凶報
予想だにしなかった報せに、エディもサビエも、そしてベリートですら、絶句した。そんな彼らに、それをもたらしたスクートが苛々と馬首を翻す。
「それは、確かか」
一瞬遅れて我に返ったベリートが、息子に鋭い眼差しを向けた。スクートは顔を強張らせて小さく頷きを返す。
「多分、少なくとも兵の半分はこちらに向けているのではないかと思われます」
「だけど、そんな、まさか! マギクは同盟国だろ!?」
エディは愕然として喚いた。信頼する者からの言葉でも、即座に呑み込める内容ではなかった。
マギクとエデストルが同盟を組んでから、すでに七年になる。その間、両者の関係が揺らいだことは一度もなかった。惜しみなく力を貸すエデストルにマギクは常に感謝の念を露わにし、二心を抱いている素振りなど、毛筋ほども見せたことがなかったのだ。
それが突然旗を翻して刃を向けてくるとは。
(父上は――戦場にいるみんなは、どうなったんだ……?)
マギクがこんなことをするなど、何か大きなことが遠い地で起きたことは、間違いない。
「まさか……」
エディの頭の中に、最悪の事態が思い浮かぶ。
誰よりも強い父が敗れることなど、有り得ない。聖剣の使い手ではなくなっても、レジールの強さは比類なきものだ。
しかし――
「お兄様、しっかりなさいまし!」
すかさず飛んだフロアールの叱責に、エディがハッと息を呑む。彼女の言葉を支えるように、スクートが続けた。
「城はマギクの魔法兵たちによって攻撃を受けました。前線に赴いているレジール様とは連絡が取れません」
「城が……って、母上は!?」
「ディアンナ様は城に残られ、兵を指揮されています」
「兵って言ったって、城にはたいして残っていなかっただろ?」
サビエがやはり硬い顔で呻いた。
今まで、城の守りを固める必要など、なかったのだ。
エデストルの北にあるマギクとは、同盟を結んでいた。東方で接している聖弓の国トルベスタとは、公私ともに友好な関係を築いている。西は広大な平野が続いており、その先は海で脅威となるものはいない。南は険しい山脈が天然の要塞となっていて、そこを越えてきた者は未だかつて存在していなかった。
国内に目を向けても、王の不在に乗じて城を攻めようなどという愚かな者はいない。レジールは武将として恐れられ、王として慕われているのだから。
『敵』はマギク国の北の彼方だけに存在し、このエデストルが攻撃を受けることなど、まったく想定していなかったのだ。
マギクもそうだが、エデストルは何万もの兵士を抱える大帝国ではない。民は皆優れた剣の使い手だが、戦える者を全て集めたとしても、せいぜい二万。兵士として戦いに身を置いている者は二千そこそこだ。押し寄せる魔物たちに抗するには中途半端な力では足りず、その二千の殆どがレジール王と共に出征しており、城に残っているのは近衛兵だけだった。
母と兵達がマギク兵の攻撃に必死に耐えている姿を思い、エディは目がくらみそうになる。優しくたおやかな母は、冬息絶えた蝶を見ても悲しそうな顔をするというのに。
(そんな母上が、兵の指揮を?)
エディは怒りで頭が爆発しそうになる己を叱咤し、スクートに目を向ける。
「マギクは魔物と手を組んだということなのか? それとも、マギクも父上も魔物たちに屈したということなのか?」
「判りません。ただ明らかなのは、魔法兵たちが我が国にその力を向けているということ、そして、すぐにここにも追手が現れるだろうということです。早く動かなければ」
冷静さを取り繕おうとしたエディの付け焼刃の仮面は、スクートのその言葉であっという間に剥がれ落ちた。
「母上を――城を放っては行けないだろ! 俺は戻る!」
言うなり手綱を打ち振ろうとしたエディの腕を、サッと横から伸びてきたベリートの手が掴んだ。
「戻ってどうなると? 今はここを離れてトルベスタに向かいましょう」
「何を言ってるんだ? ダメだ! 母上を助けなければ!」
彼を振り払おうとしたエディだったが、鋼のようなその手はビクともしない。
「放せ、ベリート! 命令だ!」
「なりません!」
「ベリート――!」
カッと眉を逆立て更にベリートに抗おうとしたエディを制したのは、鋭くとがった妹の声だ。
「お兄様、お母様からのお言葉です。聖剣の護り手であることを忘れるな、と」
「何?」
振り返ったエディはそこに蒼褪めたフロアールの顔を見た。頭に昇りきっていた血が、少し降下する。妹のその淡い水色の目は、母である王妃ディアンナと同じ色だ。その目で見据えられ、エディはまるで母に叱責されているような心持ちになった。
「フロアール……」
「今の『印』の持ち主は、お兄様です。お兄様が喪われるようなことがあってはならないのです。何を一番に優先すべきなのか、お判りにならないわけではないでしょう?」
震える声からは、彼女自身が今すぐ母の元に駆け戻りたいのを我慢している気持ちがありありと伝わってくる。
母の、そして妹の言葉に、エディはハッと息を呑んだ。
『印』――神器の使い手の証。今ほど、その存在を実感し、疎ましく思ったことはない。
思わずエディは自らの額に手をやり、そこに刻まれているものに触れた。見えるわけでもなく、熱を持っているわけでもない。だが、ドクドクとそれが脈打っているように感じられる。
