第6話
「視点:ミラ」
石造りの廊下には、冷え切った空気と、隠しきれない焦燥が重く沈殿していた。
王宮の末端で働く者たちの耳は、生存本能に近い鋭敏さを持っている。昨日から、給仕の皿を置く音がわずかに乱れ、洗濯女たちがシーツを叩くリズムから余裕が消えた。噂は、湿った土に染み込む黒い油のように、確実に、そして音もなく城内を汚染していた。
「賢王レオンハルト陛下が、帝国の使者にやり込められたらしい」
「いや、陛下はあえて戦争を選ばれたのだ。帝国の無礼に対し、毅然たる威厳をもって断罪されたのだと。真の決断を下されたのだ」
聞こえてくるのは正反対の内容だが、どちらにせよ結末は一つ、すなわち「破滅への行進」だ。私は、セラフィナが昨夜の酔狂で脱ぎ散らかした、薄い絹の下着を拾い上げながら、背後で気配を消して立っている執事のフェリックスに声をかけた。
「フェリックス。廊下のネズミたちが、ずいぶんと騒がしいわね。あの『賢王』様が、本当に帝国を相手にチェス盤をひっくり返したの? いつもはあんなに慎重で、石橋を叩いて壊すほど完璧な決断を下すお方が」
フェリックスは、いつも以上に白く、乾いた紙のような顔をしていた。彼は、磨き抜かれた靴の先をじっと見つめたまま、絞り出すような低い声で答えた。
「……事実のようです。陛下はバッシュ伯爵に対し、北方三州の割譲を拒絶し、正面から戦い抜くことを宣言された。……一週間後には、北の国境が鉄の海に沈む可能性があります」
「信じられない。あの陛下が、そんな感情的な爆発を許すなんて」
私は拾い上げた下着を、高価な籠の中へ無造作に投げ入れた。驚きで指先がわずかに震えていた。
私たち聖女陣営から見れば、レオンハルトは一種の怪物、あるいは完成された精密機械だった。非の打ち所がない威厳を纏い、常に国を平穏へと導く「正解」だけを差し出す。そんな完璧な王が統治する国だからこそ、セラフィナという欲望に忠実で不完全な聖女も、その影でなんとか「清らかさ」の体裁を保っていられたのだ。
私は部屋の隅、影の濃い場所に潜んでいた「暗部」のカインに視線を向けた。彼は普段、聖女が酒場で起こした不祥事や、男との密会を闇に葬る「掃除屋」だが、今はその手に、いつもとは違う重々しい殺気を帯びていた。
「カイン、本当なの? 陛下がそんな……無謀な選択をされたなんて」
「現場にいた者の話では、陛下は逆上されたという。……帝国のイデオロギー、そのあまりの厚顔無恥さに、陛下ですら理性を保てなかったのかもしれない。我々が信じていた『賢王』の絶対性が、今、内部から崩れ始めている」
カインの声は、冷徹な刃物のようだった。
「賢王が、感情で戦争を始めた……」
私はその言葉を反芻し、胃の奥に冷たい鉛を飲み込んだような不快な重みを感じた。大黒柱が腐り始めていたことに、私たちは今の今まで気づいていなかった。いや、気づきたくなかったのだ。王が完璧であればこそ、私たちは自分の汚れた役割を「必要な悪」として肯定できていたのだから。
鏡の中の私は、まだ聖女の影ですらない、ただの擦り切れた侍女の顔をしていた。
*
「外出禁止? 冗談じゃないわよ。あんたたち、私をこの息苦しい箱の中に閉じ込めて、干からびさせる気?」
セラフィナが、高価な磁器のティーカップを床に叩きつけた。鋭い音と共に、王宮の朝の静寂が破られる。彼女は、乱れた寝巻きのまま、私とフェリックスを交互に睨みつけた。その瞳には、民衆が崇める「聖女」としての慈愛など欠片もなく、ただ、己の欲望を阻害された獣の苛立ちだけが燃えていた。
「セラフィナ様、事態は深刻です。帝国の暗殺者が、いつこの城に潜り込んでもおかしくありません。賢王陛下のあのご決断により、今やこの国は帝国にとって明確な殲滅対象となりました。あなたの身に何かあれば、民衆は最後の精神的支柱を失います」
