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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第5話

「視点:エドガー・クロウ」

 午前九時、バルドス帝国の使者が王宮の重厚な鉄扉を叩いた。

 やってきたのはバッシュ伯爵、帝国の膨張を理論で正当化する冷酷なネゴシエーターだ。男は剥製のような無機質な顔をしており、その双眸だけが、湿った沼の底から獲物を狙うワニのように冷たく光っている。

 彼が謁見の間へと続く回廊を歩く音は、軍靴の硬質な響きというよりは、精密な機械が刻む秒読みの音に似ていた。バッシュの背後には、同じく鉄灰色の軍服に身を包んだ二人の副官が、まるで影の一部のように音もなく従っている。彼らの存在そのものが、帝国の軍事力という巨大な暴力を、外交という薄皮一枚で包み込んだ爆弾だった。

 応接室に立ち込める空気は、彼が入室した瞬間に数度下がったように感じられた。バッシュは椅子に座る前に、部屋の隅々までを検分するように見渡した。その視線は、壁に掛けられた歴代王の肖像画や、贅を尽くした調度品を「文化」としてではなく、占領後の「略奪品」あるいは「廃棄物」のリストとして査定しているかのようだった。

 私はレオンハルトの背後に立ち、王の肩がわずかに震えるのを指先で感じ取っていた。レオンハルトは、この男が放つ「本物の殺気」に圧倒されている。

 「レオンハルト陛下。我が皇帝は、貴国の国境沿いにおける資源採掘の不透明さを深く憂慮しておられます」

 バッシュの声は、静かだが鋭い剃刀のようだった。彼はテーブルに置かれたクリスタルグラスを一瞥もせず、真っ直ぐにレオンハルトの瞳の奥を覗き込んでいる。その瞳には、相手を人間として敬う色など微塵もなく、ただ効率的に解体すべき構造物を見るような冷徹さだけがあった。

 「これはオブラートに包んだ表現ですが、端的に申し上げれば、貴国の行為は既存の不可侵条約に対する明白な侵食であると判断せざるを得ません。我が国は、平和を愛するがゆえに、秩序を乱す毒を放置することはできないのです」

 宣戦布告に近い言葉だった。帝国は、我が国の北部に眠る魔導鉱石の利権を狙っている。資源採掘の不透明さなどというものは、単なる言いがかりに過ぎない。彼らが求めているのは、我が国を屈服させるための「正当な理由」という皮を被った暴力だ。レオンハルトは、喉を鳴らした。何かを言いかけ、しかし適切な語彙が見つからず、金魚のように口をパクパクとさせている。私は王の背中を、誰にも見えない絶妙な角度で突いた。それは「沈黙を保て」という合図だ。

 「陛下は、伯爵の言葉の裏にある『誠実さ』を見極めておいでです。あまりに直截な物言いは、外交という名の舞踏会においては、少々無粋ではありませんか」

 私が代わりに言葉を紡ぐ。だがバッシュは、私の言葉を遮るように、灰色の手袋を嵌めた手を挙げた。

 「猶予は二十四時間だ。明日の同時刻までに、北方三州の割譲にサインを頂きたい。……それ以外の回答は、鉄と火による対話の開始と見なします」

 北方三州。我が国の穀倉地帯と主要な鉱山が集中する、文字通りの心臓部だ。そこを寄こせという要求は、国家としての死を意味する。あまりにも短すぎる宣告に、レオンハルトの顔から血の気が完全に引いた。バッシュは儀礼的な一礼を残し、氷のような冷気を残して部屋を去った。扉が閉まる音は、まるで断頭台の刃が落ちる音のように響いた。



 バッシュが去った後、王宮の地下にある秘密会議室には、この国の「腐敗した知性」が勢揃いしていた。

 円卓を囲むのは、各派閥の代表たちだ。

 右翼には、王室の血筋のみを誇りとする「正統貴族派」の代表、オルロック公爵。彼は金糸の刺繍が過剰なほど施された旧時代の礼服を纏い、不快そうに鼻を鳴らしている。彼らにとって外交とは、誇り高き歴史を並べ立てる演説の場であり、実利的な妥協は「血の汚れ」を意味していた。

 左翼には、新興の商人と結びついた「実務改革派」の指導者、官房長官のヴィンセント。彼は常に計算尺を弄り、国家の主権すらも売買可能な商品として計算している。彼らにとって州の割譲は、貸借対照表上の赤字をどう処理するかという事務作業に過ぎない。

