邪神
忙しなく、あるいはのんびりと道を行く人々に威勢のいい声がひっきりなしにかけられ、言葉巧みに店先に並ぶ商品を売り込んでいる。
いかにも食欲をそそる肉の串焼きの香ばしい匂いが、先を急ぐ足すら引き止めた。
そんなオプジティの大通りを、ようやくヤンダルムの脅威から解放されたエディたち一行が、胸を撫で下ろしながら歩いていた。
「何だか、目が回りそうなにぎやかさですのね」
フロアールが並ぶ露店をキョロキョロと見渡しため息をつく。彼女と手をつないでいるルゥナは、言葉もないようだ。こくこくと頷いて、目を丸くしている。
「オプジティは港もありますから、シュリータとエデストルを繋ぐ海路の中継点にもなっているんですよ。その上、ヤンダルムも手を出してきませんからね」
久しぶりに眉間の皺を浅くしたスクートが、少女二人にそう説明した。
オプジティは自治を許された村だ。
港を有していているというだけでも栄える要素は十二分にあるが、何より、ヤンダルムからも一目置かれているという事が、何よりの強みだろう。
オプジティは広がりのない村だ。人が十人ほど並んで歩けそうなほどの幅がある本通りの両傍に、まるで壁を作るかのように建物が築かれている。
店、道、店。
一刻もあれば端から端まで歩き切ってしまいそうなほどの大通りと、店。
それだけで構成されている村だった。
並ぶ建物は殆どが旅人の為の宿ばかりで、『店』も三日もすれば入れ替わる露店ばかりだ。定住する者は多くなく、村としての規模は大きくないのだが、活気という点からいえば首都並みにある。
道が広くても人の数も多いから、ともすれば、ルゥナやフロアールはどこかに押しやられてしまいそうになった。
「ちゃんとついてこいよ?」
スクートの長衣にしがみ付いているフロアールはまだいいが、ピシカを両腕で抱えているルゥナは、危なっかしいことこの上ない。
今もそうやってエディが声をかけるまで、じわじわと一行から距離ができ始めていたのだ。
「あ、あ、ごめんなさい」
そう言いながらよろよろと駆け寄ってこようとしているルゥナに、エディは手を伸ばしてやりたくなった。が、彼がそうするより先に、サビエがサッと彼女の肩に手をまわしてしまう。
人並みから庇うようにグッとサビエに引き寄せられて、ルゥナははにかんだ笑みで彼を見上げていた。
「ありがとう」
「どういたしまして……あれぇ、エディ様? 何かお気に召しませんか?」
何となく面白くない気持ちで二人の様子を横目で眺めていたエディに、サビエがにんまりと笑った。その笑顔が、これまた妙に気に障る。
「はあ? 別に?」
ぶすりとそう答えて、エディは視線を正面に戻した。不愉快だったが、何がそんなに不愉快なのか、判らぬままに。
前を向いたエディの耳にククッと小さな忍び笑いが届いたが、歯を食いしばってそちらを睨み付けたくなるのを我慢した。反応したら、余計にサビエがいい気になるのは判りきっていることなのだから。
「さて、宿はどこにしようか」
主従の間のそんなやり取りに気付いているのかいないのか、道の両脇に並ぶ高低様々な建物を見渡し、トールが首をかしげる。
「この人数だと何軒かに別れないとかな」
「そうだな……できれば同じ宿屋がいいけどな」
絶えず誰かと接触せずにはいられない人の多さに辟易しながら、エディも頷いた。
宿はたくさんあるが、それ以上に、それを求める人の数の方が多そうだ。二部屋も三部屋も空いていそうになかった。
否定的な主二人に対して、バニークが前向きな意見を口にする。
「もっと大所帯の隊商もいるでしょうから、いくらでも部屋はあるでしょう」
現実的だが無粋な彼に、トールはかぶりを振る。
「そういうのは、大きな部屋にひとまとめでごろ寝だろう? 女の子にそんなことはさせられないよ」
呆れた声でそう言ったトルベスタの王子に、今度はフロアールが声を上げた。
「あら、わたくしたちなら、構いませんことよ? 今までだって、野宿では皆一緒でしたもの」
ねえ? と彼女は隣の少女にも目で同意を求める。それに応えてルゥナも頷いた。
「野宿では選択肢がないから仕方がないけど、宿に泊まるならそういうわけにはいかないよ」
渋い顔のトールにフロアールが更に言い募ろうとするのへ、サビエが割って入る。
