前編 恋の種が撒かれ
『盗賊ノアと魔神バルバトスの物語』の後日談です。
デム族が住まうジャストのお城と城下町。
長い長い冬が終わり、今は爽やかな春風が吹き流れます。赤や黄の花弁が、ヒラヒラと町中を包み込むように舞っていました。
北側町の外れ。少し傾いた自宅を無理やりに改築したバーボン医院はありました。
看板も斜めっていて、今にも落ちそうです。ちゃんと治療してくれるのか不安になりそうな外観ではありましたが、そこにいる医者の腕前は知れ渡っていましたので、診療に訪れる人は後を絶ちません。
「…フウ。お洗濯物おわり!」
タバコのコゲ跡が幾つもついた、ヨレヨレになった白衣をパンパンと丁寧にのばしてロープにかけます。
ズラーッと並んだ洗濯物が、風に揺れる様にメルは満足そうに笑いました。三角巾を取ると、長い耳がピョンと立ちます。
「おーい! メル! ラゲインさんのカルテはどこにある!? 棚に見あたらないんだがー!」
くわえタバコをしたバーボンが、ヒョイッと顔を窓から出して尋ねます。
「もう。バーボン先生ったら。昨日、脱衣場に置きっぱなしだったでしょう。
記入途中だったカルテは、先生の机の引き出しに入れましたよ。ラゲインさんのもあるはずです」
メルが呆れたように言うのに、バツが悪そうにしてバーボンは万年筆のキャップで頭をかきます。
「そ、そうか…」
「ハハハ! バーボン先生は、メルちゃんがいなきゃダメだなぁー。さっさと嫁さんにもらっちゃえよ。あんな良い娘さん、他にはいねぇーぞ」
そんな声が部屋から聞こえてきます。メルには、それが通院しているラゲインのものであると解っていたのでクスッと笑いました。
バーボンは珍しく赤面して、手にしたタバコを途中で折ってしまいます。
「う、うるせぇ。くだらねぇこと言っていると痛み止めださねぇぞ!」
慌ててバーボンが窓を閉めるのを見て、またおかしくなってメルは口元を抑えて笑ってしまいました。
こういう何気ない出来事が、今のメルにはとっても幸せなのです。
空を飛ぶ鳥たちが、楽しそうにチチチと鳴きます。本当に平和だなとメルは思いました。
「……はぁ。あれから2年か。今頃ノアはどこでどうしているかしら?」
メルは空を見やりながら、ちょっと懐かしそうにそう呟きました……。
今から2年前、破壊の魔神バルバトスが復活し、この世界を恐怖のどん底に叩き落としたのでした。
それを阻止するため立ち上がったのが、ノアを筆頭にした8人の英雄たちなのです。それにはメルやバーボンも含まれていました。
苦心の末ようやくのことで魔神を倒すことに成功し、世界は再び平和を取り戻したのです。
そして今のメルは滅多に魔法を使うこともなく、このバーボン診療所で助手として働いています。
それからの幸せな2年間はあっという間にすぎ、メルももう18歳です。あの頃よりも成長して、心も身体も立派な大人の女性でした。あどけなさも薄れ、今では美少女ではなく、美人という表現が正しいでしょう。
声をかけてくる男性の数も増えました。その度に断るのもなかなか申し訳ない気がするのですが、メルにはもうずっと前に心に決めた男性がいるのです。
「…真面目なんだか、奥手なんだか。でも、私はずっと待っていますけどね」
さっきバーボンが顔を出していた窓に向かって、メルはわざとらしく舌を出してみせます。
パンパンと自分の前掛けをはたき、洗濯カゴを抱えて、部屋に戻ろうと歩き出しました。
次は診療所の掃除をしなければなりません。午後からはもっと患者が来るはずです。それまでに、待合室だけでも綺麗にしておかなければなりません。助手の仕事は山ほどあるのです。
「メルメルボー!!」
「メル姉ちゃん!!」
急に呼び止められ、メルは目を丸くして立ち止まりました。
振り返ると、垣根の向こうに見知った顔がいます。2人の顔を見て、メルは嬉しそうに微笑みました。
「あら。ボーズ太郎にシャリオ。久し振りね!」
歳をとっても姿が変わらないボーズ太郎はいつもの通りでしたが、シャリオは12歳となってかなり身長がのびていました。
健康的に浅黒く日焼けしていて、腰にはショートソードを帯びています。泣き虫だったシャリオが、盗賊の親分バッカレスの元でずいぶんとたくましく鍛えられたであろうことが一目でわかります。
