寛恕
何からどう話せばいいのだろう。
エディはルゥナを前にして、すぐに切り出すことができなかった。
エデストルを追われて、ベリートを喪って、魔物と戦って――双子たちや妹と共に旅に出てからまだ二月と経っていないというのに、とても多くのことがあった。
エディは膝の上に置いた両手をきつく握り締める。
(俺はエデストルの王子だ)
それは、生まれてきた時から決まっていたこと。
だが、立て続けに起きた出来事の中で彼が実感したのは、自分に何の心構えもできていなかったという事だった。
各国の王族は『英雄』の子孫。
そんなお伽話が現実になって痛感したのは、自分にはそんな気構えも強さもないという事だったのだ。
(俺がマギクや魔物と戦うのは、国の為だ。父上の仇を討って、母上と国を取り戻して――)
それから、どうする。
そうしたいと思っている自分の胸の中にあるものは、一体なんなのだろう。
一番強いのは、憎しみの筈だ。そして、義務感。
父とベリートを殺され、国を奪われたから、魔物とマギクが憎い。
自分はエデストルの王子であるし、二人の、そして戦って散っていった多くの兵達の為にも、奴らを倒さなければならない。
かたき討ちと祖国の復興。
それが、彼の『戦う理由』だった。
エディは目の前の儚げな少女を見つめる。
ピシカの言葉を信じるならば、ルゥナは古の『英雄』そのものなのだ。全く、そんなふうには見えなくとも。
人が戦いを決意する理由には、どんなものがあるのだろう。
エディの中に根を張っているもの以外に、どんなものが。
「君は、なんで邪神封じに力を貸そうと思ったんだ?」
彼のその問いかけに、いったい他にどんな質問に身構えていたというのか、ルゥナが大きく瞬きをする。
「え?」
ルゥナにとっては予想外のもののようだったが、それは、ピシカから彼女の秘密を聞かされた時から、ずっとエディの胸の中に凝っていた疑問だった。
ルゥナは、見るからに非力な少女だ。確かに癒しの力はけた外れだけれども、邪神と対峙するような強靭さを持っているとは思えない。それに、ピシカの話では、かつてルゥナが所属していた世界は、彼女にとって優しいものではなかった筈だ。
そんなものの為に、何故戦おうと思えたのか。
(ルゥナにとって、世界は『敵』にも等しかったんじゃないのか?)
ピシカは、ルゥナは二日と同じ場所には留まれなかったと言っていた。一度などは捕らえられて、幽閉されて、役立たずだと判断されたらボロ布のように打ち捨てられたのだと。
そんな暮らしはつらかった筈だ。
そんな目に遭わせる人々を、憎んだ筈だ。
――それなのに、それでも人々を救う為に力を尽くそうと思えたのは、何故だったのだろう。
ルゥナに恨みを忘れさせたのは、何だったのか。
エディは、それを知りたかった。
「確かに邪神の力は恐ろしいけど、君自身の為には、別に協力しなくても構わないんだろう? その力がルニア全土に及ぶまでに数十年はかかるから、邪神から遠く離れた場所に逃げてしまえば、君は天寿を全うするまで問題なく生きていけたはずだって」
ピシカは、そう言っていた。必ずしも、ルゥナが力を貸す必要はなかったのだと。彼女が自分自身のことだけ考えて逃げ出したとしても、誰に責められるものでもない。皆、自分自身が可愛いに決まっている。ましてや、自分を虐げていた者の為に力を差し出すだなんて。
食い入るように見つめるエディに、ルゥナは少し困ったような顔で微かに首をかしげた。銀髪が、サラリと肩から落ちる。
「でも、放っておいたら、大変なことになるでしょう?」
「君には関係ないことじゃないか。実際、見てみろよ。君がいた頃から、百年以上が経っているんだろ? だけど、世界は大丈夫じゃないか」
言いながら、何となく、エディは腹立たしくなってくる。
ルゥナは華奢だ。一つか二つ年下のフロアールと、そう変わらない体つきをしている。そんな彼女に戦えだなんて、そもそも何かがおかしい。間違っている。たとえ彼女が拒んだって、きっと誰も責めやしない。
「自分にひどいことをした奴らなんて、どうなったっていいじゃないか。何で助けようだなんて思えるんだ?」
苛々と、彼自身が気付かないうちに声が荒くなっていく。
エディは魔物もマギクも赦せなかった。憎いと思う。倒さなければならないと思う。
そう思うのに、彼の中の何かが揺らいでいた。そしてその揺らぎが、彼には気に入らない。まるで、自分から強さが失われていくような気がしてならなかったから。
「君は皆から追われていたんだろう? その力を狙われて、道具みたいに扱われて。何でそんな奴らの為に戦おうとなんて思えたんだ?」