 そして中央には、中立を装いながら常に勝ち馬を探っている「聖教騎士団」の連絡員が、沈黙を守って座っている。

 「たった一日で、三つの州を差し出せと言うのか?」

 レオンハルトが震える声で会議を始めたが、誰も彼に直接答える者はいない。彼らはレオンハルトを王としてではなく、自分たちの主張を公認させるための「印章スタンプ」としてしか見ていないのだ。

 「そもそも、帝国の無礼を許していること自体が問題なのです。我が国の騎士道精神をもってすれば、国境の一歩も踏み込ませぬはずだ!」

 オルロック公爵がテーブルを叩く。精神論だ。彼らは戦場に出ることはない。死ぬのは彼らの領地に住む農民たちだ。

 「公爵、お言葉ですが、精神では大砲を止められませんよ」

 ヴィンセントが冷ややかに笑う。

 「割譲は避けられません。問題は、三つの州のうち、どの鉱山を『不良債権』として帝国に押し付け、こちらの損失を最小限に抑えるかです。エドガー補佐官、あなたは王の耳元で何を囁いているのです? 陛下に『共同経営』などという甘い幻想を抱かせたのはあなただ」

 派閥間の力学は、常に「責任の押し付け合い」という一点においてのみ一致していた。

 正統派は、敗北の責任を「改革派の弱腰」に求めようとし、改革派は、開戦の責任を「正統派の時代遅れな自尊心」に求めようとしている。レオンハルトはその間で、どちらの言い分にも怯え、どちらにも頷きかけては、私の視線に射抜かれて言葉を飲み込む。

 「静粛に」

 私は、冷え切った声で会議を掌握した。

 「帝国は割譲を求めていますが、それはあくまで交渉の入り口です。彼らが真に恐れているのは、我が国が滅びることではなく、この地域のリソースが戦争によって『使用不能』になることです。……公爵、あなたの誇りを守るためにも、ヴィンセント、あなたの計算を成立させるためにも、今は『保守的な共同経営』という一つの嘘に、この国のすべてを懸けるしかありません」

 私は地図を広げ、各派閥の利権が複雑に絡み合う国境線を指し示した。

 「帝国が今、戦争を始めれば、確かに我が国は滅びるでしょう。しかし、帝国側も無傷では済まない。北方三州の占領・維持にかかる人的コスト、国際的な貿易ルートの遮断による損失。これらを詳細に記した『損失予測レポート』をバッシュに突きつけるのです。……ただし、これには陛下による、一点の曇りもない『決断の演技』が必要です。派閥争いの内情を悟られれば、その瞬間にバッシュは我々の喉元を掻き切るでしょう」

 有識者たちは、互いに疑心暗鬼の視線を交わしながらも、一時的に沈黙した。彼らは国家の未来を案じているのではない。自分たちが守り抜いてきた「役割」という名の既得権益が、帝国の戦車に踏み潰されることを恐れているのだ。

 私は、自分が吐き出している言葉が、薄い氷の上に築かれた蜃気楼であることを知っていた。だが、このバラバラな派閥を一つに束ねるには、「共通の破滅」という恐怖の麻薬を打ち続けるしかなかった。

 会議は深夜まで続いた。

 レオンハルトは、差し出された各派閥の要望と、私が作成した交渉数字の羅列を、うわ言のように呟き続けていた。彼の脳はとうに飽和し、ただ「数字」という名の呪文を覚えるだけの機械に成り果てていた。

 彼の瞳には、王としての誇りではなく、ただ逃げ場を失った小動物の怯えが宿っていた。



 翌朝、再びバッシュ伯爵との対峙。

 謁見の間は、王の威厳を演出するための重厚な香に包まれていた。レオンハルトは、三日分もの疲労を濃い化粧で隠し、何とか玉座に座っていた。その隣で、私は彼の呼吸を監視し、崩壊の兆しがないか神経を尖らせる。

 バッシュ伯爵は昨日と同じ、塵一つない軍服姿で現れた。彼の視線は、レオンハルトが手に持った交渉案を一瞥し、それからゆっくりと王の顔へと移った。

 「伯爵。我が国が算出したシミュレーションによれば、貴国が軍を動かした場合、初年度だけで国家予算の十五パーセントを軍費に費やすことになります。これは貴国の経済成長を十年遅らせる。我が国は割譲ではなく、共同経営という形での最大限の譲歩を提案したい。これは、リソースの損失を最小限に抑えるための、最も賢明な選択です」

