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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第4話

「視点:ミラ」

 深夜二時、私は全身鏡の前に立っている。

 纏っているのは、セラフィナが脱ぎ捨てたばかりの、銀糸の刺繍が施された最高級のシルクローブだ。肌に触れる冷たい感触が、私の卑俗な体温を吸い取っていく。私は顎を数ミリ上げ、視線をわずかに斜め下へと落とす。慈愛、あるいは諦念。神の声を聴く直前の、あの独特の静謐な表情。

 「……神は、あなた方の涙を無駄にはなさいません」

 独り言を漏らしてみる。声のトーン、ビブラートの幅、語尾の消し方。すべてをセラフィナの周波数に合わせる。

 なぜこんな無意味な反復練習を続けているのかといえば、この「清らかさ」の象徴が、いつ、どのタイミングで職場を放棄するか予測がつかないからだ。

 半年前の「降臨祭」の悪夢を思い出す。広場には数万人の信徒が詰めかけ、熱狂的な祈りが渦巻いていた。その開始十五分前、セラフィナは「生理痛がひどい」という、もっともらしいが検証不可能な理由を残して、私の侍女服に着替え、裏口から男の待つ馬車へと消えた。

 私は、私ではないものになるしかなかった。

 あの時、天蓋の隙間から見た民衆の目は、救済を求めているというよりは、自分たちが信じる幻想を補強するための「生きた証拠」を、飢えた獣のように求めていた。

 私は震える手で聖杖を握り、彼女の歩き方をなぞり、彼女の声で祝福を与えた。

 結果として、儀式は成功した。誰も偽物だとは気づかなかった。いや、気づきたくなかったのだろう。あの日以来、私は二十四時間、いつ聖女に変換されてもいいように、自身の個性を削り取り、彼女というデータのバックアップとして存在し続けている。

 鏡の中の私は、どこからどう見ても聖女セラフィナだ。だが、内側にあるのは、二日酔いの女の吐瀉物を片付け、高級ステーキの脂身を自分の胃袋に押し込む、摩耗した侍女の意識でしかない。

 「ミラ、まだ起きてるの? あんた、自分の顔が好きなのね」

 背後から、だらしない格好をした本物が声をかけてきた。セラフィナは寝台の上で、はしたなく足を広げて座り、リンゴを丸かじりしている。

 「あなたの練習をしているんです。あなたがいつ逃げるか分からないから」

 「いいじゃない。あんたが完璧になれば、私はもっと自由に遊べる。ウィン・ウィンでしょう?」

 彼女はリンゴの芯を床に放り投げた。私は無言でそれを拾い上げ、ゴミ箱へ捨てる。

 彼女の不規則な心拍数と、私の神経質な焦燥感。

 私たちは、鏡を挟んで共依存という名の泥沼に浸かっている。

 私は再び鏡を見る。セラフィナの表情をトレースする。

 清らかさ。

 その言葉の裏側にある、膨大な「準備」と「偽装」。

 私は、自分が消えていく感覚に、微かな安堵を覚え始めていた。

 セラフィナはある種の天才だ。

 彼女がひとたび聖女のローブを纏い、人々の前に姿を現すと、その場に漂う空気の分子構造が変わったかのような錯覚に陥る。

 午後の謁見の間。そこには、原因不明の麻痺に苦しむ老貴族が、家族に抱えられて運び込まれていた。医者も見放したというその老人は、セラフィナの足元に縋り付き、枯れ果てた声で救いを求めた。

 私は彼女のすぐ後ろで、彼女の呼吸を観察する。

 彼女は、相手が何を欲しているのかを瞬時に見抜く。この老人が求めているのは、高度な医術ではない。自分が「特別な存在に許された」という強烈な思い込みだ。

 セラフィナは、ゆっくりと膝をついた。膝を折る際の衣擦れの音さえも、計算された音楽のように響く。彼女は老人の汚れた手に、自分の白磁のような手を重ねた。

 「あなたは、もう十分に苦しまれました。神は、あなたの誠実さをすべてご存じです」

 彼女の声には、何の感情もこもっていない。ただ、相手の鼓膜を最も心地よく震わせる波形だけがある。

 彼女は老人の目を見つめ続け、一分間の沈黙を作った。その沈黙の中で、老人は自分の中の罪や痛みが、聖女の「光」に吸い取られていくと信じ込んだ。

 「立ちなさい。あなたの魂は、今、自由になりました」

 セラフィナが命じると、奇跡が起きた。

 震えていた老人の足に力が戻り、彼は自分の力で立ち上がったのだ。周囲からは歓喜の叫びが上がり、人々は奇跡を目の当たりにした喜びに涙した。

 これは奇跡ではない。徹底的な心理コントロールと、演出の勝利だ。

 彼女は自分がどう見られるか、どう見せたいか、そのすべてを完全に支配している。相手が奇跡を見たいと願っているなら、彼女はその願望を鏡のように反射させ、相手自身に奇跡を「起こさせる」。