ぶっきらぼうにそう問いを投げたエディを、ルゥナがキョトンと見返してくる。何故そんなことを訊かれるのか、さっぱり解からないというように。
そうして、彼女が答える。
「だって、助けてくれた人もいたもの」
「え?」
エディは眉をひそめた。そんな彼に、ルゥナは続ける。
「追いかけてくる人の方が多かったけれど、でも、助けてくれる人もいたのだもの。かくまってくれたりとか、寒い日に温かなご飯を食べさせてくれたりとか。エディが言うように、閉じ込められて、死にそうになってる人を治せって言われたこともあるし、わたしを捕まえようとして追いかけてくるたくさんの人から、ずっと逃げてた。でも、そういう人がいたからって、そうでない人まで嫌うことなんてできないもの」
「だけど、嫌な奴の方が多かったんだろ?」
「それは、そうだけど――どちらが多くてどちらが少ないっていう問題じゃないから……百人のうちに一人優しくしてくれる人がいたら、わたしにはその一人が他の九十九人よりも大事なの。それに、人だけじゃないでしょう? ルニアには、鳥も、動物も、木や花もいるのよ? わたしは、みんな、好き。邪神の力は人間だけに及ぶわけじゃないから、やっぱり、何とかしたいと思うの」
ルゥナの表情は気負っていたり悲壮であったりするところは欠片もなく、ただ、単純に心の底からそう思っているだけのようだった。エディにはそれが理解できなくて、呻くように言う。
「俺は、マギクを許せない」
強い口調で言い放ったその台詞に、夜空を思わせるルゥナの瞳が悲しげに曇った。
彼女のその眼差しの陰りにエディの胸がチクチクと痛み、誰にともなく言い訳がましい思いを抱いていてしまう。
(当然だろう? あいつらは敵なんだから)
マギクも魔物も、敵――敵は、赦してはいけないのだ。
それなのに、魔物を切り捨てた時の感触が、いつまで経ってもエディの手のひらから消えていかない。刃が肉を切り裂く感触も、生温かい返り血が頬に飛んだ感触も。
戦う以上、自分が殺されない為に相手を殺すのは当たり前だ。
だが、ただただ命を奪うだけの剣は、やけに重く感じられたのだ。
――まるで、そうすることに彼自身がためらいを覚えているかのように。
(ためらい? いや、まさか)
そんな筈はない。
エディは何度も何度も自分自身に向けて繰り返してきた。
魔物は、敵だ。マギクと共に、父やエデストルの兵士達の命を奪った輩だ。
それを斃すという事は、敵を討つことに等しいのだから。
(じゃあ、何故、俺はこんなふうにグダグダ考えているんだ?)
判らない。色々なものが入り混じっているようで、エディには何も判らなかった。
そんな彼の心中に気付いているのかどうなのか、ルゥナが口を開く。
「マギクも、仲間なのよ?」
おずおずとした囁きに、エディの頭にカッと血が昇った。つい先ほど、ルゥナの悲しげな顔を見た時に後ろめたさのようなものを覚えてしまった反動で、必要以上に強い口調で言い返してしまう。
「あいつらの方が先に裏切ったんだ! 父上を殺して、エデストルの国土を踏みにじった! 俺に力があれば、こんな所に来るまでもなくあいつらを叩きのめしてやれたんだ! ベリートだって、俺に力がないからってあんなふうに命を捨てやがって――父上亡き後、俺が皆を守らなくちゃいけなかったんだ。なのに……なのに――ッ」
吐き捨てるように口走り、エディはハッと息を呑む。
(なんで、ベリートのことなんて……)
ベリートは我が身を捨てて、エディたちを逃がしてくれたのだ。
それなのに、今の彼の言葉の裏にあるのは、明らかな怒りで。
何故そんなふうに感じてしまったのか――戸惑いを含んだ視線をルゥナに向けると、彼女は全てを呑み込む湖面のような眼差しをエディに注いでいた。吸い込まれそうな穏やかなその瞳に、エディは言葉を失う。
「あ……俺は……」
二の句を継げない彼に、ルゥナがそっと囁く。
「エディが赦せないのは、誰?」
「え?」
「エディが怒っているのは、誰に対してなの? 邪神? 魔物? マギクの兵士? マギクの王様? ベリートさん? それとも……あなた自身?」
「俺?」
眉をひそめたエディに、ルゥナはコクリと頷いた。
「わたしには、あなたが誰よりもあなた自身を責めているようにも見える。何故?」
そう問いかけられても、エディには答えられなかった。彼にそんなつもりはなかったから。
視線を揺らすエディに、ルゥナはヒタリと真っ直ぐな目を向ける。
「出会った時は、ただ、怒ってた。でも、今はそれだけじゃないような気がするの。何か――迷ってる? ……いつから? ピシカから、話を聞いた時から?」
ルゥナの囁きは、まるでエディの心の中を覗き、絡まった何かをほぐそうとしているかのようだった。
(俺が? 迷う?)
