談判
エディたちがヤルムに到着したのは、ルゥナたちに遅れること五日の昼過ぎだった。
ヤンダルムの民の住処は『建物』ではない。木や石を組み合わせて造るものではなく、岩山の中に広がる天然の洞窟を利用して暮らしていた。
エディたちは今、その洞窟の入り口がいくつも開いている岩壁の前に立っている。
一行の中の誰一人として、ヤンダルムの都の正確な位置を知る者はいなかったが、終始付きまとっていた速竜が導き手となってくれたのだ。
しかし、とエディは溜め息をつく。
「ヤンダルムはなんでこんな所に住んでるんだろうな」
ここに至るまで、楽な行程ではなかった。
ヤンダルムの土地は草木の生えない険しい山岳地帯で、平野が多いエデストルとは、全く違う。作物だって採れそうにないし、獣だって豊富とは言えない。住みづらい事この上ないだろう。
エディのぼやきにスクートが苦笑を返した。
「竜のことがあるから、ここから離れるわけにはいかないのですよ」
「竜、か……」
呟き、エディは空を見上げる。
足元が馬を駆けさせるには向かないものになっていくにつれ、空には背に人を乗せた竜の姿をしばしば見かけるようになってきていた。小さい影だが、ここまでエディたちが追いかけてきた速竜よりも身体つきががっしりしているのは見て取れる。恐らく剛竜なのだろう。
「竜騎兵って、結構いるんだな」
岩山の遥か上空を飛び交っている勇壮な姿に目を走らせて、エディは呟く。それを聞き付けたスクートが頷いた。
「そうですね、剛竜だけでも二百は下らない、と聞いたことがあります。竜を捕まえるのは大変ですが、一度慣らせば馬の数倍は生きますしね。普段は空に放して自由にさせているそうですよ。何でも、竜にしか聞こえない笛を使って、呼ぶのだそうです」
「へえ……」
エディは彼の声を耳から耳へと聞き流しながら相槌を打つ。
せっかくのうんちくだが、今は離れているフロアールとルゥナのことが気になって仕方がなかった。フロアールとルゥナ――特に、ルゥナの方だ。
フロアールは仮にもエデストルの王族なのだから、それなりの扱いをしてもらえるだろう。しかし、ルゥナはその保障がない。流石に、あんなひ弱げな少女を牢に入れたり鎖につないだりということは無いだろうが、力で物事を解決するのが信条の武骨なヤンダルムでは、丁重な世話など期待できない。
エディは目の前にそびえる岩壁を睨み付けた。
まるでヤンダルムの王そのもののような、巨大で頑強で荒っぽい岩の壁。首を限界まで後ろに反らしても頂上は見えず、左右を見渡しても果てが見えない。
「ヤンダルムの民は、あの洞窟の中で生活をしているそうです」
「あんな中で、なぁ」
「私も入ったことはありませんが、そう聞いています」
少女たちが薄暗い洞穴の中で心細い思いをしているかと思うと、エディはいても立ってもいられなくなる。
「グズグズしてられない。さっさとヤン王を呼んでもらおう」
エディはそう言い、馬から降りる。鞍の上からピシカを抱き上げようとしたが、彼の手を借りることなく彼女はひらりと地面に飛び下りた。
「アタシはちょっとルゥナを探してくるわ」
エディにしか聞こえないほどの小さな声でそう言うと、尻尾をピンと立てて駆けて行く。
「あれ、あの猫、ルゥナのですよね。逃がしちゃっていいんですか?」
歩み寄ってきたサビエが訊いてくるのへ、エディは肩をすくめるだけにとどめておく。
と、まるで彼らが到着したのをどこかから見ていたかのような按配だった。
「ようやく着いたな、待ちくたびれたぞ」
腹に響く声に、エディたちは一斉にそちらへ振り返る。
「ヤン王!」
歯軋りしながら、エディは唸るようにその名を口にした。無意識のうちに剣の柄にかかった手を、サビエが軽く叩く。
パッと振り返ると、彼は無言でゆっくりとかぶりを振った。エディは大きく一度息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
「俺の妹とルゥナを返してもらおうか」
ムスリと、そう告げる。
