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癒しの乙女の永久なる祈り  作者: トウリン
第三章:助力を求めて
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蠢動

 ルニア大陸は、昇り始めた下弦の月のような形をしている。

 南部は険しい山岳地帯となっており、人が住むのは大陸の北部、南に窪んだゴルフ湾に面した地域だ。三日月の頂点をなす最西端の岬はノルヴェスト、最東端の岬はノルテストと呼ばれている。マギク、エデストル、トルベスタ、シュリータは海に面しているが、そのうち港を持つのはエデストルとシュリータのみ。マギクとトルベスタは海といっても切り立った崖でしか臨めず、ヤンダルムは内陸にある。


 マギクの首都マクは、ノルヴェスト岬の突端にあった。天気の良い日は、物見の塔から遥か南方に浮かぶ孤島が霞の彼方に見える。かつて邪神が猛威を振るったという北海の孤島――それを見張るかのように、都は築かれていた。

 マギクでは城そのものが都であり、首都の民は皆、城の中で生活をしている。

 丸々一つの都を呑み込むほどのマギクの城は、魔法を駆使し、岩と土――大地を変形させて造り上げられていた。灯りは炎の魔法でともされ、分厚い壁に窓は少ないが、風の魔法で絶えず中の空気を循環させ、広大な城内は常に明るく、快適に整えられている。

 近くに川もなく、頑丈な岩盤に地下水も流れていないが、水の魔法を用いて海水から塩を分離し、生活に役立てていた。副産物として採れるマギクの塩は、貿易でも重要な位置を占めている。

 ありとあらゆる場面で魔法が使われるマギクの生活は、利便性が高い。土地も豊かで、ルニアの中では最も平穏に、幸せに暮らせる筈だった。


 そんなマギクに暗雲が立ち込み始めたのがいつからだったのか、その始まりに気付いた者はいなかった。


 確かに、目に見えた異変は魔物の出現だろう。

 しかし、それ以前から、ジワリと『終わり』は始まっていたのだ。

 魔物は、衰退を加速させただけに過ぎない。


(何故、抗おうとしたのだろう)

 マギク王マギは、曇天のような薄い水色の目で城の窓から海を眺め、内心でそう呟いた。吹き込んできた風が、彼の白髪を揺らす。かつては華やかな白金色に輝いていたが、今はしなびた白色だ。

 窓から見えているのは海ばかりだが、ちらほらと、マギクの空を舞う鳥ではない何かの姿が彼の視界をよぎった。


(今のマギクには、ヒトよりも魔物の方が多そうだな)

 マギは微かな自嘲を唇の間から漏らす。

 命が失われることは、いずれ避けられぬことだった。だが、不可視の脅威に侵され為す術もなく滅びるのと、目の前の明らかな襲撃に抵抗することなく蹂躙されるのを許すのとでは、ヒトとしての矜持を守るという点で大きく異なってくると、かつては思ったのだ。

 しかし、自尊心は、驕りに過ぎなかった。

 そんなものはさっさと捨てて、しまえばよかったのだ。

 無駄に抗おうとしなければ、兵士達に魔物と戦い、身体を引き裂かれて死ぬ苦しみは味わわせずに済んだ筈だ――そして、隣国の王を裏切ることも。

 全ては、彼の誤った選択の結果だった。


「マギ王」

 不意に、低く冷やかな声が背後からかけられる。

 マギはゆっくりと振り返り、生気の失せた眼差しでそこに立つものを見つめた。

 一見、齢三十二のマギと同じ年頃の、青年だ。

 決して小柄ではない彼よりも、更に頭一つは大きい。身体はつま先まで漆黒の長衣に覆われ、隠されている。艶やかな黒髪は背を覆うほどに長く、縦に開く瞳孔は深紅、それを取り囲む虹彩は髪と同じ深さの闇の色だった。顔立ちは端正な男性のものだが、口元からは鋭い牙が覗いている。

