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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第8話

「視点:ミラ」

 聖女セラフィナの私室は、外界の喧騒が嘘のように遮断された、甘ったるい死体安置所のような匂いがしていた。最高級の乳香と、それを台無しにする熟れすぎた果実、そして昨夜から彼女がこっそりと飲み続けている蒸留酒の、刺すようなアルコールの残り香。それらが混ざり合い、肺の奥にへばりつく。セラフィナは、宝石を無数に散りばめた贅沢な寝椅子に身体を沈め、まるで自分の爪だけがこの世界の中心であるかのように、磨き抜かれた指先を交互に眺めていた。

 「帝国へ行く? 冗談はやめて。あそこは規律と鉄の匂いしかしないんでしょう? 私の繊細な肌が、あの乾燥した北方の空気で荒れたら、あんたたちが責任を取ってくれるわけ?」

 彼女の声は、高価な楽器が不協和音を奏でるように耳に障る。執事のフェリックスは、背筋を一本の針のように真っ直ぐに伸ばしたまま、微動だにせず、しかし執拗に言葉を重ねていた。彼の忍耐強さは、もはや一種の狂気に達している。

 「セラフィナ様。これは単なる外交ではなく、あなたの……そして我々の生活を維持するためのメンテナンスです。帝国との全面戦争が始まれば、あなたが愛してやまないこの王宮のワイン蔵も、市街の馴染みの宝石店も、すべては灰に消える。自由奔放な生活を死ぬまで謳歌し続けたいのであれば、まず『平和』という名の土台を修復しなければならないのです。そのためには、あなたの『清らかさ』というブランドを、帝国の現皇帝に、暴力的に思い出させてやらねばなりません」

 「ブランド……? 私を物のように言わないでよ、フェリックス」

 「役割の話をしているのです。陛下が中身のない『威厳』で暴発させたこの事態の尻拭いをする。それができるのは、神の代理人というラベルを貼られた、あなたという演出品だけなのです」

 私は、セラフィナの足元に跪き、彼女の乱れたドレスの裾を整えながら、そのやり取りを黙って聞いていた。

 セラフィナはため息をつき、銀の皿から大粒の葡萄を摘み取ると、行儀悪く口に放り込んだ。紫色の果汁が、彼女の薄桃色の唇の端から一筋垂れる。それを私は、自分の指先で、汚物を処理するように拭い取った。

 「要するに、私があの堅苦しい連中の前で、神の愛とか、反吐が出るような台詞を、さも信じているような顔で並べればいいんでしょう? 面倒くさいわ。ミラ、あんたが行きなさいよ。ヴェールを深く被って、震える声で祈っていれば、向こうの連中なんて簡単に騙せるわ。どうせ誰も、私の本顔なんて見てやしないんだから」

 「今回はそうはいきません、セラフィナ様」

 フェリックスの声が、絶対零度まで下がった。

 「先代皇帝は、先代聖女……あなたの母上の瞳の輝きを、個人的な記憶として脳裏に焼き付けている。影武者では、魂の重みが足りません。出発の儀式、そして最初の会談だけは、本物が出ていただく必要があります。これは、王宮補佐官のエドガー殿も強く念押しされていることです」

 「嫌よ。絶対に行かない」

 セラフィナは、刺繍入りのシルククッションをフェリックスの顔面に向けて投げつけた。彼女には、この国が今、崖っぷちに立っているという実感がない。あるいは、自分が何を失おうとしているのかさえ、想像する知性がない。欲望が剥き出しのまま肥大し、責任という概念をすべて外部へ排泄してしまった結果が、この寝椅子の上に転がっている。私は彼女の背中を見つめながら、思考を停止させた。役割を守る。そのために、私たちはこの空っぽな神殿を飾り立て続けなければならない。たとえ中身が、ただの肉の塊であっても。

 深夜。私は、厨房の奥にある冷え切った貯蔵庫に忍び込んでいた。あまりにも自分本位なセラフィナの態度。それを「聖女」として成立させるために、自分の人生のすべて、呼吸の一つさえも費やしていることの無意味さ。何かが、私の内側で致命的な音を立てて折れた。私は、棚の奥に隠されていた、料理用の安酒の瓶を手に取った。

 普段の私なら、決してしない。影武者として、常に心身を清潔に保つのが私の「プロ意識」だったはずだ。だが、今夜だけは、その意識が泥のように溶けていくのが分かった。コルクを指で強引に引き抜き、瓶の口をそのまま咥える。喉を焼くような、質の悪いアルコールの刺激。

 「……なんで、私が」

 声に出すと、それは酷く惨めだった。私は聖女の代わりに泥を被り、聖女の代わりに悪評を背負い、そして今、聖女の代わりにこの国の終わりを予感して、一人で震えている。当の主君は、今頃ぬくぬくと毛布の中で夢を見ているというのに。