「半年ぶりくらいからしら? ボーズ太郎、今日はお休みなの? 仕事のほうはいいの?」
ボーズ太郎は、ジャスト城で船を造る手伝いをしていて忙しいのです。
もう少しで完成し、試運転するという話だったので、いまはもっとも忙しい時期ではないでしょうか。
「そんなのいつでも出来るボー! そんなことより大変なんだボー!!」
「大事件なんだよ!」
珍しくボーズ太郎がパニックを起こし、シャリオが興奮した様子で垣根を飛び越え、メルの手をガシッと掴みます。
「なに? シャリオ。…大事件って?」
メルが目を白黒させていると、ボーズ太郎とシャリオは顔を見合わせてニッと笑いました。
「実は……」
☆☆☆
ジャスト城下町と盗賊の森を結ぶエルジメン橋。そこにメルやバーボン、シャリオにボーズ太郎、そして盗賊たちの面々が集結していました。
「おーい! 来たぞ!!!」
ヤグルが木の上で双眼鏡ごと手を振って叫びます。
メルはドキドキする胸を抑えました。深呼吸を何度も繰り返して落ち着こうとします。
遠くから、ゴーッという地響きのような音が聞こえてきます。それがだんだんと大きくなり、ついに巨大な舟が姿を現しました。
川を遡って来たのは、“ノアの方舟”でした。
森の鳥たちが驚いて飛び立ち、川下で魚をとっていたメルシーが慌てて逃げていきます。
「マジか…。半分、冗談だと思っていたんだが」
バーボンが火を付けようとしていたタバコをしまい、シャリオは鼻の下をこすって得意そうに笑いました。
「聖剣エイストの波動はちゃんと感知できるって。ホントだったでしょ?」
「我らの探知技術は絶対だボー!」
シャリオの手には、小さな箱形の機械が握られていました。
中央のガラス窓みたいなものが、チカチカと激しく点滅しています。それはノアの方舟に反応しているようでした。ボーズ星人たちのロスト・テクノロジーが作り出した一品なのです。
ノアの方舟はゆっくりとエルジメン橋の前で停まります。
人々は息をひそめ、事の成り行きを見守っていると、舟の甲板を何者かが走って来る音がしました。
舳先に辿り着くと、眼下にいる人々を見やってヒューッと口笛を吹きます。
「あれれー? アタシ、帰ってくるなんて手紙書いちゃったっけ? いきなり帰ってきて、皆を驚かしてやろうと思ったのになぁ!」
あっけらかんと言う粗野な声。その声を聞いただけで、懐かしくてメルは目がうるんできてしまいます。
「ノア!!!」
たまらずメルが声をあげるのに、ニッとノアは笑いました。
年季の入ったゴーグルを額に当て、燃えるような赤髪は2年前よりは少しのびています。
薄着なのは相変わらずでしたが、身体のあっちこっちに刀傷やひっかき傷があり、それが過酷な冒険をくぐり抜けてきたことを示しています。
腰のバッカレスダガーも随分と使い込まれているようでした。2年前はちょっとノアの手には大きいんじゃないかと思われましたが、今では完璧にノアの専用の武器なのであります。
「よっと!」
ノアが舳先から飛び降り、橋の上に見事にシュタッと着地します。
「ああ、ノア…。おかえりなさい!」
「ただいま、メル!」
成長しているのはお互い様でしたが、その顔や仕草は少しも変わることありません。ノアにメルがガシッと抱きつきます。
「ノア姉ちゃん! ぼ、僕! 僕!!」
「おー!? もしかしてシャリオか? 大きくなったな!」
背中に抱きついてくるシャリオの頭を、乱暴にガシガシとなでます。
今ではシャリオはノアとほとんど背が変わりません。昔みたいに抱き上げることは無理そうですね。
「ったく、不良娘が…。帰ってくるなら言えよ。歓迎の用意もできねぇじゃねぇか」
「バーボンおじさん! 皆が元気でいてくれることが、何よりもの歓迎だよ。アハハ、それよりまたシワが1つ増えたんじゃない~?」
「おじさんじゃねえッ! …とはもう言えねぇな。俺も」
バーボンはフッと笑います。
「あー、ノア! ますますワイルドになって!」
「…あーあ。メルメルとは対称的に、どんどん女から離れていくなぁ」
ヤグルとシュタイナがちょっと涙目になりながら言います。
「んだよ! 久し振りに会ったと思えば失礼な! …ギャン!」
口を尖らしたノアの頭に、鉄拳が振り下ろされます!