ヤンは確かに一国の王だが、エディにへりくだる気はなかった。先にエデストルとトルベスタの王族を軽んじてきたのは、ヤンの方なのだから。
怒りに燃える目で睨み付けてくるエディを、ヤンはいかにも楽しげに見返してくる。
「まあ、まずは一息ついたらどうだ? 少し休んでからでも構わないだろうが」
「必要ない。さっさと二人に会わせてくれ」
両手を広げ、親しげな態度で近付いてきたヤンを睨み付け、エディは彼の申し出をはねつける。そこに割って入ったのは、トールだった。
「まあまあ、エディ。お茶の一杯をもらうくらい、いいんじゃないの?」
「トール!」
余計なことを、と栗色の瞳を睨み付けても、能天気な笑顔を返されただけだった。彼はその笑みを浮かべたままヤンに視線を移し、言う。
「ぎすぎすしたって、仕方がないじゃないか。……フロアールたちは、彼の手の中なんだから」
いつものほほんとしているトルベスタの王子の目に、一瞬、冷やかな光が宿った。口調は軽くても、トールも少なからぬ怒りを抱いているのだ。
滅多に見ない友人の苛立つ姿に、逆にエディの頭が冷えてくる。
小さく息を吐いてから、再びヤンを見据えた。
「ちゃんと話し合う為の場を設けてくれ。状況を説明したい」
怒りを押し隠し、低い声でそう告げたエディに、ヤンは面白そうに眉を片方だけ持ち上げた。
「説明、か。まあ、聞くだけ聞こうか」
ヤンの余裕ぶった――いや、実際に余裕があるのだろうが――態度に、エディは噛み合わせた奥歯を軋ませた。
とにかく今は、フロアールとルゥナの無事な姿を確認しなければ。
事を荒立てれば、エディたちも拘束されてしまうだろう。
「では、ついて来てもらおうか?」
笑いを含んだ声に苛つきながらも、エディは黙ってヤンの背を追う。
足を踏み入れた洞窟の中はひんやりとしていて、予想に反して明るかった。随所に、篝火が灯してあるのだ。だが、どういう具合なのか煙臭さも息苦しさもなく、清浄な空気が循環している。
前を歩く無防備に見える広い背中を睨み付けながら、エディはそこに斬り付けてやったらどうなるだろうかと考えた。と、その瞬間、微かな忍び笑いが彼の耳に届く。
「試してみても構わんが、あまり利はないと思うぞ?」
振り返りもせずに告げられたヤンの台詞は、明らかにエディに向けられたものだ。ムッと唇を引き結んだ彼の斜め後ろで、トールが小さなため息を漏らす。
「エディ、冷静に、冷静にね?」
「うるさいな」
ぼそりと親友に返したエディを、ヤンが首だけ捻って振り返った。その口元には笑みが刻まれている。
「お前の剣は感情が剥き出しだ。何を考えているのか、何を狙っているのかがよく判る」
それは、エディにとっては耳が痛い台詞だった。あけすけな感情を指摘してきたのは、ヤンが初めてではない。
尊敬していた亡師と同じ忠告を傍若無人な略奪者から聞かされ、エディはムッと唇を捻じ曲げた。その気配すら伝わったのか、前を行く大きな肩が小さな笑みで揺れる。
「それにな、お前は生きているものを斬ったことがないだろう?」
その問いに答えが返らないことに気を留めたふうもなく、ヤンは続ける。
「お前の剣は速いのに、わずかにためらいがある。それさえなければ、もう少し戦えるのだろうにな」
淡々と、事実だけを述べている口調だった。
エディは無言で彼の背中を睨み付ける。別に、ためらった覚えは微塵もない。だが、ヤンの台詞のいくばくかは正しかった。確かに彼は何かに血を流させたことは未だなかったのだから。
(俺だって、やる時が来ればやれる)
その覚悟は、できている。ただ、まだその機会がないだけだ。
エディは半ば自分自身に言い聞かせるように、胸の中で呟く。できない筈がない。
と、不意にヤンの足が止まった。彼の前にあるのは、他のものよりも大きな扉だ。それを押し開けると、中には大きな円卓と椅子が並べられているのが見て取れた。
「さて、我らには外からの使者などというものが訪れることがないからな、たいそうな謁見の間とやらはないのだが、一応、ここが飛竜の民の間で話し合いがある時に使われる部屋だ」