 どれくらい飲んだだろうか。視界が回転し、重力が歪む。私は貯蔵庫を出ようとして、大きな木樽に身体をぶつけ、派手な音を立てて転倒した。瓶が石床に当たり、甲高い音を立てて粉々に砕ける。安っぽいアルコールの匂いが、狭い廊下に充満した。

 「……おい、誰だ、こんなところで」

 運悪く、交代の巡回をしていた見回りの兵士たちが、冷ややかな視線を私に向けていた。

 「なんだ、聖女様の侍女のミラじゃないか。また飲んでいるのか」

 「噂通りだな。聖女様があんなに天上的で清らかなのに、そばにいるのがあんな淫らな酒飲みだなんて。なあ、こんなところで寝転がって、誘ってるのか?」

 一人の兵士が、濁った笑みを浮かべて近づいてくる。彼は私の肩を乱暴に掴み、壁に押し付けた。甲冑の冷たい感触と、男の不快な体臭が鼻を突く。「聖女の汚れ物」である私には、何をしても許されるという、この城の暗黙の了解が、彼の厚い手のひらから伝わってきた。

 「やめなさい」

 低く、剃刀のような鋭い声が廊下に響いた。フェリックスだった。彼はいつもの無表情のまま、兵士の腕を驚くべき速さで掴み、捻り上げた。

 「彼女は聖女様の所有物だ。貴様のような端霊が触れていいものではない。失せろ」

 兵士たちが這う這うの体で逃げ去ると、フェリックスは溜息一つ吐かずに、泥酔して動けない私を軽々と抱き上げた。

 「……フェリックス……?」

 私は朦朧とする意識の中で、彼の首筋に腕を回した。いつもは鉄のように冷たく感じる彼の体温が、今はひどく優しく、心細さを埋めてくれるように思えた。私は無意識に、彼の胸板に顔を押し付け、離すまいと強く抱きついていた。彼は一瞬だけ足を止めたが、何も言わずに私を部屋まで運び、ベッドに沈めた。去り際、私の髪をなでるような感触があった気がしたが、それを確認する前に、私は深い眠りの底へと落ちていった。

 翌朝、二日酔いの激しい拍動が、脳内を金槌で執拗に叩き続けていた。冷水を浴び、震える指先でなんとか侍女の制服を整える。断片的な記憶はあるが、自分がどうやって部屋に戻ったのか、なぜこれほどまでに心がざわつくのかが分からない。

 廊下に出ると、偶然フェリックスと行き合った。

 「おはようございます、フェリックス」

 声をかけたが、彼は私と視線を合わせようとはしなかった。

 「……ああ。準備を急げ。セラフィナ様がお待ちだ」

 その声はいつも以上に硬く、余所余所しい。昨夜、彼に迷惑をかけたことは確かなのだろう。私は記憶のない自分に苛立ちながら、逃げるように聖女の部屋へ向かった。

 だが、部屋にいたのは、昨日までの、あの身勝手な欲望の怪物ではなかった。

 セラフィナは、大きな鏡の前で、一本の彫像のように背筋を伸ばして立っていた。一点の曇りもない白の礼装を纏い、黄金の刺繍が朝日に輝いている。その表情は、慈愛と決意に満ち溢れ、まるで今この瞬間に天からの啓示を受けたかのような、神々しいオーラを放っていた。

 「ミラ、遅かったわね。出発の準備はできているわ」

 その声は、清涼な泉のせせらぎのように澄み渡っていた。

 「……セラフィナ様。帝国へ行かれる決心を?」

 「ええ。民衆の声が、私の耳に届いたの。我が身の安全など、神の御心に比べれば小さなこと。私は、バルドスの皇帝に会いに行きます。この清らかな光を、北方の暗雲の中に届けるために」

 私は絶句した。昨日、あんなに醜く拒んだ女と同一人物だとは到底信じられなかった。彼女は、自分が演じるべき「役割」のスイッチを完全に切り替えたのだ。一度スイッチが入れば、彼女は自分の本当の感情も忘却し、純粋な「象徴」へと同化する。その天才的な上っ面の良さに、私は猛烈な吐き気を伴う違和感を覚えた。



 馬車に積み込むための最後の手荷物をまとめていた時のことだ。私は、出発の間際にセラフィナが「これは持っていくわ」と適当に選び、化粧台の上に乱雑に放り出していった資料の束を手に取った。それはエドガー補佐官が、帝国の情勢をなんとか彼女の頭に叩き込もうと持ち込んできた、最新の情勢報告書や要人名簿だった。