ノアは痛む頭を抑えて振り返りました。ああ、顔を見ればそれは懐かしい痛みです。
「こんの馬鹿が! なーにが『ちょっと冒険してくる』だ! ガッハッハッハ!」
「親分!!」
心底懐かしそうに、痛みも忘れてノアもつられて笑います。
バッカレスはこんな時でも酒をあおっていました。ノアはそれを見て、本当に何も変わらないなと思います。
「ニャッハッハ! ノアにゃ! ノアにゃ!」
欄干を伝って、何かが走ってきます! そして斜め上から飛びかかって、それはノアに抱きつきました。
予想外の場所から抱きつかれたノアは、ちょっと驚いた顔をします。
「も、もしかして、ミャオ!?」
ゴロゴロと甘えてくるのは、大きさこそ2年前と違いましたがミャオでした。
なんだかメルやシャリオなんかよりも大きくなってしまっていて一瞬わからなかったのです。今や子ネコというより、ヒョウか何かを思わせる姿です。
前は甘えてくるという表現が正しかったのですが、今ではなんだかノアがヌイグルミのように抱きしめられてあやされているみたいです。
「なんだか、変わっていないヤツらは全く変わってないけれど。変わったヤツは皆かわっちゃったなぁ!」
ノアは嬉しそうに言います。全く変わらないボーズ太郎はコクコクと頷いて見せました。
「ああ。ノア、積もる話がいっぱいあります。手料理も上達したのよ。いっぱい、いっぱい食べてもらいたい!」
メルがパンと手を叩いてそう言います。料理と聞いて、ミャオの目がランランと輝きます。
「アハハ、解ったって! 行くから! そんなに引っ張らないでよ~」
ノアはメルたちに囲まれるようにして、盗賊の森へと連れて行かれました…。
「……あのぉー。僕もいるんですけれど」
大荷物を抱え、舳先にようやく辿り着いたスタッドにはこの場にいる誰も気づいていませんでした。
寂しそうにスタッドはガクリと肩を落とします…。
食べきれないほどの料理を持ってこられ、ノアは苦笑いしながらも一生懸命に、ミャオと競うように食べます。
シーラに仕込まれたメルの料理はかなり上達していました。どれもこれも美味しくて仕方がありません。
なにせ冒険生活では、乾パンや干し肉がメインだったのです。温かいシチューや、柔らかいトロトロの肉なんて食べれる機会はまずありません。だからこそ余計に美味しく感じます。
「ヤグルさん、薪が足りませんよ! 急いで追加して! グラタンが生焼けになっちゃいます!
シュタイナさん、ミルクを買ってきてください! かれぐれも前みたいに間違えてヨーグルトを買ってこないように!
バーボンさん、薬品の調合じゃないんです! ビーカーで調味料を合わせないで! 目分量もダメ!
バッカレスさん、何度言ったら解るんです!? つまみ食いは禁止です! 次やったらアルティメットですよ!!」
ビシバシ指示を出すメルに、男たちはたまらず悲鳴を上げながらも従います。
「アハハハ、なんだかメル。かなりパワーアップしちゃってるねぇ~」
「シャリオがちゃんとしたもの食べれてないんじゃないかと、ときどき盗賊の森に来て作ってあげてるみたいだボー」
ボーズ太郎が言うのに、シャリオがコクリと頷きます。
「お皿が足りませんよ! 洗って拭いたらすぐ持ってきて下さい!