ヤンはそう言いながらスタスタと足を進め、無造作に椅子の一つに腰を下ろした。円卓を取り囲む椅子はどれも同じく質素で、ヤンが座った場所は上座でもない。
どこに座ったら良いのか判らず入口で立ち止まっているエディたちに、ヤンが怪訝そうな眼差しを向けた。
「どうした? 立ったままで話をする気か?」
どこに座ったらいいのかが判らないのだとは、言いたくなかった。
エディは一瞬迷い、そしてヤンの真正面の椅子を引く。彼に続いて、他の者もそれぞれに席に着いた。
ガタガタと椅子の音が止んだところで、ヤンがグルリと一同を見回した。
「さて、では話とやらをしようか? おっと、先に言っておくが、私はシュリータとの戦を止めるつもりはないからな。エデストルとトルベスタがヤンダルムにつくのかそれともシュリータにつくのか、それだけを知りたい」
あっさりと言い放ったヤンに、エディは思わず椅子を蹴立てて立ち上がりそうになる。が、かろうじてそれを抑えた。
「両国の戦に関しては、どちらにつく気もない。ヤンダルムがシュリータの土地を欲しいと言うなら、戦えばいい。けどな、魔物とマギクはすぐ傍まで来ているんだ。そんなふうに争っている場合じゃないだろう!」
最後の方は我慢が効かずに語気を荒らげたエディを、ヤンは肩をすくめて見返してくる。
「魔物魔物と騒いでいるが、せいぜい獣に毛が生えている程度だろう?」
平然と返されて、エディは言葉に詰まった。実際、彼はその姿を目にしてはいない。遭遇したのは、エデストル国内に攻め入ってきたマギク兵だけだ。
グッと押し黙ったエディに、ヤンがそれ見たことかという顔になる。答えられない王子に代わって静かな声をあげたのは、スクートだった。
「お待ちください、ヤンダルム王」
淡々とした声に、ヤンの目がそちらに向けられる。鋭い眼光に臆することなく、スクートは続けた。
「私は――私と弟は、実際に魔物と対峙しました。あれは『獣』などではありません。獣よりも数倍速く、力が強く、そしてしぶとい。一頭として同じ姿のものはおらず、どれも今まで見たことのあるどんな獣とも違っていました。確かに、見覚えはあるのです。熊のような魔物、狼のような魔物、鷹のような魔物――けれど、どれも違う。熊ではないし、狼ではないし、鷹でもなかった。とても……歪んだ何か、なのです」
静かに語るスクートを見つめるヤンの目は微かに眇められている。彼が口を閉じても、その視線はジッと注がれたままだった。
スクートはその眼差しを受けたまま、続ける。
「数は少なかったですが、ヒトに似た魔物も、いました。ヒトのような形をして、魔法を操る魔物が。彼ら――それらの魔法は、どのマギク兵よりも強力でした。恐らく、一体でマギク兵五人には相当するでしょう。外見はヒトに似て、しかし、ヒトではありませんでした」
語るスクートをエディは見つめる。今まで、戦いについて聞いたことはあっても、戦っている相手のことはあまり聞いたことがなかったのだ。ただ、一括りに『敵は魔物』としていただけで、その姿を具体的に想起したことはなかった。
(俺も、ヤン王と大差はないかもしれない)
エディは卓の上で両手を握り合わせる。
魔物とマギクを倒すことばかりを考えていて、その相手のこと自身はたいして知らず、知ろうとも思わなかった。
(俺は、何と戦おうとしているんだろう)
そんな疑問がエディの頭に浮かぶ。
敵は確かに魔物とマギクだ。彼らが、父を殺し、エデストルを蹂躙し、母を拉致している。
(魔物をエデストルから追い払い、国を取り戻し、マギクを攻めて――滅ぼす)
それでいいのだろうか。
それで、いい筈だ。
なのにエディの頭の中はモヤモヤとしている。
「魔物に、邪神、ねぇ」
物思いにふけるエディをよそに、頬杖をついてヤンが呟いた。その指がトントンと卓を叩いている。皆が口を閉ざし、その音だけが静寂を破っていた。
そこに、小さな声が交じる。
「確かに、アレを見ると邪神は本当にいるんじゃないかと思えるんだよな。何か……『普通』じゃないんだ」
