」
そんな感嘆の声をあげるトールの隣で、ルゥナはポカンと口を開けて彼と同じものを見つめる。思い切り、頭をのけ反らせて。
絶句。何も言えない。
まさに開いた口がふさがらないというヤツで、ルゥナは言葉もなく、ただただその巨大な壁を見上げるしかなかった。
「ちょっと、ルゥナ、口の中に虫が入るわよ?」
「あ、うん」
ルゥナの腕の中から呆れでそう言ったピシカに気もそぞろに頷きを返しながら、彼女は口を閉じる。
今、ルゥナの目の前にあるのは右にも左にも延々と続いている壁だ。目を細めてみても、その果ては見えなかった。
どこまでも続く、石の壁。
しかもそれは、ヤンダルムのように自然が造ったものではない。
「何で、石でこんなのを造れるの……?」
ルゥナは誰に尋ねるともなく、呟く。
「さあね。でも、百年くらい前かしらね、作られ始めたのは。確か、二代目か……三代目だったかしらのシュリータの時だったわ。ぐるっと一回りするだけでも、何日もかかるわよ」
肩をすくめるような風情でピシカが答えた。
「ひゃくねん。なんにちも」
彼女の言葉を繰り返しながら、ルゥナは恐る恐る片手を伸ばして、目の前にそびえる壁に触れてみた。
陽の光に温められていたそれは温かく、当然、硬い。
少し力を込めて押してみたけれど、びくともしなかった。
「そんなんで壊れちゃったら、大変でしょ?」
また、ピシカが呆れた声を出す。
「そう、なんだけど」
信じがたいものは信じがたいのだ。
シュリータの都をぐるりと囲んでいるのだというその壁が、石を積み上げて造られているのだということは、判った。遠くからでは気づかなかったけれど、近づいてみて気付いたのだ。
無数の、同じくらいの大きさに切り取られている、石。一つだけならルゥナにも持ち上げられるかもしれない――少なくとも、スクートやサビエにはできる筈。
そんなものが、上はルゥナの背丈の少なくとも五倍、左右は緩やかな曲線を描いてその果てを見ることができないほどに、積み上げられている。
けれど、どうやってそれが保たれているのかが判らない。
石を積んだだけでは、誰かが押したらすぐに崩れてしまうのではないだろうか。
不意に背中がゾクゾクして、ルゥナは壁に触れていた手を胸元に引き寄せて、数歩後ずさった。
そんな彼女の反応に、トールが笑う。
「あはは、あのね、これは石の間を特殊な泥で埋めているんだよ。湿っているとドロドロだけど、乾くと岩のように固まるんだ。石と石をがっちりくっ付けてね。一度乾いたらもう溶けることはないから、大丈夫、突然これが崩れ落ちてきて君が生き埋めになったりはしないよ」
トールの説明を聞いてもまだ信じられない気持ちで、ルゥナはまた壁を見上げた。そんな彼女の隣で、別の朗らかな声があがる。
「ふふ、すごいでしょう? わたくしも幼い頃に初めて見た時にはびっくりして泣きそうになりました」
振り向くと、そこには晴れやかなフロアールの顔があった。
「シュリータは、技術も文化も知識も、ルニアで一番進んでいますの。魔法を使える者はこの国にはほとんどおりませんが、その分、医療も道具も、発展していますわ。わたくし、医学を学びに何度か来させていただきました」
「え、でも……」
我がことのように誇らしげな笑顔のフロアールに、ルゥナはこれまでの行程を思い返して目を丸くする。
険しい山に、ヤンダルムの妨害。
そう何度も通れる道ではない気がするけれど。
ルゥナが首をかしげると、彼女の心の中の疑問を聞き取ったかのようにフロアールがかぶりを振った。
「海路がありますの。シュリータにはケイプタ、エデストルにはポルトという港町があって、数ヶ月に一回、定期的にゴルフ湾を横断する船が出ていましたの」
説明するフロアールに、サビエが付け加える。