ほら、そこ! 切った野菜はこっちに持ってきて下さい! まな板の上に置きっぱなしはダメです!」
「おーい。メル。アタシはもうそんな食べられないよー。もう料理はいいからさ。メルもこっち来なよ」
ノアが台所に向かってそう言うと、メルがハッとして振り返ります。そしてちょっと照れくさそうに笑いました。
「あ。…ごめんなさい。つい、張り切りすぎちゃって」
エプロンを外し、後始末をお願いしてメルがやってき来ます。
ようやく解放されたと、男たちはその場で倒れ込みました。
「ごちそうさま。とても美味しかった。ほっぺが落ちるかと思ったよ」
「ウフフ。おそまつさまです。ノアのために作ったのに、なんだかミャオばかり食べてますけどね」
メルがおかしそうに言うと、ミャオが「ミャ?」と目をグルリと回しました。
「アハハ、2人とも変わってなくて安心したよ。ま、見た目は…かなり引き離されたけどね」
ノアの視線が、メルとミャオの胸元を行ったり来たりします。
ノアの胸に足りない物が、2人の胸には充分すぎるぐらい備わっているのです。
その視線の意味に気づき、メルは恥ずかしそうに胸元を抑えました。ミャオは解らずに首を傾げます。
「…こういう話をすると、鼻血を吹き出すヤツが必ずいたんだけれど。姿が見えないね」
ノアがキョロキョロと辺りを見回しました。
「…陛下は夕方まで執務だ。それを終えてから会いに来るだろう」
いきなり背中からそんなことを言われ、ノアは飛び上がります。
「オ・パイ!? アンタも帰ってたのか?」
ノアの後ろにいつの間にか立っていたのは、これまた姿が2年前と変わらないオ・パイでした。
「ええ。お父さんは、1年ほど前にね。やっぱりずっと修行していたみたい。帰ってきたって報告の手紙は送ったんだけれど…届かなかったかしら?」
「あー。見た覚えがないなぁ。ん、1年前だったら…ちょうど、でっかい洞窟の探検してたからなぁ。アタシが受け取れなかったのかも」
「フン…。未知の大陸を歩き回り、さぞかし腕が上ったであろう。旅の疲れが癒えたら、久し振りに手合わせをどうだ?」
口元をニヤリとさせるオ・パイの提案に、ノアはブンブンと首を横に振ります。
「冗談じゃないよ! アンタとは2度と戦わない! そんなに戦うの好きなら、レイとかと…」
ノアはその名前を口にして、ピタッと止まります。
「あれ? アンタ…。いま確か陛下って…」
オ・パイの眉がピクリと動きます。しかしオ・パイがそれについて説明する気がないのだと見て、メルが答えました。
「これも手紙に書いたんだけれど…。実は、レイは王様になったのよ。前の王様が引退されてね。だから、今とても忙しいみたい。誘ったんだけれど、今日もノアの出迎えにこれなかったのはそういうわけなの」
「へー。レイが…王様かぁ」
ひときれだけ残っていたパイを口に入れ、ノアはちょっと考えます。
王子であった時はあまり意識していませんでしたが、王様となるとなんだかとても偉い人のようで、ちょっと距離を置かれてしまったような寂しいような気がします。
「彼は指導者としての資質が充分にあったからね。いつ国王になってもおかしくないと思っていたけれど…それにしても、ずいぶんと早いですね」
部屋の端に座って紅茶をすすっていたスタッドが言います。
「前王は退位をずいぶんと前から考えておられたようだ。そもそも政治家である前に武人だったからな。弁舌よりも、剣技で施政ができればなどと冗談を仰っていたぐらいだ。
ああ、もちろんそれは決して現陛下が剣士として劣るという意味ではないが…」
オ・パイがそう訂正しますが、レイの強さは、仲間であったノアたちは充分に承知していました。ジャストでも最強クラスの剣士であることは疑いようもないことでしょう。
「…ドレード元老長との太いパイプを作りあげたのみならず、人心をまとめ、崩壊したジャスト城を1年で元通りに戻したこの手腕だ。政の才では、明らかにレイ陛下が上だろう」
「なるほど。魔神バルバトスの問題が片づいたのが、よい節目となったんですね」
スタッドも合点がいったのか頷きます。
「…それで、オ・パイ殿は、レイ陛下の補佐に戻られたのですか?」
鼻メガネにしたスタッドの目が、試すかのようにオ・パイを見やります。
「まさか…。私はもはや一介の暗殺者…いや、拳士に過ぎぬ。政治に関与する気はさらさらない」