 ヒトに似て――明らかに、それはヒトではなかった。


「戻られたのか」

 彼を見上げたマギに、異形の男は肩を竦めて答える。

「ああ、またすぐに出るがな。エデストルはどうなった?」

「ディアンナ王妃を捕らえてからは、おとなしいものだ」

「『印』持ちの王子は? そちらのエデストルは見つかったのか?」

「彼は、まだ……捜索隊も戻って来なかった」

「逃げられたのか」

 ふん、と鼻を鳴らしてそう言った男に、マギは弁解する様な口調で補った。

「行先は限られている――トルベスタしかない。どうせ、かの国も落とすのだ。手間はさして変わらぬ」

「そう簡単にいけばいいがな。まあ、私も行ってみるか――彼女の気配も、あの国の中で感じられたことだしな……」

 後半は小さな呟きで、マギは聞き漏らしそうになる。

「彼女?」

 ふと首をかしげて問いかけたマギに、男は答えなかった。ふと遠い目をして続ける。


「トルベスタは、弓か。そなたの魔法兵も貸してもらうとしよう。エトルに――エデストルの城に駐屯させている兵士を連れて行くぞ。すぐに代わりの兵を送れ」

「だが、せっかく押さえたエデストルの首都が手薄になるぞ?」

「魔物どもも少し置いていく。威嚇にはなるだろう? だいたい、ディアンナを捕まえておけば、旗印がおるまい」

「エディ王子が戻って来るやもしれぬ」

 マギが眉をひそめてそう答えると、彼は微かに笑った。

「それなら捜す手間が省けるというものだ」

 己の力に対する自信に溢れたその態度。自分が何かを失敗するなど、夢にも思っていないようだった。だが、実際、これまでのところ彼はマギクを屈服させ、エデストルも手中に収めた。きっと望み通り、トルベスタもヤンダルムもシュリータも手に入れるのだろう。


 そう、この魔物ともヒトともつかない目の前の男は、ルニア大陸の全てを手に入れることを望んでいた。数多の強力な魔物を従え、彼自身桁外れの魔力を有し、圧倒的な力をもってすれば、それは容易いことに違いなかった。

 マギは彼が自分の前に立った時の事が脳裏によみがえる。

 あの時、もう無理だ、と思ったのだ。

 長く先の見えない戦いと、度重なる不幸と。

 疲弊した心は砕ける瞬間を待っていたのだ。

 そして、自分に委ねろと言ったこの異形に、従ってしまった。


「好きなようにすればよい」

 マギは吐息と共にそうこぼす。

 魔物を相手に戦うよりも、魔物と共に戦う方が、兵の損失は遥かに少ない。

(王である自分が下す決断として最も正しいものが、化け物に全てを任せることだとはな)

 マギの胸にあるのは自嘲ばかりだ。自分には、何一つ守れはしない――そんな諦念ばかり。


 生気のない王を見下ろし、男が嗤う。

「好きなようにさせてもらう……私も、そう悠長に構えていられる状況ではなくなっているのでな」

 常に泰然としている彼からこぼれた台詞に、マギはハッと顔を上げる。だが、次の瞬間男はヒュイッと鋭く指笛を鳴らしていた。その音に、窓の外にバサリと羽音が近付く。ついそちらに目をやれば、巨大な、鳥とも竜ともつかない何か――言うなれば、鎧のような鱗を体幹にまとった鳥、だろうか――が、すぐ傍で羽ばたいていた。深緑の体躯の中でギラリと光る金色のまなこが鋭くマギを睨み付ける。

 何度か目にしているその威容に思わず息を呑んだマギの隣で、男がヒラリと窓から身を躍らせる。

 墜落すれば身体は粉々に砕け散るだろうという高さにも拘らず、彼には何のためらいもなかった。


 怪鳥の背に跨った男はマギに一瞥を与えることすらせず、その翼を我が物のように操り、見る見るうちに遠ざかっていく。瞬きするごとに小さくなっていくその姿を見送るマギは、聞く者もいない呟きを落とす。