エディは胸の中で繰り返す。
よく、判らなかった。だが、ルゥナが言うとおり、国を追われた時にはなかったモヤモヤが、今は彼の鳩尾の辺りに渦巻いている。
これが、ルゥナの言う『迷い』なのだろうか。
だとすれば、それがエディの中に居座るようになったのは、いつからだろう。
(ピシカの話を聞いた時――?)
いいや、違う。
アレがきっかけではない。
「……俺は、魔物もマギクも、憎いんだ」
ポツリと、エディは言う。ルゥナは微かに首をかしげて、彼を見つめたままその声に耳を傾けている。
「確かに、憎いと思ってたんだ。だけど……」
エディは唇を噛み締め、膝の上に置いた両手のひらに目を落とす。
異形のモノどもを殺した時に胸の内に込み上げてきた嫌悪感は、なんだったのだろう。
いくらでも殺せると思っていた。
殺してやりたいと思っていた。
それなのに。
「俺は、弱い」
ギリ、と奥歯が軋む耳障りな音が響く。握り締めた掌に爪が食い込んで痛みを覚えたが、力を緩めることはできなかった。
「俺は、強くなりたいんだ。ためらわずに戦って、皆を守って……」
脳裏に浮かぶのは、父の姿だ。父レジールが戦場で剣を振るう様を目にしたことはなかったが、きっと、エディのように臆病風に吹かれることはなく、勇猛に戦ったに違いない。スクートとサビエだってそうだ。金色熊の巨体を前にして、怯むことなく跳び込んでいき、何のためらいもなくアレを下してしまったではないか。ヤンも、嬉々として、あの魔法を操る男に向かっていった。
確かに、ヤンダルムで魔物たちに襲われた時、エディもかかってくる奴らを斃すことはできた。身体は、動いた。だが、気持ちは負けてしまっていたのだ。殺すことに対する嫌悪感で、柄を握った手が震えそうだった。
糧にするわけでもなく、ただ、朽ち果てさせる為だけの殺し。
何の意味もない、死。
それを自らが生み出していることが、嫌だった――そう思ってしまう弱さが、エディは疎ましい。
と、不意に、微かに空気が動く気配がした。目を上げるとすぐ傍にルゥナが立っていて、彼女はふわりとエディの前に膝をつく。そうして、握った彼の拳に、小さな手のひらを重ねてきた。柔らかくて、ほんの少しひんやりとしたその感触に、思わず肩に力が入る。
緊張を走らせたエディには気付いたふうもなく、ルゥナが彼の目を覗き込んできた。
「エディは、彼らを傷付けたくないと思ったの?」
図星を刺されて、エディの頬がカッと熱くなる。それは、戦士として恥ずべきことだった。顔を赤くした彼に、ルゥナが柔らかな笑みを浮かべる。
「それは、弱さなのかな」
「……どういう意味だ?」
「わたしには、それも強さに思えるの」
「どこがだ」
吐き捨てるように答えたエディに、ルゥナが頭を傾ける。銀髪がサラリと音をたてて流れた。そうして、彼女は彼を真摯に見つめてくる。
「エディの中では、命を慈しむ気持ちが、憎しみよりも強かったんじゃないのかな。何かを慈しんで、大事にしたいと思う気持ちは、弱さではないでしょう?」
「俺は、躊躇いなく戦えるようになりたいんだ。殺すことに怯みたくない」
「それが、強いということ?」
「そうだ……そうだろう?」
エディは、問い掛けた。断定しようとして、静謐なルゥナの眼差しの前で、不意に自信が無くなったのだ。
彼女は一度口をつぐみ、そしてまた開く。
「呵責なく奪えることが、強いということなのかな」
「え?」
「あのね、わたしは、フロアールのことを強いと思うの」
唐突に出てきた妹の名前に、エディは眉根を寄せる。
「あいつが?」
「そう」
ルゥナがコクリと頷いた。
「あのね、わたしはこの世界で目覚めて、とても不安だったの。さびしくて怖くて、ピシカと二人だけだったら、潰れてしまったかもしれない。でも、フロアールがいつも笑いかけてくれて……フロアールは戦う力なんてないけど、わたしを守ってくれたわ。フロアールだって、お父さんを亡くして、不慣れな旅で、つらかったはずなのに。いつも、わたしや他のみんなに力をくれる。わたしは、フロアールのことを、とても強いと思うの」
ルゥナの眼差しをまともに受けて、エディは胸の内で彼女の言葉を反芻する。
(それが、強さ……? そんなのを強さと呼べるのか……?)