皮肉めいた笑いを浮かべるのに、スタッドは面白そうに笑い返しました。
「そんな難しい話はいいよ! ノア姉ちゃん、冒険の話を聞かせてよ!」
シャリオが立ち上がり、キラキラした瞳でノアに詰め寄ります。冒険とかにことさら興味を抱く年頃ですからね。
スタッドとオ・パイは、顔を見合わせて肩をすくめました。
ノアはしたり顔で腕組みします。
「いっぱい話すことあるよー。そうだなぁ。ああ、そうだ! アタシら以外の種族についての話とか…どうよ!?」
「え? それって、ファル、メリン、デム以外ってこと?」
「そうそう。世界にはアタシら以外にもいたんだよ。なんか総称して“亜人”とか言うらしいんだよねぇ。その中には空を飛んだり、海を泳いだりする種族もいてさ」
「え? 空や海を?」
「うん。そりゃ驚いたのなんのって……」
盗賊の小屋の外。火照った身体を冷ますのに、ちょうど心地よい涼しい風が吹きます。
もっと話を気かせてくれとねだるシャリオとボーズ太郎から解放されたのは、ずいずんと日が落ちてのことでした。
冒険の疲れもあって、ノアは半分眠気を覚えながら、切り株に腰をかけて月を見やっていました。
「はー。あの頃は、こうやってずっと月みてたなぁ。どうかねぇ、あの頃に比べてちょっとはアタシも成長したのかねぇー」
ノアは手の平を月にかざして呟きます。
昔みたいに小さくて何もつかめない手ではありません。大きさこそ変わらないかもしれませんが、ノアはこの手で多くの敵と戦い、多くの宝を手にして、未知の大地をくぐり抜けて来たのです。今ではどんな問題にだって対処できそうな気がします。
「…過去を振り返るってことは、それだけ経験を積んだってことだよ」
聞き慣れた凛とした声。
戦場で聞くと、これほど頼もしい男の声をノアは知りません。背中を預けられるほど信頼できるヤツです。
「…おっそーいぞ」
ノアが振り返りもせずに笑いながら言います。
その声の主は、勝手を知ったるかのようにノアの横に立ちました。
「悪い。本当はもっと早く終わるはずだったんだ…。無駄な会議ばかりでね」
「でも、いまこの国を動かすのに大事なことなんだろ…? 無駄なんて言っちゃダメだよ」
ノアがそう言うと、隣の男はプッと吹き出しました。
「らしくないな。いつものノアなら、そんなこと言わないだろ」
「アタシだって…いつまでも子供のままじゃないさ」
すねたように口を尖らすノアがおかしかったらしく、男は口元を抑えながらその場に座ります。
「…んー。背のびた?」
久し振りすぎるせいか、何を言うべきか解らず、ノアはそんな事を尋ねます。
相手は座ってますし、ましてやレイの方を見たわけではないので、そんな質問はおかしいと自分では解っていたのですが…。
「ん? 少し…かな。たぶん、5㎝ぐらい…だと思うが」
そんな生真面目に答えられたせいで、ノアはなんだか居心地が悪いのを感じます。
なんでしょう。メルやミャオと一緒にいるのと違います。2人はノアが何も言わないでも喋ってくれます。話が勝手に盛り上がるのです。
でも、相手が男だとそうはいきません。こちらから言わないと、何も会話が成り立たない気がしてしまうのです。
まあ、父親であるスタッドがそういうタイプなので(肝心なことは一切喋らず、聞かれないと答えない典型的なダメ男なんですが)、ずっとそんな彼と行動していたせいもあるんですけどね。
「…ふーん」
やはり話が進まないのに、ノアはちょっと困ってしまいます。
しばらく気まずい沈黙が続きます…。何か言えよと思うのですが、レイからは話そうとする気配はありません。
ノアは必死で何か喋ろうと考えますが、考えれば考えるほど頭が真っ白になってしまいます。
しかし、どうやら沈黙が気まずいと思っていたのはノアだけではなかったようです。わざとらしく咳払いをして、相手の方がようやく先に口を開きました。
「……あー。ノアはどうだったんだ?」
「どうって?」
「いや、そりゃ色々あるだろ。……なんだか、傷だらけだしさ」
月明かりに、自分の傷跡がくっきり見えるのだと知って、ノアはなんとなく気恥ずかしいものを感じます。
相手のジロジロと見てくる視線を感じて、無意識のうちに身を縮こまらせてしまいます。そんなことをしても無駄なのは解っているのですが…。
「そっちは…んーと、まだ船とやらは完成してないんだろ?
