疑問
『城』に着くと同時にエディたち男性陣と別れたルゥナとフロアールは、まずは身づくろいをとのことで、とある一室へと誘われていた。
「トール様は素敵な方でしょう?」
「そうですね……」
「お兄様にはお兄様の良さがおありですけど、トール様のあの端正な物腰は、ぜひ見習っていただきたいところですの」
「そうですね……」
侍女の後に続きながら頬を染めたフロアールの口からこぼれるトルベスタ第二王子への賞賛の言葉を、ルゥナは耳から耳へと聞き流す。彼女は、城に足を踏み入れた時から、目に入るもの全てに圧倒されていた。いや、正確には城の前に着いた時から、だ。
外から見ても、その建物は巨大だった。
通りで目にした家々の、数倍はある。
前に立って見えるのは正面だけで、その全貌は見て取れない。
高さは三階までのようで、天を突くような、という訳ではない。三階建でも高いと言えば高いのだが、高さだけで言えば通りでいくつも見たので印象は薄れていた。
この城というものを表わすのに適切な言葉は、『高い』ではなく『大きい』だ。上だけでなく、横にも大きい。外郭をぐるりと回ろうとすれば、半日を費やすことになるに違いないと、ルゥナは思った。
フロアールが教えてくれたとおり、城は何本もの大木が柱として使われているようで、屋根の上にはそれに覆い被さるように緑が青々と茂っている。それはさながら一つの不思議な森のようだった。
門兵が開いた両開きの扉をくぐって中に入れば、『廊下』と呼ばれる木の板が敷かれた通路が枝分かれしながら続いていて、以前にピシカが言っていたように、一人では迷子になってしまいそうだった。
腕の中の仔猫を抱き締めながら、ルゥナはあちらこちらに目を走らせ胸の中で呟く。
(すごいね……)
(でしょ? あんたを探して色んな国をウロウロしたけど、アタシはここのが一番好きかな――って、何よ?)
明確に思念を言語化する前に、ピシカにはルゥナの中のモヤモヤしたものが伝わってしまったらしい。金色の目を光らせながら、ちろりとルゥナを見上げてくる。
(言いたいことがあるなら、はっきり言えば? あんたって、ソワレがいた時は全部あいつ任せだったわよね。少しは自分の頭でも考えて、積極的に動くこともしなさいよ)
ピシカは痛いところを的確に突いてくる。
確かに、彼女の言う通りだ。ソワレがすることはいつもルゥナにとって良いことだけを考えてくれてのことだったから、全て彼の言葉に従っていた。
ルゥナが自分の意見を主張したのは、邪神封印についてのみ――ソワレは強硬に反対したが、ルゥナはそれを押し切ったのだ。
もっとも、結局ソワレによって、志半ばで阻止されてしまったのだけれども。
(ルゥナ?)
手の甲に軽く爪を立てられ、ルゥナはハッと我に返る。
(あ、えっと、わたしを探している間、ピシカはずっと独りだったんだよね?)
(そうよ)
(独りで、さびしくなかった?)
(アタシが?)
ピンと伸びたひげが、どこか呆れたようにひくつく。
(あんたと一緒にしないでよ。アタシはそんなに軟弱じゃないわ)
(だけど、ピシカの故郷は、こことは別の世界なんだよね? 知ってる人と離れて、誰も知らないところにたった一人で来るのって、怖くなかった?)
ソワレがいた頃は、ルゥナは寂しいと感じたことがなかった。けれど彼がいなくなって、独りなのだということを実感し、ピシカの孤独に思い至るようになったのだ。
ピシカは答えない。ルゥナから外された視線は、床に注がれている。
(家族とか、いないの?)
また沈黙――と思ったら、長い尻尾がゆらりと揺れた。
(……双子、みたいなもんなら、いるわよ)
(みたいなもの?)
(そ。アタシたちには親ってもんがいないから、あんたたちみたく同じ親から生まれたとかってわけじゃないけどね)
ルゥナには今一つピンとこない。
(それって、どういうこと?)
説明を求めても、ピシカの思考は分厚い扉で閉ざされてしまったかのように、それきり何も答えてはくれなかった。
そもそも、どうしてピシカはこの世界を救いに来てくれたのだろうと、ルゥナの中にふとその疑問が湧く。そんな事を考えたのは、彼女と行動を共にしてから初めてのことだった。
考えてみれば、妙な話だった。
ある日突然現れた邪神。
それとほとんど時を置かずに手を差し伸べてきたピシカ。
ピシカは、どうやって邪神の事を知ったのだろう。
それに違う世界の住人なら、この世界がどうなっても関係がない。放っておけばいいのではないだろうか。
(それとも、何か、影響があるの……?)
