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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第7話

「視点:エドガー・クロウ」

 午前三時、執務室の空気は冷え切った煙草の煙と、誰かの焦燥が形になったような重い沈黙に支配されていた。

 私の前には、影の中から這い出してきたばかりの男が立っている。王室直属の暗部、コードネームは必要ない。彼はただ、この国の「裏側の真実」を運んでくる、音のしない郵便夫に過ぎない。

 「報告しろ」

 私の声は、自分でも驚くほど乾燥していた。喉の奥にこびりついたコーヒーの苦味が、眠りを拒絶している。

 「帝国の動向についてですが、奇妙な綻びが見えます。今回の宣戦布告、および北方三州の割譲要求。これらは帝国の最高評議会が一致団結して下した決定ではありません」

 男は、表情一つ変えずに続けた。

 「バッシュ伯爵の独断です。彼は帝国内部での権力基盤を盤石にするため、レオンハルト陛下の『威厳の欠如』を突いて、強引に開戦の既成事実を作り上げました。皇帝本人は、いまだ慎重な姿勢を崩していない。しかし、伯爵は前線の部隊に自らの印章で進軍命令を下し始めています」

 私は、テーブルに広げられた地図の、帝国の位置を指先でなぞった。

 独断。その言葉の響きは、甘美でありながら、猛毒を含んでいる。

 もしこれが帝国の総意であれば、もはや我々にできることは、より美しく、より被害を少なく滅びるための儀式を整えることだけだ。だが、一人の男の野心に端を発した暴走であれば、そこには「調整」の余地が生まれる。

 「バッシュは賭けに出たというわけか。レオンハルト陛下がパニックを起こし、無様に首を差し出すか、あるいは今回のように無謀な反撃を叫ぶか。どちらに転んでも、彼は『帝国の誇りを守った英雄』として凱旋するつもりだ」

 「その通りです。彼は陛下の弱さを、最も効率的な燃料として利用している」

 暗部の男は、一通の封筒を置いて再び影へと消えた。

 私は一人、暖炉の火が消えかけた部屋で、その報告書を見つめる。

 レオンハルトは、自分が罠に嵌まったことさえ気づいていないだろう。彼は今、自らの「威厳」が招いた破滅の予感に震え、深夜のワインを煽っているはずだ。

 調整係としての私の仕事は、この歪んだ状況をどうやって真っ直ぐに見せるか、あるいは、より巨大な嘘で上書きするかにある。

 バッシュ伯爵という個人を、帝国のシステムから切り離す。そのためには、王の威厳などという薄っぺらな皮膜だけでは足りない。

 私は、自分が持っている最も強力な「毒」のリストを頭の中で整理し始めた。

 胃が焼けるように熱い。それはいつものことだ。この熱が消える時は、私が役割を失う時だろう。



 「聖女様から、王宮へ伝言を預かってまいりました」

 昼下がり、聖女付きの執事フェリックスが私の執務室を訪れた。彼は、神聖な聖女の領域と俗世の王政を繋ぐ唯一の結節点だ。常に完璧な身なり、一分の隙もない礼儀作法。私は彼を、聖女という高潔な存在を支えるに相応しい、生真面目な男だと認識している。

 「聖女本人が、帝国へ使者として赴くと言っているのか?」

 「ええ。セラフィナ様の強い意志です。帝国の現皇帝の父君は、我が国の先代聖女に命を救われたという個人的な恩義がある。帝国がどんなに合理主義と秩序を謳おうとも、聖女セラフィナ様がその身を呈して放つ『清らかさ』の光は、皇帝の良心を呼び覚ます唯一の鍵となると、彼女は信じておいでです」

 私は、椅子に深く背を預けた。

 聖女セラフィナ。あの、神の愛を地上に具現化したような清純な女性が、自ら泥沼の交渉に身を投じようというのか。彼女の献身には、冷徹な私であっても一抹の敬意を抱かざるを得ない。

 「セラフィナ様が行くというのか。あの方が一時間も汚れた外交の場に立てば、その純粋さゆえに心に傷を負われるのではないか。帝国は野蛮な要求を突きつけてきているのだぞ」

 「彼女は『国が平和になるのなら、私は喜んで礎となりましょう』と微笑んでおられました。たとえその身が汚れようとも、神の慈悲を帝国の地へ運ぶのが、自らの役割であると。実に、尊いお方です」

 フェリックスの言葉には、一片の迷いもなかった。

 「いいだろう。バッシュ伯爵の独断を皇帝の耳に直接届けるルートが作ろう。『王の慈悲と聖女の献身』という美しい物語で進めよう」

 私は、フェリックスが差し出した計画書に目を通した。聖女の帝国行き。それは、この国が持つ最後の、そして最も美しい切り札だ。

 「フェリックス。セラフィナ様には、この計画がどれほど危険なものか、正しく伝わっているのか?」

 「ええ。彼女はすべてを受け入れておられます」

 私は、その自己犠牲の精神に、わずかに眩暈を感じた。この世に純粋な救いなどないと考えていたが、あの聖女だけは別なのかもしれない。

 私は、計画書を作り直すと王の間へ向かった。王という名の、空っぽの器に、新たな「物語」を注ぎ込む時間だ。

 レオンハルトの執務室は、贅を尽くした調度品とは裏腹に、腐敗した果実のような淀んだ空気が漂っていた。

 王は、絹のガウンを羽織り、目の焦点が合わないままブランデーのグラスを握りしめていた。私が「聖女の帝国派遣」について話し終えると、彼は大袈裟な動作で立ち上がり、部屋の中をうろつき始めた。