へへ。アタシは…結構、他の大陸の色んなところ調べたよ」
ノアは鼻をこすり、そう言って笑います。
傷だらけになった理由はあえて言いませんでした。一言で説明できるものでもないですし、大して面白い話でもなかったからです。
でも、それ以上にあんまりレイには話さない方が良いような気がしました。その理由はノアにもよく解りませんでした。
「全部行けたわけじゃないんだけどさ。まだまだ世界は広いよ」
「そうか…。負けてられないな。船の完成はもう少しだ。もう試験段階にまできているところだよ」
「完成する前に、アタシが全踏破しちゃうもんね。レイが来たらアタシが先頭に立って案内してやるよ」
「…え?」
レイは少し驚いたような声を上げます。
「もしかして、また旅に行くのか?」
「は?」
何を当たり前の事を聞くのかと、ノアは思わず振り返ってしまいました。
その時、思ったより近くにいたレイの顔がノアの瞳に映り込みます。
男子3日会わざれば刮目して見よ…その言葉は本当だとノアは思い知らされました。
18歳になったレイは、なんだか全てが違って見えました。昔の面影はありますし、美形だったのは当時のままです。綺麗な金髪も変わりません。幼さが消えたのは、ノアもメルも同じでした。
でも、なんというか、その人の雰囲気そのものが大人になったのだと感じさせるのです。
王様になったことで、大きな責任を負うようになったからでしょうか? ジャストを、デムを率いていかなければならないというプレッシャーが、レイをより大きく成長させたようにノアには思えました。
「あ…ああ。もちろん。まだまだ冒険しなきゃいけないからね。
ここに戻ってきたのも、方舟の燃料転換装置が調子悪くてさ。ボーズ長老だったら直せるんじゃないかなぁと思ってのことだよ。
悪いところを直してもらったら…すぐにでも発つつもり」
何も悪いことを言っているわけではないのに、ノアはなんだかしどろもどろになって言います。
まるで旅立つのがいけないことのようで、言い訳をしているみたいだとノアは自分で思いました。
「……そうか」
レイの返答は静かなものでした。
言葉数が少なすぎて、ノアにはレイの気持ちが読みとれません。こんなに会話のしにくい相手だったかなぁとモヤモヤしたものを感じます。
「…あ。そうだ! レイ。アンタ、メルとはその後どうなったのさ? なんだかまだバーボンおじさんとはくっついてないみたいだし。まだチャンスあるんじゃないのぉ!?」
唐突ではありましたが、ノアはレイの弱点を思い出して言います。
メルの名前を出したら、レイはいつものように動揺してくれるはずです。ノアばかりモヤモヤさせられるのはなんだか悔しい気がするのです。
「メルは……もういいんだ」
「へ?」
予想外の反応に、ノアはギョッとした顔をします。
あれだけメル、メルと騒いでいたレイがどうしたというのでしょう?