腕の中の仔猫を見下ろしても、彼女は澄ましている。
思えば、ルゥナはピシカのことをほとんど何も知らなかった。
「何故、ピシカは僕たちを助けてくれるんだろう」
ふと、ルゥナの頭の中に声がよみがえった。そう言ったのは、ソワレだ。『印』を刻んだ者も揃い、邪神の元へ赴こうとしていたある夜、考え込むような顔をして彼はそう呟いたのだ。
あの頃は、ただ善意でやってくれているのだとルゥナは思っていた。
けれどこうやってソワレや他のみんなを失ってみると、たった独りでこの世界に来てくれたピシカの寂しさや辛さがよく解かる。
(ただ、善意だけで、こんなことができる?)
自分がピシカと同じ立場になったとしても、ルゥナには同じことができる自信はなかった。
ピシカを抱く腕に力を込めると、彼女の耳がピクリと動いた。
「ピシ――」
声に出して名前を呼ぶことで彼女の気を引こうとしたルゥナだったが、朗らかな呼びかけでそれを阻まれた。
「ルゥナ、こちらよ?」
不意にかけられたフロアールの声に、ルゥナは一気に『今』へと引き戻される。
「あ……」
声の主を探してグルリと首を巡らせれば、ルゥナが通り過ぎようとしている一枚の扉の前でフロアールが手招きをしていた。侍女がその隣で扉を開けて押さえている。
「ごめんなさい」
慌てて微笑むフロアールの元へと引き帰し、彼女に続いて中へと足を踏み入れた。そこはさほど広くない、がらんとした部屋で、ルゥナはキョロキョロと中を見回す。
「ここは脱衣所よ。服を脱ぐ場所なの」
「服を、脱ぐ?」
「ええ。湯浴みをするのだけど……」
「湯浴み?」
「したことがありませんの?」
どう答えたらいいのだろうかと必死で頭を巡らせているルゥナに、天の声が響く。
(湯浴みっていうのは、水浴びをお湯ですることよ)
「にゃあ」
ルゥナの腕からひらりと飛び降りたピシカが、彼女を見上げて『鳴き声』をあげた。
「ルゥナ?」
「あ、あります、湯浴み。好きです」
首をかしげたフロアールにひきつった笑顔で返し、ルゥナは何度も頷く。
「良かった。では支度をしましょうか」
そう言うと、フロアールは率先して服を脱ぎ始めた。他人の前で恥ずかしくないのだろうかと顔を伏せたルゥナは、ピシカと目が合う。
(何やってんの、さっさとしなさいよ)
「でも……」
思わず声に出して返そうとしたルゥナに、再びフロアールが声をかけてきた。
「どうかなさいまして?」
顔を上げると少女の裸身をまともに見てしまい、慌ててまた目を床に向ける。
「服を着たままでは、入れませんことよ? もしかして、やっぱりどこか怪我をされていたのかしら? 脱ぐの、お手伝いしましょうか?」
フロアールは、心配顔でそう訊いてきた。
「い、いえ、いいです、自分でやります!」
慌てて頭を振って、ルゥナは裏返った声でありがたくその申し出を辞退する。そうして小さな深呼吸を一つして、覚悟を決めて服に手をかけた。
「ふふ。先に入っていますから」
微笑んだフロアールは、部屋の奥にあるもう一つの扉の向こうへ入っていく。
身体は確かに洗いたい。けれど、誰かと一緒に沐浴だなんて、幼い頃にソワレとしたくらいだった。
「あんたもさっさとしたら?」
久しぶりのピシカの肉声が、耳に届く。もう、グズね、と言わんばかりの声だ。
「でも……」
「でもも何もないの、ほら、服脱いでったら」
言いながら、ピシカはくわえた服の裾をグイグイと引っ張ってくる。
「うう……」
呻きつつ、ルゥナは袖から腕を引き抜いた。脱いだ服をぶら下げてしげしげと見つめる。右のわき腹の辺りには、拳が通るほどの穴が開いていた。
それを目にして、ルゥナの頭には崖から転がり落ちた時に感じた痛みがよみがえる。
「これ、あの枝が刺さったところだ」
「ああ、あれね。途中で抜けてよかったわよね。刺さったままじゃ、流石に治らないもの」
「気楽そうに言うけど、痛かったんだから」
「そりゃそうでしょ、痛みも感じない化け物にはしてないもの」
「痛いのなんて、ない方がいいと思うんだけど……」
シレッとそう言ったピシカに、ルゥナは小さく唇を尖らせた。そこに、奥からのんびりとした声がかかる。
「ルゥナ? まだですの?」
「あ、はい、今行きます」
穴をどうしようと眉根を寄せながらボロボロの服をたたみ、ルゥナは覚悟を決めてフロアールの元へ向かった。