フェリックスが、壊れた蓄音機のように、礼儀正しくも執拗な説明を繰り返す。
「支柱? そんなの、その辺の棒でも立てておけばいいじゃない! 私は、今夜あの酒場に行く約束があるのよ。あの若くて、指先が少し震えるピアノ弾きの男。彼が私のために新曲を書いてくれるって言ったのよ! 戦争なんて、あの王様が勝手に始めたことでしょ? なぜ私の自由が奪われなきゃいけないの!」
彼女は私の肩を掴んで、激しく揺さぶった。香水の甘い香りと、昨夜の残りの酒の匂いが混ざり合って鼻を突く。
「ミラ、あんた、代わりに行きなさいよ。今夜はあんたが『聖女』としてここに残って、私が『侍女』として街に出る。いつものやつよ。誰も気づかないわ。あんた、私の真似は天才的なんだから」
「……できません。城門は完全に封鎖されました。陛下のご命令により、暗部が全方位を監視しています。今のあなたを外に出すのは、地雷原に白薔薇を投げ込むようなものです。あなたの『代行』は、あくまで平時の遊興を隠すためのもの。戦争という現実は、私の演技でどうにかなるほど甘くはありません」
私は彼女の手を冷たく振り払った。彼女の不満は、もはやコメディの域を超えていた。国家の存亡よりも、一晩の情事とピアノの調べを優先する。その徹底した「個」のあり方は、ある意味で純粋だったが、それを守るために自身の個性を殺している私にとっては、ただの重荷でしかなかった。
「嫌よ! 嫌! 私は神の代理人なのよ? 神が酒を飲みたいって言ってるの! 神が男と遊びたいって言ってるのよ!」
セラフィナはベッドに突っ伏し、子供のように足をバタつかせた。
「……セラフィナ様。神がもし、この国を見捨てたのだとしたら、それはあなたのせいではなく、あの『賢王』様が、初めて正解を選び損ねたからです。今は、耐えてください」
私は、彼女が脱ぎ捨てたローブの乱れを整えながら、窓の外を見た。
高価なカーテンの隙間から見える空は、不気味なほど赤く染まっていた。それは夕焼けではなく、民衆が焚き始めた戦意高揚の篝火の反射かもしれない。
彼女がどれだけ叫ぼうとも、時間は止まらない。役割という名の牢獄は、戦争という巨大な鎖によって、さらに強固に、そして冷酷に閉ざされようとしていた。
数日が経過し、王宮は完全に戦時体制へと移行した。
窓から見える王都の広場では、連日、聖女の祈りと国王の決断を讃えるための、狂信的な国債募集が行われていた。
「陛下が決断された! 正義はこちらにある! 聖女様の加護を、戦士たちの剣に!」
そんな空虚なスローガンと共に、民衆の乏しい貯えが、次々と鉄の塊へと変換されていく。王立の軍事工場は二十四時間稼働を始め、立ち上る黒煙が聖都の清浄な空気を汚染し、太陽を煤けさせていた。
私は、セラフィナに代わって「祈りの窓」に立つ回数が増えた。
彼女自身は、外出禁止のストレスで酒量が増え、今や午前のうちは使い物にならないからだ。
私は聖なるヴェールを深く被り、遠く離れた高いバルコニーの縁に指をかける。下を見れば、豆粒のような人々が、私――正確には聖女の衣装を着た私――を見上げ、救済を感じたように跪き、涙を流している。
彼らは目にしているのは、私という代行者の輪郭であり、その内側で「このヴェールが重くて首が痛い」と考えている、一人の擦り切れた侍女の存在など微塵も疑わない。信仰とは、視覚情報の欠落を、己の願望で埋める行為に過ぎないのだ。
軍事工場から運ばれてくる、真新しい大砲の列が石畳を揺らす音が聞こえる。
