監禁
竜はほとんど休むことなく、二昼夜の間飛び続けた。
ヤンがしっかりと支えてくれてはいても鞍の上は不安定で、完全に寛ぐことなどできはしない。二日目にもなると、ルゥナはウトウトと眠りに落ちかけてはそこから引き戻されるという状態を何度も繰り返した。
何だかクラクラするし、頭も痛い。
病も怪我も問題にならないルゥナでも、体力そのものは普通の少女と変わらないのだ。
ようやく飛竜がその翼をたたんで地面に足を着けた時、ルゥナはしっかりと立つことができなかった。
「あっ……」
鞍から地面に抱き下ろされ、ルゥナたちに続いて舞い降りたもう一頭の竜の元へ――そこに乗せられているフロアールの元へと一歩を踏み出そうとしたものの、彼女はふらりとよろけてしまう。とっさに近くにあったものに掴まってしまったけれど、それはヤンの腕だった。
「!」
思わずパッと手を放してしまって、その反動で転びそうになったルゥナの腰に、がっしりとした腕が巻き付く。拒む間もなく身体が浮いて、何日か前にそうしたように、気付けば高みから地面を見下ろしていた。
「下ろして!」
再びヤンの肩に担ぎ上げられたのだと理解するのには、一拍を要した。身をよじって逃れようとしても、胴をがっちりと抑え込まれていてびくともしない。
ルゥナは固めた拳で彼の背中を叩き、脚をバタバタとさせて暴れたけれど、ヤンがその言葉を聞き入れる筈がなかった。
背中を叩かれるのは全く苦にはならなくても、流石に顎を蹴られるのには閉口したのか、彼は片手でルゥナの両足首を捉えて自分の胸の辺りに固定する。
「放してってば!」
ルゥナがかろうじて自由になる腕を突っ張ろうが小さな拳で所構わず叩き回ろうが、ヤンにはまったく堪えた様子はない。ルゥナの抗議はきれいに無視して彼が動き出そうとしたところへ、毅然とした声が割って入った。
「この、野蛮人! ルゥナはエデストルの王族であるわたくしの友人ですのよ! そんな扱いは礼儀に反します! すぐにお放しなさい!」
駆け寄りながらそう言い放ったのは、フロアールだ。
同じように休みなく飛び続けていた筈なのに、彼女は驚くほどシャンとしている。
「フロアール……」
見下ろした空色の瞳は爛々と光っていて、いつもは見せない険しさを帯びていた。一瞬目が合ったけれど、すぐにヤンがクルリと彼女に振り返ってしまい、姿を見ることができなくなる。
「可憐な姿で威勢がいいな、エデストルの姫。しかし、この娘はまともに歩けないようだぞ? 野ざらしで転がしておくわけにもいくまい」
「お兄様たちのところに帰して下さったら良いのです。こんなふうに拉致するなんて……シュリータだけでなく、エデストルやトルベスタとも戦をなさりたいのですか?」
「必要ならば、な。まあ、目下のところはシュリータを手に入れるのが先決だが。ここを見れば、あの土地がどれだけ必要か判るだろう?」
ヤンが顎で周囲の光景を示しながら言う。
そこに広がっているのは、岩と砂ばかりだった。緑は一つもない。小川のせせらぎも聞こえず、時折響いてくる鳥の声といえば可愛らしい囀りではなく、猛禽の鋭い一声くらいだ。
およそ、ヒトという脆弱な種が棲むには向かない土地。
対してシュリータという国は――かつてルゥナが仲間に引き入れたシュリータという名の男性と出会った所は、緑が溢れる豊潤な平野部だった。あそこに国を建てたのなら、さぞかし豊かな暮らしを営んでいることだろう。
この地に住むヤンダルムがそこを欲しがるのも、当然と言えば当然かもしれない。
だが、そんなヤンの言葉とヤンダルムの現状に、フロアールは王家の姫らしくなく鼻を鳴らした。
「まあ! 素敵なそのお目には鼻面にぶら下がったものしか見えていらっしゃいませんのね!」
辛辣な鋭い声。
できる限り身体を捻ってルゥナがそちらを覗き込むと、ヤンの半分もないような身体で胸を張って彼を睨み付けているフロアールの姿が辛うじて見て取れた。
「良いですこと? エデストルは魔物とマギクに攻め込まれたのです。トルベスタも、恐らく蹂躙されていることでしょう。じきにヤンダルムも標的になりますわ。他の国を敵に回してしまって、どうなさるというのです? ヤンダルムだけで魔物と魔法兵を阻止できると?」
厳しい声で答えを迫るフロアールに、しかし、ヤンは鼻で嗤って返した。
「魔物など、獣か何かに毛が生えたようなものだろう? 魔法兵とて、魔法を放つ時間を与えなければ取るに足らん。急襲は我らが最も得意とするところだ」