 資料の中には、帝国の宮廷内部を秘密裏に写した、魔導写真が数枚混ざっていた。ふと、その中の一枚が、他の資料とは別に、鏡の縁に立てかけられているのに気づいた。

 それは、現バルドス帝国皇帝の近影だった。冷徹な美貌、鉄の意志を宿した切れ長の瞳。その写真の、皇帝の顔のすぐ横に、見覚えのある極彩色のペンで、歪な、しかし巨大なハートマークが書き込まれていた。

 「……嘘でしょう」

 驚きはそれだけでは終わらなかった。資料をめくると、皇帝の背後に写り込んでいる、屈強な帝国の騎士団長の写真にも、小さな星マークと、殴り書きのような文字が躍っていた。

 『ストライク。こっちは予備。』

 彼女が突然、あんなに神々しく、迷いなく「帝国行き」を宣言した理由。そのすべてが、一瞬で理解できた。平和のためでも、民衆の救済のためでもない。彼女は、ただ、写真に写った男たちが「自分好みのタイプ」だったから、彼らを誘惑しに行くことに決めたのだ。

 昨日、フェリックスが必死に説得した理論も。私が絶望して流した涙も。すべては、この強欲な動機の前では、単なる背景の雑音に過ぎなかった。

 「ミラ! 何をしているの、早く来なさい!」

 階下から、完璧な聖女のトーンでセラフィナが私を呼ぶ声がした。

 「はい、ただいま」

 私は、ハートマークの書かれた皇帝の写真を、乱暴に手荷物の奥へ押し込んだ。



 純白の馬車から聖女が降り立った。

 王宮広場を埋め尽くした数万の民衆が、一斉に静まり返った。

 朝の凍てつく空気が、一瞬にして神聖な沈黙へと塗り替えられる。その中心に、彼女がいた。

 聖女セラフィナ。

 純白の法衣に身を包み、銀糸の刺繍が朝陽を反射して、彼女の輪郭をこの世のものとは思えない光の帯で縁取っている。彼女が降りてくるその一歩一歩は、まるで水面を歩くかのように軽く、それでいて大気を浄化していくような確かな重みを伴っていた。

 視界に入る彼女のうなじ、指先のわずかな動き。それらすべてが、昨日まで寝椅子で酒の匂いを撒き散らしていた女と同一人物だとは、到底信じがたい。今、私の前を歩いているのは、肉体を持った概念そのものだった。

 「聖女様……! ああ、聖女様……!」

 最前列にいた、病に冒されているのか肌の色の悪い男が、せきを切ったように泣き崩れ、彼女の通り道に身を投げ出した。警護の兵士が排除しようと動く。だが、セラフィナはその繊細な掌を優雅に掲げ、それを制した。

 彼女は、迷うことなく泥にまみれた石畳に膝をついた。

 最高級のシルクが汚れに浸食されるのも構わず、彼女はその男の、ひび割れた汚れた手を、自らの白磁のような両手で包み込んだ。

 「神の愛は、常にあなたの痛みに寄り添っています。恐れることはありません。私がその苦しみの一部を、共に背負いましょう」

 その声は、広場の隅々にまで届くほど澄み渡り、聞いた者の魂を震わせる。

 演出。そう、これは完璧な演出だ。角度、声量、慈愛の眼差しを向ける秒数。そのすべてを私たちは訓練してきた。だが、目の前で繰り広げられるその光景は、あまりに完成されすぎていて、仕掛け人であるはずの私の心さえも、暴力的なまでの「清らかさ」に屈服させようとしてくる。

 広場は爆発的な熱狂に包まれた。人々は嗚咽し、祈りを捧げ、彼女が通り過ぎた後の石畳に触れようと殺到した。彼女の献身的な態度は、死を覚悟した使者としての悲劇的な美しさを湛え、民衆の絶望を希望へと変換させていく。

 私は、無意識のうちに、自分の肉体が彼女の動作を精密にトレースしていることに気づいた。

 彼女がまぶたを伏せれば、私も同じ速度で視線を落とす。彼女が右足を踏み出せば、私の左足がそれを補完するように動く。

 長年の代行、長年の調教。私の細胞の一つ一つが、セラフィナという虚像を成立させるための部品として最適化されていた。

 馬車に再び乗り込むその瞬間まで、私は彼女の残像をなぞり、聖女という役割を完成させるための「正しい動作」を演じ続けた。

 だが、馬車の重厚な扉が閉まり、民衆の喚声が遠のいた瞬間。

 聖女は、絹のクッションに身体を投げ出し、神々しい微笑みを消した。

 「……暑苦しいわね。あいつ、手が臭かったわ。ミラ、早く消毒して。それから、さっきの男の顔、誰かに似てると思ったら、帝国のあの騎士団長に少し骨格が似てたわね。期待しちゃうわ」

 窓の外では、まだ人々が奇跡を信じて泣いている。

 私は、さっきまでの感動の残滓を胃の奥で押し潰し、無機質な手つきで消毒薬を取り出した。

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