これまで、エデストル国内に限らずどの国でも、『印』を刻まれた者がそれを次世代に引き継ぐ前に命を落としたということは例がなかった。もしかしたら、エディが死ねばフロアールに移るのかもしれない。だが、何ら確証がないことを試してみるわけにはいなかった。
双子とその父親は、黙ってエディを見つめてくる。彼が正しい決断を下すのを待って。
「――クソッ!」
エディが小さく毒づくと、それが合図になったかのようにベリートが手を放した。そうして、静かな声で言う。
「王妃様も、我々が逃げおおせたと思われれば、それ以上の抵抗はなされないでしょう。仮にも七年を共に戦ってきたのです。王妃様が降伏なさればマギクも武器を収める筈です。王子と姫が一刻も早くマギクの手から逃れること、それが王妃様や城の者を救う唯一の手です」
「……判った」
ボソリと、エディは答える。甚だ不本意この上ないことだが、ベリートの台詞は一理あるように思われた――もしかしたら、そうであって欲しいという希望的観測が過分に含まれているのかもしれないが。
固唾を呑んで動向を見守っていたサビエが、そこで口を開いた。
「だけどよ、剣は――聖剣はどうするんですか、父上? 置いていくわけにはいかないでしょう?」
眉をひそめてそう問い掛けてきた息子に、ベリートは微かに笑って答える。
「あれはそう簡単に見つからない。王妃様ですら、どこにあるのかご存じないのだ。そうでしょう、エディ様?」
「ああ」
エディは頷いた。ベリートの言葉通り、聖剣は城の奥深くに隠されている。隠し部屋の場所もその開き方も、『印』の所有者のみに引き継がれる。今それを知っているのはレジールとエディだけだ。
「聖剣は安全です。まずはトルベスタに行き、ラープス王に助力を願い出ましょう」
「そう、だな」
ベリートの提案に、エディの顔がわずかに明るくなった。
ラープスとレジールは個人的にも親しい友人だ。きっと力を貸してもらえる。
不測の事態に真っ暗闇に落とされていたエディの胸に、微かな希望が見えてきた。トルベスタに力を借りて城を奪い返し、そして、父を助けに行く。レジールがそう簡単に敗れる筈がない。きっと、今この時も、魔神のように剣を振るっているに違いないのだ。
顔を上げて一同を見回したエディは、もう一度、はっきりと頷く。
「トルベスタに行こう」
エディの決断に、皆がわずかに緊張を緩めた、その時だった。
ハッとベリートが背を強張らせ、振り返る――先ほどスクートが駆けてきた、その方向を。
「来たか」
彼のその呟きが意味するところは、「何が」と問わずとも明白だった。まだ姿は見えないが、どこか空気がざわついている。複数の気配が近付きつつあるのだ。
「チュネル渓谷の隧道を抜けます」
そう言い置き鋭い一声で馬を駆けさせたベリートに、即座にエディたちも続く。速度を上げながら、父に並んだスクートが眉をひそめて問いかけた。
「しかし、父上……追手がある状態であの道は、危険では?」
「だが、街道大橋を渡るにはエトルの方に戻らねばならぬ」
トルベスタとはエデストルの東を流れるラウ川を挟んで接している。国境を越えるには、下流にある整備された街道を通るのが最も安全かつ無難な方法だ。だが、それには首都エトルに向かうことになり、マギク兵が溢れる中を突っ切らなければならない。
上流に行けば川幅が狭くなり、橋がなくとも渡れる箇所がいくつか出てくる。チュネル渓谷には天然の隧道があり、そこを通ってラウ川の上流に出ることができた。しかし、狭く暗く足場は悪く、そう易々と行ける道ではない。その上、今はマギク兵が迫ってきていた。
「隧道の中で魔法を使われれば、崩落するかもしれません」
スクートはマギク兵の力を思い、眉間に皺を刻む。
マギクが祀るのは、聖なる魔道書。その国の兵士は、皆、魔法を使う。
他の国にも稀に魔法を使える者が生まれることはある。だが、それはごく少数で、たいていの場合、遡るとマギクの血が混じっている。たとえばディアンナは治癒の魔法を使えるが、それは彼女がマギク国の貴族の娘だからだ。しかし、マギク国の血が入れば必ず魔法が使えるわけでもない。フロアールはディアンナと同じく治癒魔法の使い手としての頭角を現しつつあるが、エディにはその素質が全くなかった。
エデストルの者がマギクの兵士と戦ったことはない。だが、その力は戦場や合同訓練などで目の当たりにしていた。
発現させるのに若干の時間的猶予が必要だが、いざその力が放たれれば破壊力は剣や弓の比ではない。隧道の壁を壊してエディたちを生き埋めにするなど、造作もないことだろう。
マギクが『印』の所有者であるエディをどうするつもりなのか判らない限り、彼の命を脅かす可能性があることをするのは危険この上ないと思われた。
だが。
「大丈夫だ。手はある」
真っ直ぐに前を向いたまま、ベリートはスクートの懸念を一刀のもとに切り捨てる。彼の顔にも声にも、自信が溢れていた。
百戦錬磨の父の考えに、間違いはない筈だ。そう信じながらも、サビエとスクートはどこか不穏な気持ちを抱いて互いに顔を見合わせた。