「まあまあ、オレとスクートで手分けしていくつか当たってきますよ。最低、野郎どもとお嬢様方を分けられればいいんですよね?」
自分の馬の手綱をバニークに手渡し、腕の中のルゥナをエディに押し出しながら、サビエがスクートに振り返った。
「行こうぜ、兄貴」
「ああ」
頷き合った双子は、二手に分かれて人混みの中に消えていった。
*
「さて、じゃあ、取り敢えず屋根のある所に落ち着けたことだし、腰を据えて話を聞かせてもらおうかな」
幸運なことに、宿は一軒で三部屋を確保することができた。
夕食を終えた一同は、今、その三部屋のうちの一つに集っている。
そうなるように意図したわけではないのだが、膝の上に丸まったピシカをのせて寝台に座っているルゥナと向かい合い、彼女をグルリと取り囲む形で他の面々は座っていた。
真っ先に切り出したのは、トールだ。
(まあ、当然だろうな)
エディは内心でそう呟く。
ヤンダルムを逃れてオプジティに辿り着くまでは、皆無難な会話で過ごしていたが、誰の胸にも疑問が渦巻いていたのは、火を見るよりも明らかだった。
ルゥナと彼女の膝の上の猫が、顔を見合わせる。
思えば、ピシカは猫らしくない猫だった。ヒトの言葉をしゃべるのを耳にする前から、違和感はあったのだ。気付いていても、無視していただけで。
六人の視線を浴びて、ピシカが小さくため息をつく――人間臭く。
「まあ、いいか。何度も説明するのも面倒だから、全員を揃えられてからにしようと思ってたんだけど」
猫が人語を口にしても、もう誰も驚きはしなかった。
「で? 実際のところ、君は何なのかな? 少なくとも、猫じゃないのは確かだよね。猫は喋ったりしないから」
トールの口調は柔らかいが、その眼差しは鋭い。
ルゥナの膝の上で、ピシカの尾がぱたり、ぱたりと寝台を叩くように揺れる。
彼の問いに答えたのは、薄紅色の仔猫ではなかった。
短い沈黙の後に、意を決した、という風情でルゥナが顔を上げる。そうしてグルリと皆を見回し、澄んだ声で言う――ほんのわずかな迷いもなく。
「ピシカは、神さまなんです」
すぐには、誰も何も言わなかった。
シンと静まり返った中で、六対の視線を注がれてもルゥナは真っ直ぐに背を伸ばしている。
ややして、エディが口を開いた。
「……かみさま?」
その声に彼女の言葉を疑う響きがあるのは伝わった筈だ。それでも、ルゥナは全く物おじすることなくコクリと頷いた。
「そう。わたしたちを、助けてくれるの」
そう言って、膝の上のピシカを見下ろして微笑む。
ルゥナの目の中には、信頼の色だけがあった。だが、小さな猫を差し出されて「はい神様です」と言われて「そうですか」と即座に頷けるものが、いったいどれほどいるだろう。
当然、エディたちも顔を見合わせて互いの考えを探った。そうして、確認の問いを発したのはトールだ。
「えぇっと、つまり――何から?」
今度はルゥナが訝しげな顔になった。
「もちろん、邪神よ?」
小さく首をかしげたその風情は、何故そんなことを訊くのと言わんばかりだ。
「その……仔猫が、どうやって?」
「あなたたちの先祖に『印』を刻んだのはピシカなの」
また、沈黙。
エディたちとしてはもっと説明があるかと思っていたのだが、ルゥナの方は彼らが質問するのを待っているようだ。しかし、質問しようにも何をどう突っ込んだらよいのかが判らない。
誰も何も言わずにいると、痺れを切らしたようにピシカが声を上げた。
「もう! 簡単に言っちゃうとね、大昔にこの世界に邪神が現れたわけ。それを封じる為にあんたたちの先祖に『印』を刻んだんだけどね、その時はちょっと問題があってうまくいかなかったのよ。ルゥナも行方知れずになっちゃったしねぇ」
「ルゥナが行方知れずって……ルゥナは関係ないでしょう?」
首をかしげたフロアールに、事も無げにピシカが返す。
「あるわよ。ルゥナが一番のカギだもの」
「? でも、その頃にはいなかったでしょう?」
妹も、以前のエディと同じような疑問を抱いたに違いない。
チラリとルゥナに目を走らせてから、フロアールが眉間に皺を寄せる。
ピシカの言葉を丸呑みするなら、ルゥナはその『大昔』にその場にいたことになる。だが、どう見ても彼女は十代半ばの普通の少女にしか見えないのだ。