 「……聖女を行かせるだと? それは、私の威厳はどうなる。王である私が、女の背中に隠れて命乞いをするように見えないか、エドガー」

 「いいえ、陛下。これは『慈愛ある王が、聖女の熱烈な嘆願に心を動かされ、あえて流血を避ける機会を神に与えた』という形になります。すべては陛下が許可を下したからこそ成立する救済です」

 私は、レオンハルトの自尊心という名の、ひび割れた陶器を丁寧に修復していく。

 「だが……帝国は、セラフィナをそのまま娶ろうとするのではないか。あそこの皇帝は、まだ独身だ。聖女というカードを政治的に奪われるのは、私の損失だ。私の……国が、帝国に取られるような気がする」

 レオンハルトの心配は、常に自分の所有物に向けられている。国家の安寧よりも、自分の「持ち物」が奪われることへの幼稚な恐怖。

 「陛下。聖女は象徴です。象徴は、どこにあろうとも、それを作った者の影を宿します。もし帝国が彼女を望むなら、それは陛下への『永遠の負債』となります」

 彼は納得したように、あるいは考えるのを放棄したように、深く溜息をついた。そして、ねっとりとした、濁った視線を私に向けてきた。

 「分かった。許可を出そう。……だがエドガー、もしかしたら、これが最後かもしれない。彼女が二度と戻らないかもしれないと思うと、どうにも疼くんだ」

 「疼く、とは?」

 レオンハルトはグラスを置き、私の耳元に顔を寄せた。酒の臭いと共に、彼の中に渦巻く卑俗な欲望が漏れ出した。

 「最後に一度……いや、最後だからこそ一度だけでいい。一夜、彼女を抱くことはできないか。あんなに清らかな女を、帝国に渡す前に……一発、私のものにしておきたいんだ」

 私は、彼の顔を見つめ返した。この男は、国家の存亡がかかった局面で、聖女という「神聖な象徴」を、ただの女として消費したいという汚らわしい欲望を吐き出したのだ。

 「……陛下。それは不可能です。聖女の清らかさが損なわれたと知れれば、帝国の皇帝を動かすための唯一のカードが灰になります。あなたの『威厳』も、聖女の『純潔』という土台があってこそ成立しているのですよ」

 「わかっている! わかっているが……」

 レオンハルトは悔しげに唇を噛んだ。

 「承知いたしました。陛下。その欲望は、帝国に打ち勝った後の『勝利の報酬』として、今は胸にしまっておいてください。今は、神々しい『許しの演説』を行うこと。それが今の、あなたの唯一の役割です」

 役割を守る。そのためには、この中身のない男を、最後まで「王」という金色の箱の中に閉じ込めておかねばならない。私は、暗い通路を通りながら、自分の中に残っている「感情」の残量を確かめた。もう、ほとんどゼロに近い。



 聖女出発の日、王宮の広場は、狂気にも似た熱狂に包まれていた。

 朝靄の中に、純白の馬車が停まっている。銀の装飾が朝日に反射し、見る者の目を眩ませる。私は、壇上の袖からその光景を眺めていた。

 レオンハルトは、私が選んだ重厚な真紅のローブを纏い、威風堂々と民衆の前に立っている。彼が口を開き、私が書いた「平和を愛する王の苦渋の決断」についての演説を始めると、広場を埋め尽くした数万の民衆は、一斉に啜り泣き、神を讃える声を上げた。

 完璧だった。レオンハルトの震えは、民衆の目には「慈悲深い王の忍耐」として映り、昨夜の卑俗な欲望を隠したその眼差しは「遠い未来を見据える賢者の眼差し」へと変換された。

 そして、馬車の扉が開いた。

 聖女セラフィナ様が、ゆっくりと姿を現す。

 私は息を呑んだ。

 そこにいたのは、この世の汚れを一切知らない、神に最も近い存在だった。一歩ごとに、大気が清められていくような錯覚。彼女が民衆に向けた慈愛の微笑みは、人間の肉体が作り出せる限界を超えた美しさを湛えていた。ヴェールの隙間から見える肌は陶器のように滑らかで、その指先が空を舞うだけで、人々の魂が癒やされていくのが分かった。

 感動。

 その言葉が、私の冷え切った脳裏をかすめた。

 あれほど清らかな存在が、泥にまみれた交渉の場へ、我が身を顧みずに向かおうとしている。あの方は、自らの影に隠れることもなく、ただ一人の女性として、あまりに大きな重荷を背負おうとしている。その気高さに、民衆だけでなく、私もまた一瞬、現実を忘れそうになった。

 重要なのは、今、この広場において「完璧な聖女」が立ち上がり、帝国の軍門を叩くために旅立つという、その「絵」が完成したことだ。

 民衆は、彼女の馬車が動き出すと、地鳴りのような歓声を上げ、道に花を撒いた。バッシュ伯爵の使者たちも、そのあまりの光輝に圧倒され、無意識のうちに頭を下げていた。

 「エドガー。見たか、私の演説を。皆、泣いていたぞ」

 壇上から降りてきたレオンハルトが、興奮した様子で私の袖を引いた。

 「ええ、陛下。最高でした。帝国の皇帝も、今の光景を見れば、己の非を悟ることでしょう」

 私は、嘘を吐いた。

 この演出の代償として、誰が死に、誰が摩耗していくのか。遠ざかっていく馬車を見送りながら、私は自分の手元に残った、インクで汚れた演説の草稿を丸めて捨てた。

 私は、沸き立つ民衆の背中を、誰よりも冷めた目で見つめ続けていた。あの清らかな聖女様が、どうか無事に、汚れを知らぬまま戻られることを願った。

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