いかにも気楽げにそう言うと、ヤンはフロアールの後方に控えている二十代半ばほどの男に目を向けた。
「ソイン! 姫君もお疲れだろう。さっさと部屋に連れて行ってやれ」
礼節など欠片もない口調でそう指示を出すと、再び彼はフロアールに背を向けた。
交代で彼女と顔を合わせることができるようになったルゥナは、ずかずかと歩き出したヤンの肩に手を置いて、懸命に身体を起こす。顔を上げれば、見開かれたフロアールの目と目が合う。
「フロアール……!」
「ルゥナ! この、お放しなさい!」
ヤンを――ルゥナを追い掛けようとしたフロアールが、ソインと呼ばれた黒髪黒目の男に腕を掴まれてよろめくのが見えた。
彼女は一瞬男を睨み付け、そしてまたルゥナに目を戻す。
「お兄様は必ず来てくださいますわ! 心配なさらないで!」
どんどん遠ざかっていくフロアールが励ますような微笑みを浮かべるのが、かろうじて見て取れた。
(わたしの方がずっと年上なのに……)
何も言えず、何もできず、遥かに年下の幼い少女に励まされてしまうだなんて。
ルゥナは情けなくなる。
(ピシカもいないんだもの。ちゃんとしないと)
グイと身体を捻って、ヤンの髪の毛を掴むようにしてできる限り上半身を起こした。
「ヤンダルム! わたしをフロアールのところに戻して!」
不安定な姿勢を支える為に、彼の髪を強く握り締める。
と、
「痛いな」
流石にそれは不快だったのか、ヤンは彼女をスルリと肩から下ろすと胸の前で横抱きにした。暴れさせない為か、鋼のような腕できつく締め付けてくるから苦しくてならない。
けれどそれでもルゥナはその腕を振り払おうと身をよじりながら、声を張り上げる。
「下ろして下ろして下ろしてってば!」
だが、ヤンは眉を片方歪めながらもそんな抵抗はものともせずに、岩山にポカリと口を開けている洞穴へと足を踏み入れる。
途端、ひんやりとした空気に頬を撫でられ、ルゥナは思わず口をつぐんだ。
「あ……」
天然の洞穴を利用した、飛竜の民の住居。
それは、ルゥナの記憶に残っているものと、ほとんど変わりがなかった。
言葉を失い、郷愁にも似た想いを眼差しに浮かべて周囲を見回す彼女に、ヤンが微かな笑みを漏らす。
「何だ、我らの住居が気に入ったのか?」
「え……あ……昔とおんなじだと思って……」
無意識のうちにそう返していたルゥナは、その言葉に微かに目をすがめたヤンには気付かなかった。
「昔、ね……」
呟くようなその声も、ルゥナの耳から耳へと通り抜けていく。
曲がりくねった洞穴にはほぼ等間隔に扉が並んでいて、時折そこから人が現れ、ルゥナを抱えたヤンに頭を下げていく。彼の腕の中のルゥナに目を走らせはしても、誰一人として彼女のことを問いただす者はいなかった。
扉の向こうに存在する部屋の数々が、いくつかは自然のもの、いくつかは人の手によって掘られたものだということを、ルゥナは知っている。
エデストルやトルベスタなど、他の国は、神器を祀るようになってから都ができた。だが、ヤンダルムは違う。元々、ここが彼らの『都』だった。
遥か昔にここを訪れた時、こんなに硬い岩山をどうやって掘ったのか、とても不思議だった。その疑問を口にしたルゥナに当時のヤンダルムは実際に作業をしている場面を見せてくれて、屈強な男たちが振るうつるはしがどんどん岩を砕いていく様に目を丸くする彼女に、笑顔を向けたものだった。
あの時のヤンダルムも、最初のうちは邪神の話など半信半疑で笑い飛ばしていた。けれど、最終的には信じてくれて、共に旅立ってくれたのだ。
(このヤンダルムだって、ちゃんと話をしたら聞いてくれる筈)
あの時には話のうまいソワレもピシカもいたけれど。
今はたった一人で説得しなければならないのだけれど。
ちゃんと、一人でもやってみようと思った。
そうして彼を説き伏せることができたなら、迎えに来たエディたちとすぐにまた旅立てる。
おとなしくなったルゥナに気付いたのか、締め付けていたヤンダルムの腕が緩んだ。
暴れるのをやめてしまうと、包み込んでくるような温もりや適度な揺れに、眠気が襲い掛かってくる。睡魔と懸命に戦うルゥナに、ヤンが微かに唇をほころばせた。
彼はそのまま洞穴を進み、最奥にある扉に辿り着くとそれを蹴るようにして開け放った。中には寝台といくつかの物入れが置かれている。
どことなく使用感に乏しく、普段誰かが住んでいるようには見えなかった。
ヤンはその寝台にルゥナを下ろすと、チラリと彼女を一瞥し、すぐに扉の方へと踵を返す。
「あ、待って!」
柔らかな寝床にそのまま寝転がっていたい誘惑を振り切って、ルゥナは跳ね起きる。