熱でもあるのかと、ノアはレイの額に手を当てます。
「…熱なんかないよ。本当だ」
レイはやんわりとノアの手を外します。
「ど、どうしたの…? まさか、あきらめちゃったのかよ?」
レイはちょっと苦笑いして、ノアを見やります。
ここに来て初めてちゃんと目が合いました。強い意志が宿った金色の瞳。ですが、今日はなんだか憂いを帯びています。
なんだかノアは、その瞳を見て落ち着かなくなりました。
「メルはバーボン先生と一緒で幸せなんだと思う。時間の問題だよ。もう俺が入り込む余地はないさ」
その達観した表情から、それがレイの本心なのだとノアは解りました。
「……アンタこそ、アンタらしくない」
ノアはふて腐れたように言いました。
子供っぽい台詞でしたが、なんだか、さっきからレイなのにレイと話している気がしないのです。
「なんだよ! レイはそんなんじゃないだろ! 馬鹿でスケベだけど…なんだか、こう熱くてさ。『メルーッ!』って特攻するのがレイじゃないか!」
「…俺のイメージって」
「なんか今日のレイはイヤな感じ!」
ノアが頭をガシガシとかきながら言うのに、レイはちょっと驚いたようでした。
でも、やがて吹き出して腹をかかえて笑い出します。そんなレイの態度を見て、ますますノアは不機嫌になりました。
「何がおかしいんだよ!」
「ハハハ! ごめん。いや…さっきのは撤回するよ。やっぱり、ノアはノアだよ。らしくないなんてない。気持ちが先で、口に全部だしてしまうのは変わらないな。でも、やっぱり、俺のことそうやって思ってたのは心外だなぁ」
笑われたことは不愉快でしたが、笑っている姿は昔のレイのままでした。そのせいか、ノアは怒りのやり場を失ってしまいます。
「…気を悪くしないでくれ。俺も…自分の気持ちを確かめるのに2年もかかったんだ」
「自分の気持ちを…確かめる?」
ノアは訝しげな顔をします。
レイがゆっくりと立ち上がりました。ノアもつられて立ち上がります。
「いなくなってから…気づくなんて、恋愛小説じゃあるまいしと笑われるかもしれないけれど」
「恋愛小説?」
そんなものを読んだ経験がないノアは苦い顔をします。
前にメルに勧められましたが、表紙を見ただけで飽きて読まなかったのを思い出します。読もうとすると眠くなるんだから仕方がありません。
「もう今度こそ手放したくないと考えている」
「は、はあ?」
レイの言っている意味がわからず、ノアは首を傾げます。何を手放したくないというのでしょうか。
「…ノアが旅にでたせいで、連絡がつかなくなって…俺は後悔した」
「…はあ。そりゃね。ずっと動きっぱなしの旅だったし」
旅先ではメルの手紙がたまに届くくらいでした。
魔法を使えば頻繁なやり取りは可能だったかも知れませんが、レイとそんなに連絡しなければならないほどの用事がノアには思い当たりません。
「そして、戻ってきたら…もう旅には行かせるつもりはないって決めたんだ」
「は、はあ。そうですか…。ん? …はあ!? な、何を言ってんだよ。レイ! 旅に行かせるつもりはないって、まさかアタシのことを?」
レイは涼し気な顔で、「そうだが」なんて答えたので、ノアはみるみるうちに真っ赤になります。
「アタシが旅をするのはアタシの勝手だろうが! いくら王様だからってそれを止める権利なんてない!」
もしかしたらジャスト国の法律か何か旅行禁止が決まったのかも知れません。前にスタッドがそれらしき事を言っていたのですが、ノアは詳しい話は忘れてしまっていました。しかし、権力者と何かしらのトラブルになる可能性については散々と聞かされていたのです。
ノアが激しく怒るのを見て、レイは気まずそうに頬をかきました。
「まだ解らないのか?」
「なにが!? なにが解らないってんだよ!?」
怒り冷めやらぬノアに、レイは大きくため息をつきます。
そして、レイは何かを決心したかのように顔を上げました。そして、ノアの両肩をガシッとつかみました。
「お! やるってのか!? このヤロー! 殴り合いなら負けないぞ!」
ノアが両拳をグッと握りしめてファイティングポーズをとります。
「はあ。ムードのカケラもない…」
「こちとら生きるか死ぬかの毎日送ってんだ! 王座にふんぞり返って偉そうな顔してるヤツなんかに負けるかよ!」
「俺はノアのことが好きなんだ!」
突然の告白…。ノアもレイもお互いに視線が外せません。しばらく時が止まります。
それから2人がどうなったか。その結末は、まん丸いお月様だけが見ておりました…………。