「……ミラ。あの鉄の塊一つで、何千人もの命が消える。それを、セラフィナ様が祝福する。皮肉だとは思わないか?」
執務の合間、カインが影の中から低く呟いた。
「祝福なんてしてないわ。ただ、私が彼女の声を真似て、もっともらしい聖句を吐き出している。……私たちは、死を美化するための化粧品なのよ、カイン。でも、気になるのはあのレオンハルト陛下だわ。なぜこれほど急がれるのか。国債を発行し、軍需を煽り、民衆を熱狂させる……まるで、破滅への坂道を全力で転がっているようだわ」
国債の発行額が増えるたびに、王の「威厳」は返済の当てもない数字として積み上げられ、聖女の「清らかさ」は、戦意高揚のための火薬として精製されていく。
誰も、この狂気的な加速を止める術を持たない。あの賢明な王が、自らの意志でこの地獄を選び、旗を振っている。だとしたら、私のような端役に何ができるというのか。
軍事工場の煙突から吐き出される煤が、私の白い侍女服の袖口に降り注ぐ。
役割を果たすということは、汚れていくことと同義だ。
私たちは、国家という巨大な怪物を維持し、美しく着飾らせるための、使い捨ての潤滑油に過ぎなかった。煤を払いながら、私は自分が何色に染まっているのか、もう分からなくなっていた。
「このままでは、確実に負ける。王の決断は、あまりに早急で、そしてあまりに無謀だった」
深夜、セラフィナの私室に、フェリックスとカイン、そして私が集まった。主であるセラフィナは、睡眠薬を混ぜた強めのワインで、泥のように眠っている。彼女の寝息だけが、この部屋で唯一の「平和」な音だった。
カインがテーブルに広げた戦力比較表は、無慈悲な真実を突きつけていた。帝国の物量、魔導技術、そして練兵の質。すべてにおいて、我が国のそれを数倍上回っている。
「あの陛下が、勝算もなく戦いを選ぶはずがない……そう思いたかったが、現実は残酷だ。一ヶ月も持たない。……いや、一週間で北の防衛線は崩壊する」
フェリックスが、細い指で眉間を強く押し込み、苦渋を滲ませた。
「カイン。帝国内部の動向を、もっと深く調べて。あの陛下をあそこまで逆上させ、理性を失わせた、バッシュ伯爵という男のことを」
私の問いに、カインは数枚の暗号文書を広げた。
「……一つ分かったことがある。今回の件、実は帝国の最高評議会ですら、開戦には慎重だった。バッシュ一人が、あえて陛下を挑発し、失言を引き出し、開戦を既成事実化したフシがある」
「バッシュの独断……? ということは、あの賢王陛下ですら、この男の狡猾な罠に嵌められたというの?」
「その可能性が高い。バッシュはこの戦争を功績にして、皇帝の座を狙っている野心家だ。……つまり、この戦争は国家の対立ではなく、バッシュという男の個人的な昇進試験に、私たちの国が巻き込まれただけかもしれない」
私は、眠っているセラフィナのあどけない寝顔を見た。彼女は自分が、一人の男の野心のために戦場に担ぎ出されようとしていることなど、夢にも思っていないだろう。
「あの完璧なレオンハルト陛下が罠に嵌まるなんて……。でも、もしバッシュの独断を崩すことができれば、外交の余地が再び生まれるかもしれないわ。陛下がお一人で背負っておられるこの地獄を、私たちが裏側から少しだけ、削り取ることはできないかしら。王が威厳のために引けないのなら、私たちは聖女の『清らかさ』という武器を使って、バッシュの背後を突くのよ」
「バッシュ伯爵を崩す。……論理が通じない相手なら、欲望をぶつければいい。セラフィナ様がいつもやっているようにね」
私は鏡に映る自分の顔を見た。聖女の影として、人々の願望をトレースし続けてきた演出力。
私たちは、崩壊へと向かうカウントダウンの中で、新しい嘘の設計図を描き始めた。