「好きに、すればいい」

 そうしてローブを翻し、廊下を歩き、階段を下った。


 元々、だいぶ以前からマギクの民の数は減りつつあった。その上兵の殆どが戦いに駆り出され、城内で見かけるのは身の回りのことをさせる為に残した魔力の弱い者くらいだ。

 静まり返った中を、マギは無言で影のように動く。時折出会う者達がそっと腰を折るのに頷きを返しながら。

 やがて彼は城の最下層――地下牢へとたどり着いた。

 場所こそ囚人を捉えておくための牢屋だが、格子の向こうに整えられている調度は貴人を寛がせる為のものである。


 足音もなく近付いたマギにいち早く気付いた囚われの佳人は、彼が格子の前に立たぬうちに豪奢な長椅子からサッと立ち上がった。その銀と言ってもよいほどの淡い金の髪、春先の霞がかった空を思わせる目、そして何よりもその面立ちに、マギは一瞬胸をえぐられる。


(やはり、似ている……)

 痛みと共にマギの胸の中によみがえってくるのは、悲嘆にくれた妻リリィの姿だった。


 今、牢の中に佇んでいるのはエデストルのディアンナ王妃だ。彼女がこの城に連れてこられてきた時も、マギは愛しい人との類似性に束の間目を奪われた――以前は、さほど感じなかったのだが。

 もっとも、似ているところがあっても当然だった。ディアンナ王妃とリリィとは遠縁とは言え血族なのだから。


 マギは一つ二つ瞬きをしてまぶたの裏から妻の面影を振り払い、ディアンナを見つめる。彼女は囚われの身であることを露ほども感じさせぬ強い視線で、真っ直ぐに彼を見返してきた。

 エデストルの王妃とマギクの王妃と、両者の違いを最も明らかにするのはその眼差しだろう。リリィは、可憐で儚げなひとだった。今目の前に立つ麗人は、その目に何ものにも屈しないという意志をみなぎらせている。


「マギ王」

 口をつぐんだままのマギクに焦れたのか、ディアンナが尖った声で彼の名前を口にする。険しいその響きに、彼の呪縛が解けた。

「……不自由はありませんか?」

 何とこの場に不釣り合いな質問か、とは思ったが、マギには他に頭に浮かばなかったのだ。案の定、ディアンナの目の光が一層強まる。


「閉じ込められていて自由も不自由もありません。ここにお見えになったということは、少しは釈明をする気が湧いてこられたということでしょうか?」

 なまじの剣よりも鋭い声でそう問い掛けてきたディアンナに、マギはやはり声は違うな、とぼんやりと思いながら微かに首をかしげた。

「釈明?」

「何の前触れもなく魔物に膝を折り、我がエデストルを裏切り、国土を蹂躙したことに対して、です。まさか、何の説明もいらないとおっしゃるのですか?」

「ああ……」

 答えながら、マギは薄く笑った。その笑みに、ディアンナが怒りの炎をまとうのがはっきりと感じられる。

「それだけですの? 魔物に魂を売り渡し、貴方はエデストル――レジール様だけではない、ルニアに住むヒト全てを裏切ったのですよ?」

「魔物……か」

 ポツリと呟いたマギに、ディアンナが眉を吊り上げ、そして一転、ふと何かを探るように目をすがめた。


「何か?」

 闇を被った彼の中を見通そうとするかのようなディアンナに、マギはゆるゆると首を振る。

「いや、別に。……何か足りないものがあれば、いつでもおっしゃってください」

 言うなりローブの裾を翻した彼を、ディアンナの鋭い声が追う。

「マギ王、何も弁明しないまま、行かれるおつもりですか?」

 糾弾の声に、マギは足を止める。そのまま、振り返ることなく彼女に答えた。

「私には、もう何もありません。何も」

「マギ王! 王たる者がそのようなことで、よろしいとお思いですか!」

 非難は背中で跳ね返す。マギには、自分が王であるという自負心も、英雄の末裔であるという誇りも、もう残っていなかった。ここにいるのは――いや、あるのは、ただの抜け殻だ。

「マギク王!」

 正式な名を呼ばわれても、マギの胸には何も響かない。

 いっそ、今すぐ彼女の息子が――新たなエデストルの王が目の前に現れ、この燃えカスのような命の残り火をさっさと吹き消してくれればいいのに。


 マギはそんなふうに願わずにはいられなかった。


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