「王族が乗るのは直行便だけどな、商船とかだったら、オプジティを中継するんだ。それぞれの国の特産品とかを積んで、相手の国で売るわけ。あそこだと、トルベスタの商人も足を伸ばすことがあるからな。直行で、追い風なら五日もかからない。眠ってる間も進んでくれるわけだから楽ちんだし、何より、海の風ってのは気持ちいいんだぜ」
「そう、なんだ」
得々と語るサビエに、ルゥナは目を白黒させる。彼が語った船の姿を脳裏に描こうとしたのだけれど、輪郭すら想像もできなかった。
そんなに色々と載せられるのだから、きっと大きな船に違いない。
そうは思っても、ルゥナの頭の中に思い浮かぶ『船』は、海岸沿いで魚を取る漁師たちが操る、一人か二人が乗れて、網いっぱいの魚を積める程度のものだ。
(多分、人もたくさん乗るんだよね……? 五人とか、かな。十人は無理だよね……)
ルゥナが知っている船を頭の中で大きくしてみても、ピンとこない。
首をかしげる彼女をよそに、サビエが更に続ける。
「エデストルからは毛皮とか、狩りで獲れた獣から加工したものが多かったかな。あとは、あの辺でしか取れない薬草とか……。で、シュリータからはなんと言っても塩だな。それと細工物。シュリータの髪飾りとか、女の子に贈るとすっげぇ喜ばれるんだよな。あ、そうそう、ケイプタからオプジティまでのシュリータ沿岸には小さい村がチョコチョコあって、そういう村が海で採るモノがオプジティで売られたりするんだ。食い物になる魚なんかだけじゃなくて、真珠とかキレイな貝とか。そういう、もう細工されちまった物じゃなくて、素材を欲しがる子もいてな。あ、シュリータにいる間にルゥナにも何か買ってやろうか。銀色の髪だから台座が銀で青い石の付いたのがイイかな」
色を確かめるように彼女の髪をすくい上げたサビエに、ルゥナはどう答えていいものか、判らない。
「え、え……?」
「いや、それにしても見事な銀色だよな」
その声がいつもの彼らしくなく少し沈んでいるような気がして、ルゥナは振り返った。その拍子に、サビエの手からルゥナの髪がサラリと零れ落ちる。
見上げた彼女に、サビエがにっこりと笑った。
「ディアンナ様――ああ、エディ様とフロアール様の母上なんだけどな、あの方もこんな色をしてるんだ。もう少しだけ、金色味が強いけど」
「二人の、お母さん?」
「そ、キレイな方だぜ。……今はマギクに囚われちまってるけど、そのうち、会えるよ」
常に変わらない明るく軽い調子にごまかされてしまうけれど、サビエだって、国を追われたのだ。それに、亡くなったベリートは、双子の父親だ。
ルゥナはそもそも親というものを知らない――覚えていないけれど、きっと、大事な存在なのだろう。
「うん……会ってみたいな」
微笑んで、ルゥナはそう答えた。
と、そこへ、鋭い声が投げ込まれる。
「おい、もう見学はいいだろ」
声の方向に振り向くと、何故か不機嫌そうに見えるエディがいた。
むっつりと引き結ばれているその唇に、ルゥナは少し怯んでしまう。
ルゥナに怒っているわけではない、と思う。けれど、彼女に向けられた彼の目には苛立ちがくすぶっているように見えたのだ。
(だけど、なんで……?)
困惑で眉をひそめてエディを見つめ返していると、彼はハッと何かに気付いたように唐突に目を逸らし、馬首を巡らせた。そんな主に、サビエが呟く。
「あらら、おかんむりだね」
サビエのすぐ前に座っているルゥナの耳にやっと届くほどのその声は、エディには届いていなかったようだ。彼は空を仰ぐと、ムスッとした口調で言う。
「門に行くぞ。じき日が暮れる。閉められちまう」
「はいはい、おっしゃる通りで」
「サビエ!」
やけに楽しそうなサビエに、エディの苛立たしげな声が飛ぶ。
(なんで? やっぱり、怒ってる?)
