交流
久方振りに快適な寝床を与えられたにも拘らず、夜が更けてもエディにはなかなか眠気が訪れてくれなかった。眠くもないのに布団の中にいるのは、苦痛ですらある。
輾転とした末にムクリと起き出し、彼はそっと寝台を下りた。
スクートとサビエは右隣の部屋、フロアールとあの少女――ルゥナは左隣の部屋で寝ている筈だ。耳を澄ませてみても、どちらの部屋も静まり返っている。皆心地良い眠りの世界の住人になっているのだろう。
(少しうろついてみるか)
しばらく歩けば眠くなるかもしれないと、エディは扉を押し開けた。廊下には所々に灯りがともされており、月がなくとも充分に明るい。
特に目的もなく、エディはブラブラと歩き始めた。一定の間隔で設けられている窓の外には、鬱蒼と茂る木々の枝の間から、朔の闇空に無数の星々が瞬いているのが見える。何気なく外を覗きながら、彼は様々なことに思いを馳せた。
父や母は無事だろうか、国はどんな状態になっているのだろう、マギクと魔物に対する恨みつらみ、『印』には何の意味があるのだろう、そしてこれからいったいどうなっていくのか――。
そうしていて、ふとエディは、こうやってじっくりと何かを考えるのは国を出てから初めてのことだと気付く。旅の間は『考える』というよりも、ただ『思う』だけだった。
しかし、自分はあれこれグダグダものを考える性質ではないという自覚が、エディにはある。スクートやベリートに指摘されるとカチンとくるが、ちゃんと自覚はしている。
あんまり考え過ぎると、頭の中が何だかよく解からなくなってくるのだ。
考えるよりも、先に動く。エディにはその方が性に合っている。
だが、今は考えなければならないのだ。
「ああ、くそ」
ガシガシと頭をかきむしり、重いため息をついた、その時。
複雑に入り組んだ廊下の奥、縦横に交叉したところを何か白いものが横切った。通り過ぎかけて、エディは引き返す。
「あれは……」
翻った白い服の裾と長い白銀の髪の先の方しか見えなかったが、多分、いや間違いなく、あの少女だ。あんな髪の色は、そうはいない。
エディは小走りで廊下を進み、ルゥナが消えたところに急ぐ。曲がり角を覗き込んでみると、彼女はその先の分岐点でキョロキョロと左右を見比べていた。
不安そうなその横顔を見ていると、早く助けてやりたいような、その困り顔をもっと困らせてやりたいような、奇妙な気分になる。フロアールが困っていれば、エディは一も二もなく助けに入る。いや、自分よりも弱い者に対しては、誰であろうとすぐに手を伸ばしてやってきた。
(別に嫌いなわけじゃないのに……)
ベリートやスクートに対しては時々悪戯を仕掛けたくなることがあるが、それとはまた少し違う。
自分の中の理解不能な感情に困惑しながら、エディは彼女を驚かせないようにそっと忍び寄り、声をかけた。
「おい」
「!」
声もなく、ビクンと、少なく見積もって手のひら一枚分の高さ、彼女が跳び上がる。
(そんなに驚かなくともいいだろうが)
何となく面白くないエディだったが、パッと振り向いた彼女の大きく見開かれた目を真っ向から覗き込んでしまい、思わずたじろいだ。そうして、やっぱり似ている、と実感する。ルゥナの目は、先ほど窓から見た満天の星空そのものだ。まじまじ見つめられると、その中に吸い込まれてしまうような気がしてくる。
ルゥナは息を止めて目を丸くしたままエディを見つめており、一言も発しない。
彼女の目の呪縛を解くように瞬きをし、小さな咳払いを一つして、エディは口を開く。
「こんな時間に何やってんだ?」
思ったよりもぶっきらぼうな口調になってしまい、エディは内心で歯噛みする。これではまるで彼女を尋問しているようだ。
案の定、ルゥナはゆるゆると息を吐き出しながら、また視線を下げてしまう。
その夜空のような目が長い睫毛に半ば隠され、エディは苛立った。いや、それは、焦りに近いかもしれない。
何とかしなければ、と思ったら、また言葉が口を突いて出た。
「下を向くなよ、話をしてる時はひとの目をちゃんと見ろ」
ああ、違う、もっと丁寧に言うつもりだったのに、と思ってももう遅い。
ルゥナはまたまたビクリと肩を震わせて、それでも何とか顔を上げて真っ直ぐにエディの顔を見上げてきた。明らかに怯えている。
気さくに対応しているフロアールやサビエはもちろん、かなり風当たりがきついスクートにさえ、彼女はもう少し寛いでいる。エディに対する時だけこんなふうになるのは、きっと彼の態度が悪いのだろう。
(だからって、どうしたらいいってんだよ)
胸の中でそう呻きながら、彼はむっつりと少女を見下ろした。
エディはまだ成長途中でスクートやサビエのような体格ではないが、それでもルゥナは彼よりも頭半分は低い。全体的に華奢なせいか、実際の背丈よりも小さく見えた。フロアールよりも二、三、年上だろうと思っていたが、頼りなさげな風情は時に妹よりも幼く見える。