彼は無意識のうちにギュッと唇を引き結んだ。それを目にして、ルゥナが曇った微笑みを浮かべる。そして、唐突に言った。
「ごめんね」
「え?」
なんの脈絡もない謝罪に、エディは眉をひそめる。そんな彼に、ルゥナが更に言葉を継いだ。
「エディが今そうやって苦しんでいるのも、トルベスタやヤンダルムが襲われたのも、みんなわたしが失敗したからなの」
「は? 何を――」
「あの時、わたしがちゃんとやれていれば、今、こんなふうにはなってなかった。魔物もいなかっただろうし、マギクが追い詰められてしまうようなこともなかったはずなの」
「そんなの、君が負うものじゃないだろ」
とっさにルゥナの手を握り締めてそう声を荒らげたエディに、ルゥナは小さく笑う。
「でも、わたしがやるって言ったことだもの」
キッパリと、そう言った。ルゥナは柔らかな笑みを浮かべているのに、このことに関しては一歩も譲りそうになかった。
(フロアールのことを『強い』というなら、ルゥナも『強い』んじゃないのか?)
だが――
エディはむっつりと唇を引き結ぶ。
「百五十年前の『英雄』たちが君みたいな人を仲間にしていたことが信じられない」
やっぱり、どう考えたって、ルゥナは戦い向きじゃない。こんな、吹けば飛ぶような少女ではなくて、もっと大きくて頑丈で強い者がその役割を担うべきだった。
奇妙な憤りを覚えて黙り込むエディの前で、ふとルゥナが肩を落とす。何故か、悲しげな顔で。
「うん……そう、だね」
彼女のことを傷付けた、とエディは直感した。
けれど、自分の言葉のどこが彼女に刺さってしまったのかが判らない。
どちらも口を開くことができなくて、目を逸らし合って沈黙する。
やがて静寂を破ったのは、ルゥナの方だった。
「あ、もう、お部屋に戻ってもいいかな? ほら、明日も早いし、もう寝ないと……」
そう言いながら、ルゥナが手を引っ込めて立ち上がる。甲から彼女の温もりが遠ざかり、エディは無意識にそこを撫でた。そして、頷く。
「あ、ああ……ごめん、時間を取らせて」
「おやすみなさい」
ルゥナは後ずさるようにして扉に向かうと、薄く開けたそこからするりと抜けだしていった。
シンとした部屋に一人残され、エディは彼女の態度が急変したことに眉をしかめる。
(何なんだ、急に?)
ただ、あんなか弱げな少女が大変な目に遭わなくてもいいだろう、と思っただけだ。そして、それをそのまま口にしただけ。
「なのに、なんで落ち込むんだ? ――あ……っと、しまった」
もう一度呟いたエディは、ルゥナにはもう一つ訊きたいことがあったことを、思い出す。
ヤンダルムで遭遇した、男――強大な魔法を操っていたあの男が、何故、ルゥナのことを求めたのか。その声から溢れ出していたのは、切望だった。
ルゥナは、今の世界に親しい者はいない筈だ――ピシカ以外は。
「ルゥナと同じように、百五十年前の者、とか……?」
彼女が存在している以上、それもあり得る。
何故か彼は、ルゥナを求めていた。きっと、また来るだろう。
ピシカとルゥナから話を聞いても、さっぱり疑問が解けた気がしない。
エディはドサリと寝台に身を投げ出した。
色々、考えなければいけない。考えて、自分の中の混乱したものを整理しなければ。
だが、それを成し遂げるのが簡単な事のようには、思えなかった。
エディは天井に向けてため息をつく。
しばらくは木目を睨み付けていられたけれど、やがて、彼の意識は深い眠りの中に沈み込んでいった。