戸惑うルゥナの頭が、ポンポンと叩かれた。その手の持ち主、サビエが、苦笑混じりに言う。
「大丈夫だって、お嬢さんのことを怒ってるわけじゃないんだからさ」
「でも――」
「気にしなぁい、気にしない。ルゥナが気にすると、お坊ちゃまが落ち込んじゃうから」
益々もって、訳が判らなくなる。
眉根を寄せたルゥナの頭を、サビエがクシャクシャと掻き混ぜた。そうして、軽く手綱を振るって馬を進ませる。
目を上げれば、エディの背中があった。
スクートやサビエに比べたらまだ細いその肩には、必要以上の力が入っているのが明らかだ。
(エディって、よく解からない)
優しい人なのは確かなのだけれど、とてもぶっきらぼうだ。
それに、とても、頑張っている。
幾度か交わした言葉の端々に、気負いや迷いや、それ以外にもとてもたくさんの想いがにじみ出ていた。そしてそのどれもが、彼以外の誰かを考えてのものだ。
民のことであったり、死なせてしまったベリートという人の事であったり。
マギクに対してとても怒っているけれど、本当に、それが一番彼を苦しめているのだろうか。
マギクが、魔物が、憎くて憎くてたまらない。そんな憎悪と怒りが、エディの胸の内を焼いているのだろうか。
(だから、苦しいの?)
――何故か、ルゥナにはそう思えなかった。
他者を責めることができるのならば、苦しみはもっと和らぐ筈だ。
本当に責めているのはエディ自身――自分の無力さなのではなかろうか。
あるいは、放っておいたら薄れてしまう憎しみを、無理やり掻き立てようとしているからとか。
どちらにしても、きっと、彼の憎しみはどこか不自然なのだろう。
だから、苦しい。
ルゥナはそっと他の面々を見渡した。
多分、ルゥナが感じたことは間違っていないだろうし、スクートやサビエも薄々察している筈だ。
そう、エディが苦しんでいることを、従者二人も、フロアールも、トールも、きっと気付いている。
にも拘らず、ただ静観するだけなのは、それはエディ自身にしか解決できないことだと思っているからなのだろうか。
(だけど……)
ルゥナは、基本的に、人であれ動物であれ鳥であれ、何かが苦しんでいる姿を見るのが嫌いだ。
エディに対しても同じなのだけれど、何となく、他の人に対してよりも、少し強くそう感じるような気がする。
「何とかしてあげられたらいいな」よりももう少し強く「何とかしてあげたい」と思う。
(エディに、助けてもらったからかな)
もしかしたら、そうかもしれない。
あるいは。
(あの子を、思い出すからかな)
鮮やかな金色の髪と晴れ渡った空の色の目は、今は傍にいない、大事な大事なルゥナの半身を思い出させるのだ。昔々に、永遠に失われてしまった筈だと思っていた存在を。
刹那、パッと、ルゥナの頭の中に黒衣に包まれた男の姿がよみがえる。ヤンダルムで急襲してきた、異形の男だ。
全然、見覚えのない、その姿形。
それなのに、その気配に、彼女の心が震えた。
(あの人は、もしかして……)
「ねぇ、ピシカ」
そっと囁きかけると、薄紅色の耳がピクリと動いて片目だけが開かれる。
「――何?」
「あのね、あの……」
――あの人は、あの子なの?
その言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。
煮え切らないルゥナに、ピシカがムクリと起き上がった。
「何なのよ?」
「え、あ、その――何でもない」
煌めく金色の目から視線を逸らし、ルゥナはもぞもぞと小さな声でそう答える。そんな彼女に、ピシカはフンと鼻を鳴らすと、また顔を伏せてしまった。
自分の考えていることが正しかったとして。
もしもそうなら、と考えても、ルゥナにはその事実がこれからのことにどんな影響を及ぼすことになるのか、さっぱり予想ができなかった。