不意に何だか妙に穏やかな気持ちになって、エディは少し声を下げた。
「別に、怒ってるわけじゃないから。こんな時間にどうしたんだ? 何か足りないものでも?」
我ながら、優しげな声が出せたとエディは思う。だが、ルゥナは相変わらずはっきりしない。いつもお守りのように抱き締めている薄紅色の仔猫の代わりに、自分の手を固く握り合わせている。
「あ……の……」
口ごもる彼女に、エディは「穏やかに、穏やかに」と自分に言い聞かせながら、続ける。
「ちゃんと言われないと解からねぇよ。言葉にしないで理解されようと思うな」
きつく言い過ぎたか、とエディは思ったが、意外なことにルゥナに怯えた様子はなく、キョトンと目を丸くして彼を見つめていた。
「何だよ?」
「え、と、……いつもピシカやソワレは、わたしが何も言わなくても解かってくれたから……そう、だよね。解からない、よね」
ポツリポツリとこぼれる呟きは、まさに「今気が付いた」という風情だ。
言わずもがなのことに感動したように頷いているルゥナにも呆れたが、それよりも、エディは彼女の口からこぼれた耳慣れない名前に気を留めた。
「ソワレって、誰だ?」
「え?」
「今、ピシカとソワレって、言っただろ?」
「あ」
どうやらルゥナ自身はその名前を口にしたことに気付いていなかったらしい。わずかに迷うような素振りを見せた後、彼女は付け足した。
「ソワレは、わたしの大事なひとなの。ずっと一緒に旅してたのだけど、はぐれてしまったの」
「前に言ってた、俺と同じ色をしてるっていう?」
「そう。エディみたく、お陽さまみたいな髪と、高く晴れた空の色の目をしているの」
さらりと、ルゥナがエディの名前を口にする。聞き慣れた名前が全く別のものに感じられて、一瞬、彼はまごついた。が、すぐに気を取り直して彼女に問いかける。
「トルベスタの山の中ではぐれたんだよな? 何なら、ラープス様にお触れでも出してもらうか? 頼んでやるから」
「あ……でも……あんまり、人里には行かないかも……」
「へえ? 思い出しかけてんのか?」
「え、と、うん」
「そりゃ良かった。そのうち全部思い出すだろ。ああ、そう言や、何だってあんなところをうろついてたんだろうな。君は癒し手みたいだから、薬草か何かでも探してたのかな」
金色熊の怪我を一瞬で治したルゥナの魔法を思い出し、エディは言った。
今までにも癒しの魔法が使われる場面は目にしたことがあったが、あれほどの大怪我をあんなふうに瞬く間に癒すほどの力は、見たことがなかった。
外見からは想像もつかないが、ルゥナはかなりの力の癒し手だ。
エディは同じく癒しの魔法を使うディアンナから、魔法だけではすぐに力が尽きてしまうから薬草や医術にも精通しておく必要があるのだと聞かされたことがある。フロアールも薬師や医師について学んでいるし、行商人が珍しい薬草などを持ってくると嬉々としていた。希少な草は、人が容易に足を踏み入れられないような所にこそ、見いだせるのだとか。
そう考えれば、彼女のような子どもがあんな山の中にいたことも説明が付く。きっと、ソワレというのは彼女を守る屈強の戦士なのだろう。
(そいつが見つかるまでは、誰かが守ってやらないとだよなぁ。ラープス様に頼んでいこうか……)
エディたちは、これから戦いに赴くことになるのだ。一緒に連れて行くわけにはいかないから、フロアールと共にトルベスタに残していくことが、一番良い方法に思える。
と、ふいに、ルゥナが小さな欠伸を漏らした。
「眠いのか?」
エディの問いに、微かに頬を赤らめて、ルゥナが頷く。
「はい……眠れなくて、少し散歩をしようと思ったのだけど、今度は部屋に戻れなくなってしまって……」
「ああ――俺とかフロアールも、最初の頃はよく迷ってた。来いよ、連れて行ってやるから」
顎をしゃくって促すと、ルゥナはホッとしたように頬を緩めた。
廊下を歩き、角を三つほど曲がると窓のある廊下に出る。
「あ、ここならわかる」
安堵がにじみ出ているルゥナの声に、エディは小さく笑ってしまう。
そこを歩き始めてさほど経たぬうちに、不意にポツリとルゥナが呟いた。
「エディは、わたしのことが嫌いなのかと思ってた」
唐突かつ予想外の彼女の台詞に、思わずエディは立ち止まる。
「え?」
眉をひそめてルゥナを見下ろすと、彼女は軽く首をかしげて繰り返す。
「時々、わたしを――ちょっと怖い目で見てるから、嫌いなのかなって。さっき、言わないとわからないって、言ってたでしょう? だから……訊いておこうと、思って」
「そんなわけないだろ!?」
思わず声を荒らげてしまい、エディはハタと口を押える。
「と、ゴメン。こういうのが、悪いんだよな。けど、嫌ってなんかいねぇよ」
「あ、うん、今は判ってる。もう、お話したから」
「え? こんだけで、か?」
「うん」