 レオンハルトは、昨夜から繰り返した練習通りに、震える声で数字を読み上げた。一瞬、空気が和らぐかと思われた。しかし、バッシュ伯爵の口角が、不気味な形に歪んだ。

 「リソース……。陛下、我々の話を、商人の損得勘定だと思っておられるのですか?」

 バッシュはゆっくりと首を振った。その動作は、まるで救いようのない愚か者を哀れむ儀式のようだった。

 「そもそも、我が帝国と貴国では、見ている地平が違う。貴国は『現状維持』と『個人の安寧』を至上の価値とする享楽的な国だ。だが我が帝国は違う。我々は『秩序による統一』こそが、神に許された唯一の道だと信じている。その目的の前には、数万の兵の命も、十年の停滞も、取るに足らない清算可能なコストに過ぎない」

 イデオロギーの断絶だった。こちらが積み上げた「損得」の論理は、彼らの「国家宗教的な確信」の前では、羽虫の羽音ほどの影響力も持たなかった。彼らにとって、リソースの損失は「聖なる献身」であり、死は「秩序への回帰」なのだ。

 「非合理的だと言いたいのですか? 陛下、真の非合理とは、力もない者が分不相応な王冠を被っている、この国の現状そのものを指すのですよ。共同経営? 奪える力がある者が、なぜ貴国のような腐った果実と分け合う必要があるのです?」

 バッシュの言葉が、レオンハルトの「威厳」の核を直接撃ち抜いた。王の呼吸が荒くなり、彼の手が椅子の肘掛けをミシミシと鳴らし始めた。

 私は、レオンハルトが耐えきれなくなるのを察知した。彼の瞳の奥で、恐怖が臨界点を超え、どろりとした攻撃性に変質していくのが分かった。私は先回りして、この場を収めるために口を開こうとした。それが、私の生涯最大のミスとなった。

 「伯爵、陛下の仰るのは、もっと長期的な視点での――」

 「黙れ、端役。私は王と話している。横から口を挟むな」

 バッシュの鋭い一喝に、私は一瞬、気圧された。そのわずかな隙を突くように、レオンハルトが、喉の奥から絞り出すような絶叫を上げた。

 「……そうだ! 私は王だ! 貴様のような無礼な使者に、これ以上屈辱を味わわされる筋合いはない! 共同経営など撤回だ! 帰れ! 州など一歩も譲らん! 戦いたければ戦うがいい、我が軍が貴様らを粉砕してくれる! 帝国の土など、我が国の肥やしにしてくれるわ!」

 それは、最悪のタイミングでの、最悪の「威厳の暴発」だった。レオンハルトは、恐怖の反動で、現実を完全に無視した強がりを叫んでしまったのだ。彼が守りたかったのは国家ではなく、今この瞬間に剥ぎ取られかけている自分のちっぽけな自尊心だった。共同経営という保守的な生存戦略は、王自身の癇癪によって灰になった。

 バッシュ伯爵は、静かに立ち上がった。その顔には、隠しきれない満足感が浮かんでいた。彼はこの言葉を待っていたのだ。外交の決裂という責任を、完全にこちら側に押し付けるための決定的な失言を。

 「……聞き届けました、レオンハルト陛下。それが貴国の、最終回答ですね。リソースの計算よりも、プライドを優先された。結構なことです。これぞ王のあるべき姿だ」

 バッシュは、手に持っていた手袋を、わざとらしく床に叩きつけた。

 「誇り高き拒絶、感服いたしました。……これでようやく、我々の手続き(しごと)が進められる。陛下、戦場でお会いしましょう。その威厳が、鉄の嵐の中でどれほど保たれるか、楽しみにしています」

 バッシュは、一度も振り返らずに謁見の間を去った。

 王宮の外では、何も知らない民衆が、今日も聖女の清らかさを祈り、平和を享受している。だが、私の目の前には、自分の言葉の重さに気づき、顔面蒼白でガタガタと震え始めた無能な男が座っているだけだった。彼は自分が何を言ったのか、その帰結がどうなるのかを理解し、恐怖で失禁しかけていた。

 私の演出ミスではない。私の調律ミスでもない。ただ、この男の器に、私は「王」という毒を盛りすぎてしまったのだ。

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