そんなフロアールの疑問に気付いたのか、ピシカはパチリと瞬きをしてから、頷いた。
「ああ、そっか。いたわよ。ルゥナはその時から今まで、百五十七年間、眠ってたの」
「え?」
「ルゥナは過去の人間なのよ。御年約二百歳」
すでにそのことを聞かされていたエディ以外の面々が、ポカンとルゥナを見つめる。その視線に、彼女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「にひゃくって……二百?」
トールが繰り返す。彼に向けても、ピシカは頷きを返した。
「そう。封印されててね。まあ、その間眠りこけてたから、中身的には十四歳のままなんだけどね」
そう言って、仔猫がヒョイと器用に肩をすくめる。呆気に取られている一同を放ったまま、続けた。
「とにかく、百五十七年前に邪神を封じようとしてルゥナたちと英雄が集められた。でも、しくじった。ようやくこの子を見つけたから、もう一度邪神封じの旅に出発ってわけ。――簡単でしょ?」
「……簡単に言ってるだけで中身はちっとも簡単じゃねぇよ」
「ええ? これ以上ないほど、簡単じゃない」
面倒臭げなピシカのまとめに、サビエがため息混じりにこぼした。
「その邪神封じには英雄達全員の力が必要なんじゃないのか? マギクはエデストルを滅ぼした――敵だし、ヤンダルムはあの通り、さっぱりその気がなさそうじゃねぇか」
「あら、いざとなったら二人から『印』を消して、別の人間に刻むまでよ」
「そんなことができるのか?」
「当たり前でしょ? そもそも、アンタたちの先祖にアタシが付けたんだから。まあ、問題は、その適性を持った奴を、また探さなくちゃいけないってことかしらね。前はどのくらいかかったんだけ?」
ピシカがルゥナを見上げると、彼女は小さく首をかしげて少し視線を彷徨わせた。
「えっと……二年か三年くらい?」
「やっぱ、簡単じゃねぇじゃん」
サビエがぼそりと突っ込んだその一言は、ピシカに無視された。
他に質問はないの? と言わんばかりに一同を見回した仔猫に、スクートが口を開く。
「だが、実際のところ邪神の脅威というのは、何なんだ? 私達がこれまで暮らしてきた中で、それを被った記憶はないのだがな」
「何言ってんの、被害ありまくりじゃない」
「え?」
ピシカのひげがヒクヒクと動く。何で判らないのと言わんばかりに。
「アンタたちが言うところの、『魔物』よ」
「魔物……?」
「そう」
ピシカの尾がぱたりと上下する。
「邪神の力はね、生き物を変化させるの。ありとあらゆる生き物をね――アンタたちが『魔物』って呼んでるのは、邪神の力を受けて変性したヤツらなのよ」
室内が、シンと静まり返った。
そして、小さな咳払い。
「普通の鳥とか動物とかが、変わるの……?」
問いかけたのは、フロアールだ。
ピシカが彼女の方へ顔を向けて、頷くように瞬きをした。
「そう――元々、アレの力は『生き物をより強いモノに進化させる』ものなのよ」
「より強いモノに? ……それなら、別に悪い事じゃないだろう?」
今度はトールに目を移し、小首をかしげる。
「強すぎる薬は、毒になるでしょ? おんなじことで、アレの力を、この世界の生き物は受け止めきれないのよね。変わり過ぎちゃうの。個としての寿命も短くなるけど、その上、子孫を残せない。いずれ世界中に蔓延して、全ての生き物が壊れちゃう」
ピシカの言葉に、ふとルゥナが俯いた。その手が柔らかな慰めを求めるように、ピシカの背中にのせられる。微かに噛み締められた彼女の唇に、エディは、何故そんな顔をするのだろうと思った。
別に、邪神が生まれたことはルゥナの責任ではあるまいに。
他の皆の視線は彼女の膝の上の仔猫に集中していて、その膝の持ち主であるルゥナの様子には誰も気付いていないようだった。
苦しげな彼女に気付いているのは、エディだけだった。
「だけど、何であんたがそんなことを知ってるんだ?」
『神様』への敬意など微塵も感じさせない口調でそう訊ねたのは、サビエだ。
ピシカは彼に向けてツンと鼻先を上げた。
「知ってるからよ」
端的にきっぱり言い切って、あとは澄ましている。
ピシカにそれ以上答える気が無いのは明らかで、スクートとトールがやれやれというように顔を見合わせた。