コクリと頷いた彼女は、別にエディに気を使っているとか、適当にあしらおうとしているとか、そんなふうではなさそうだった。
「ずいぶん簡単だな。まあ、でも、いいか。その……君を見てたのは……もしかしたら、髪のせいかも」
「髪?」
「少し、母上に似てるから。母上のはもう少し、金色がかってるかな。君のは、完全に月の色だよな。ああ、そう言えば、見てみろよ。あの空は、君の目によく似てるだろ」
思うがままにそう言ってしまったものの何となく照れくさくなって、エディは窓際に行ってルゥナを手招きする。彼女は素直にそこに近付き、覗き込み――次の瞬間、喉を引きつらせるような小さな悲鳴と共に跳びすさった。
「あ、いてッ」
エディの胸に縋り付いた細い指先が肉に食い込み、彼は思わず声を上げる。と同時に、抱き付いてきた身体をとっさに受け止めた。互いに薄い夜着に他の上着を一枚羽織った程度だ。触れ合った場所からじんわりと温もりが染み込んでくる。手のひらに感じられるルゥナの身体は、その細さからは思いも寄らない柔らかさだった。
(うわ、なんだ、これ)
離さなければ、とエディが思うと同時に、パッとルゥナの方から身体を起こす。そうして、窓からもエディからも後ずさった。
「ご、めんなさい。高かったから、びっくり、して」
少し呆けた頭のままでエディは窓の下を見下ろし、そして呟く。
「高い――? ああ、三階だから……こういうところに上るの、初めてなのか――って、ごめん、覚えてないよな」
「あ、ううん――多分、初めて。昼間も、下は見てなくて……」
自分の服の両脇を掴んでそう答えたルゥナは、まるで寄る辺のない子どものようだった。
(やっぱり、彼女は誰かが守ってやらないと)
エディの胸の中に、無性にそんな想いが込み上げてくる。
「大丈夫、記憶が戻らなくたって、俺が国を取り戻したら、俺のところに来たらいいよ。記憶が戻ったって、いたらいい」
「国……エデストル?」
「ああ。フロアールに聞いただろ? 俺達のこと」
「聞いた。全部――エディやトールの『印』のこと、魔物やマギクのことも」
「あの国をぶっ潰したら母上を取り戻して、エデストルを立て直すんだ。そうして、魔物も全部ぶっ殺す」
荒々しくエディが言い放つと、ルゥナは微かに顎を引いた。そして、いつものどこか頼りなげなものではなく、きっぱりとした眼差しを、彼に向けてくる。
「マギクと、戦うの?」
「ああ、もちろん。やられたんだからやり返す。絶対、赦さねぇ」
「それは……憎いの? 怒ってるの?」
「そりゃそうさ」
深く頷いたエディに、ルゥナが微かに首をかしげた。腰まである長い白銀の髪が、サラリと揺れる。
「それで戦えるの?」
問い返してきた物静かなその声は、二人の他に誰もいない廊下に、銀の鈴を振るったように良く響く。
「え?」
エディは、自分に真っ直ぐ向けられている夜空さながらの眼差しを、見返した。ルゥナはひたと見つめたまま、続ける。
「そういう苦しい気持ちは、持っているだけで疲れるでしょう? 持ち続けるのは、つらいでしょう? それで戦ったら、そのうちその重さで、潰れちゃうよ?」
「何を――」
「エディは、もっともっと大きなものと戦うことになるよ、きっと。その時、憎いとか、嫌いとか、怒ってるとか、そんな気持ちばっかりだと、とっても苦しいと思う。わたしは、エディが苦しいのは、イヤ……」
おどおどとした頼りなさを払拭したルゥナは、まるで託宣の巫女のようだ。道に迷って半泣きになっていたり、窓から外を見下ろしてびくついていたりした彼女とは別人のような落ち着きと深遠さ。
「わたしはまだ戦ったことはないけれど、もしも戦うことがあるのなら、そういう苦しい気持ちは持っていたくないな。もっと、違う気持ちで戦いたいの」
(そんな細腕で、いったい、何と戦うっていうんだ?)
まるで本当に彼女が何かと戦おうとしているかのようで、エディはそう問いかけそうになる。
けれど、口ごもる彼の前で不意に彼女はパチリと瞬きをし、そこに立っているのは再び内気で頼りなげな少女になった。
ルゥナはエディからわずかに視線を逸らし、廊下の床を見つめる。
「わたし、もう、部屋わかるから。送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
それだけ言うと、固まったままのエディの脇をすり抜けていった。
独り残されたエディは、両手をきつく握り締める。
「苦しい、気持ち? ……何だ、そりゃ」
呻くように、そう呟く。
怒りも、憎しみも、確かにエディの中に膨れ上がり、ふとした拍子にはちきれそうになる。だが、彼にとってそれは大事な動力源だった。それがなければ、先の見えない不安にあっという間に押し潰されてしまうだろう。
「俺は、これでいい――これでいいんだ」
己に言い聞かせるようにして奥歯を噛み締めたエディを残し、夜は静かに更けていくばかりだった。