振り返ったヤンダルムは、小さく首をかしげて彼女を見下ろしてきた。
「眠いのだろう? 強行軍だったし、取り敢えずは休むがいい」
一方的にそう言って、彼は扉に手をかけようとする。
「ダメ、先にお話をしないと!」
「……話?」
「そう。こんなふうにしている暇はないの。あなたは邪神のことを知っているでしょう?」
「知っているというか……まあ、伝え聞いてはいるな」
彼の声にあるのは、どこか揶揄するような響きだ。ヤンはあまり真面目には受け取っていなそうだと、ルゥナはこっそりとため息をついた。彼を説得するのは骨が折れることだろう。
「邪神は、本当にいるのよ? ただの昔話とか、そういうのじゃないの。現実なの」
「現実?」
「そう。今、またこのルニアは危険な状態にあるの。だから、みんなで力を合わせないといけないの」
鼻で嗤う声が返されて、ルゥナはムッと唇を引き結んだ。
「本当よ? 早く何とかしないと、あなたたちの大事な飛竜も邪神の力に侵されてしまうのよ? ううん、竜だけじゃなくて、人も、何もかも――守りたいと思っているもの、全部」
「だが、邪神の話は祖父の祖父……その前の代から言い伝えられているんだぞ? 今まで何もなかった。今さら、何があると言うんだ?」
確かに、何故今になって邪神が力を取り戻したのか。
何故、今まで無事だったのか。
事情を知っている筈のピシカが何も話してくれないから、ルゥナには判らない。判らなければ、説明にも説得力が欠けてしまう。
「それは……でも、あなたには『印』があるわ。それは、昔邪神と戦おうとした英雄の末裔だという証拠でしょう?」
「『印』……?」
ルゥナの言葉をなぞったヤンの目が、スッと狭まった。と思うと、つかつかと彼女の方へと戻ってくる。
「『印』は特別な者の証か?」
「そう、でしょう?」
低い声でのヤンの問いに、ルゥナは訝しく思いながらも頷く。
『印』を刻まれている彼自身が、一番よくそれを知っている筈だ。
ヤンは戸惑うルゥナの見つめる中で寝台に腰を下ろした。彼の重さで台がわずかに傾いで、彼女はとっさに両手で自分の身体を支えようとした。が、それよりも早く伸びてきたヤンの手が彼女の両腕を掴み、グイと彼の胸元へと引き寄せられる。すぐに離れようとしたけれど、背中に大きな手が当てられて身動きが取れなくなった。
「『印』が特別な者にしかないとしたら、お前は何なのだ?」
「それは……」
ルゥナが答えを口にする前に、ヤンの手が動く。彼女の背を覆う白銀の髪に指が挿し入れられ、その爪の先がうなじの辺りをかすめた。
髪が避けられ、むき出しになったその場所にヤンの鋭い視線が注がれているのが感じられる。
ソレがある場所に、彼がそっと触れてきた。
「『印』が英雄の末裔にしかないのだとしたら、お前のうなじに浮かぶこれは、何だ? 古の英雄は、武器を受け継ぐ五人のみの筈だろう? 何故、戦う力などなさそうなお前に、この『印』があるのだ? それとも、お前も何かの神器を持っているのか?」
ルゥナに、武器はない。彼女には必要がないのだ。
「わたし……わたしも、邪神を封じる為に必要なの。神器は持っていないけど、でも、そうなの」
「お前が?」
「そう」
「だが、お前にあるのは癒しの力だけだろう? それとも、他の魔法も使えるのか?」
「ううん。わたしに使えるのは、一つだけ」
「は! 癒しの力で敵を倒すのか? それこそ、おとぎ話だな」
笑い飛ばしたヤンは、ほとんど突き放すようにしてルゥナを解放し、立ち上がった。
「まあ、邪神とやらがそのおぞましい姿でも見せてくれたら、おとぎ話でも何でも信じてやるさ。だが、今のところは目先の飯だ。シュリータの土地を手に入れれば、我らの生活はだいぶ楽になるからな」
背を向けたヤンに、ルゥナは膝立ちになって非難の声を浴びせかける。
「世界がどうにかなってしまうという時に、あなたは自分たちのことしか考えないの?」
扉に手をかけたヤンは彼女のその言葉に振り返るとニヤリと笑った。
「何、化け物が姿を現したら我ら飛竜の民が倒してやるさ」
「そんな簡単な話じゃないんだから!」
言い募るルゥナに、ヤンは笑みを消す。そして刺すような鋭い眼差しで彼女を見返してきた。
「いいや、簡単だ。我らの生活を脅かすものは、何であれ戦い、倒す。……もしも倒せなければ、我らが滅びるまでだ」
彼ははっきりと言い切り、そして今度こそ扉の向こうへと姿を消してしまう。
シンと静まり返った部屋の中、独り残されたルゥナは、きつく唇を噛み締めた。