その台詞は、サビエが発したものだった。独語のような小さな呟きに、皆の目が集まる。その視線を感じて、彼は小さく肩をすくめた。
「まあ、邪神がいるかどうかは知りませんがね、何かおかしなことが起きているんだろうってことは、確かじゃないかと思いますよ」
「ヤン王、我がトルベスタも攻め入られました。彼らがこのルニア全てを狙っているのは、ほぼ確実でしょう。竜騎兵の力を軽んじているわけではありません。ですが、ここは力を併せて挑む方が得策ではないでしょうか?」
冷静な声で問いかけたのは、トールだ。だが、ヤンはやはり聞く耳を持たない。スッと目を細めてまだ年若い王子を見遣った。
「私はこの目で見たものしか信じない。魔物にしろ、邪神にしろ、な。まあ、エデストルとトルベスタが我らに付き、シュリータを手に入れてからそいつらを迎え討つ、というのなら考えてもいいが?」
「そんな悠長なことをしていたらあんたらの所だってヤバいことになっちまうぞ! 魔物たちのことはヤンダルムにとっても他人事じゃないだろう!?」
カッと声を荒らげたエディの言葉も、ヤンの中にさざ波一つ立てはしない。彼は薄い笑いを口元に刻んだ。
「マギク兵も魔物も、目にしたことがないからな。来るかどうかもわからんものより、目下の問題の方が重要だ」
ヤンダルムの王にはまったく取りつく島がなかった。きっと、実際に痛い目に遭わなければわからないのだろう。
エディは両手を握り締め、ヤンを見据えた。
「わかった、ならヤンダルムはヤンダルムで好きにしてくれ。だが、妹たちは返してもらうぞ」
強気な口調の彼の台詞に、ヤンの目が面白そうに煌めく。返事までには、少し間が空いた。
「そうだな……まあ、妹姫の方は仕方がないかもしれないな。癒しの力は貴重だがやむを得まい」
ややして返されたその言葉に、エディは眉をひそめる。
「フロアールの方は、とは、どういう意味だ? もちろん、ルゥナもだ」
「妹を無条件で返すだけでも、私としてはだいぶ譲歩したつもりだが?」
「どこがだ!」
いきり立ったエディをヤンは笑っていなす。
「奪われたものを取り返す力もないくせに、威張るな」
「!」
「フロアールはエデストルの姫だ。まあ、我らにはあまり意味のない事だが、一応は尊重しよう。しかし、ルゥナを渡す義理はない。あの子はお前とは何の関わりもないのだろう?」
「いいや、彼女を保護したのは俺だ。俺には彼女を守る義務がある」
「そういう台詞は、守れるだけの力がある者が口にするものだ。……まあ、好きにするがいい。私はお前に勝ってその勝利の報酬として、ルゥナとフロアールを手に入れた。フロアールはただで返してやっても良いが、ルゥナまで取り戻したいというなら、私と戦って勝つことだ。妹だけを連れて黙ってここを出て行くか、それともルゥナを取り戻すために私ともう一度刃を交えるか。どちらでも構わん。どうするか決まったら妹姫を渡してやるよ」
言い終えるとヤンは立ち上がった。
「部屋は用意してやるからあまりうろつくな。我らは戦を控えているからな、さっさと決めてくれ」
それだけ残し、話は終わったとばかりに彼は振り返りもせずに部屋を出て行く。呼び止める暇はなかった。
残された一同の視線が、エディに向かう。
「で、どうする?」
顎を強張らせて奥歯を噛み締めているエディに、トールが首をかしげて問いかけた。
「どうするも何もない。ルゥナを置いていくわけにはいかない」
「ま、そうだよねぇ。けど、二人ともどこにいるかもわからないし、これは困ったね」
台詞とは裏腹に、トールの態度は飄々としている。だが、その目の奥には小さな炎がちらついていた。落ち着いているように見えても、きっと心の中はエディと大差がないのだろう。
自分の無力さを思い知らされたのは、これで何度目か。
できるなら、今すぐにでもヤンを叩きのめしたい。だが、数日前に力の差を見せつけられたばかりだ。
(どうしたら、いい?)
自問したところで、答えは出ない。
エディはヤンが出て行った扉を睨み付け、両手を固く握り締めた。