 「……ああ、腰が痛いわ。あの爺さん、手が脂ぎってて最悪だった」

 控室に戻った瞬間、セラフィナは聖杖を放り出し、ソファに寝転がった。

 さっきまでの、神々しいまでの意志の力は霧散し、そこにはただの、性格の悪い女が転がっている。

 「素晴らしい演出でしたよ、セラフィナ様。あの老人は、今夜からあなたの熱狂的な信者になるでしょう」

 「いいのよ、あんなので喜ぶなら安いものよ。それより、今夜の酒場、予約しておいてくれた?」

 私は彼女の汚れた手を、香油を浸した布で丁寧に拭き取る。

 彼女の指先は冷え切っている。あれだけの「演出」を行うために、彼女もまた、自身の生命力を削り出していることを私は知っている。

 清らかさは、天から降ってくるものではない。

 それは、相手の欲望を読み取り、適切な嘘を処方し続けるという、高度に知的な労働の産物なのだ。

 セラフィナの一挙手一投足には、凄まじいまでの意志力が込められている。

 指先の角度、歩幅、瞬きのタイミング。そのすべてが、一つの「聖女」という作品を完成させるための筆致だ。私はそのストイックなまでの演技力に、一種の畏怖を感じずにはいられない。

 だが、彼女が「私」になるとき、そのスイッチはあまりにも鮮やかに、そして無残に切り替わる。

 「ねえミラ、見てなさいよ」

 夜の帳が下りる頃、彼女は私の侍女服を纏い、地味な茶色のウィッグを被る。

 その瞬間、彼女から溢れ出ていた、あの人を跪かせるような「オーラ」が、音を立てて消失した。そこに立っているのは、どこにでもいる、少し目つきの悪い、素行の悪そうな若い侍女だ。

 「どう? 完璧にミラでしょう」

 彼女の声は低くなり、言葉遣いからは優雅さが消えた。

 「……どうやって、その輝きを消しているんですか?」

 思わず尋ねると、彼女は鏡の中で、意地の悪い笑みを浮かべた。

 「特別なことはしてないわよ。あなたのマネをしているだけ。背中を少し丸めて、世界を憎んでいるような目で歩く。そうすれば、誰も私が聖女だなんて思いもしない。聖女っていうのはね、記号なのよ。記号を外せば、そこには空っぽの女がいるだけ」

 私は絶句する。彼女は、私を「世界を憎んでいるような目」をしていると定義した。

 否定はできなかった。

 彼女は私の影をトレースし、私は彼女の光をトレースする。

 セラフィナが私の姿で部屋を出ていくとき、彼女の足取りは驚くほど軽く、自由そのものに見えた。聖女という重い殻を私に押し付け、彼女は「侍女ミラ」という汚れ役の衣装を着て、夜の街へと溶け込んでいく。

 私は、彼女が残した聖女のローブに袖を通す。

 そこには、彼女の体温と、演出という労働のあとの汗の匂いが染み付いている。

 聖なるオーラが消えたあとの、抜け殻のような部屋。

 私はベッドに座り、彼女が「特別なことはしていない」と言った言葉を反芻する。

 彼女にとっては、私になることも、聖女になることも、同じ強度の「偽装」に過ぎないのだ。

 その徹底したニヒリズムに、私は背筋が寒くなるのを感じる。

 役割を演じることで、人間としての核が消滅していく。彼女は既に、その向こう側に到達しているのかもしれない。

 私の「聖女」としての精度は、日に日に上がっている。

 フェリックスさえも、たまに見分けがつかないような顔をすることがある。それでも、私はセラフィナの完全な代わりにはなれない。

 彼女が持つ、あの「人を狂わせるほどの嘘」の力。それは、どんなに練習しても、私のような凡庸な人間には到達できない領域だ。

 彼女を観察し続ける日々。

 彼女が安酒場で若い男と絡んでいる間、私は聖女の寝台で、彼女が犯した罪の重さを肩代わりするように、眠れない夜を過ごす。

 胃のあたりが、常に熱を帯びたように痛む。潰瘍、あるいはストレス。そんな言葉で片付けられないほどの、精神の摩耗。

 それでも、私は彼女に惹きつけられている。

 この救いようのない、傲慢で、下品で、それでいて誰よりも完璧に「救い」を演じることができる女。

 明け方、セラフィナが酒の匂いを漂わせて戻ってきた。

 「ただいま、ミラ。今日もいい男がいたわよ」

 彼女は私の侍女服を脱ぎ散らかし、真っ裸で部屋を横切る。その肉体は、聖女という肩書きがなければ、ただの堕落した女の標本だ。

 「お帰りなさい、セラフィナ様。さあ、着替えてください。一時間後には、孤児院の慰問です。慈愛に満ちた笑顔を用意しておいてください」

 「ああ、面倒くさい。ねえ、あんたが行ってよ。私のフリをして、適当に頭を撫でてくればいいじゃない」

 彼女は欠伸をしながら、私の頬を指先でなぞった。

 その指先には、まだ酒場の安っぽい煙草の臭いが残っている。

 私は彼女の手を振り払い、無言でローブを差し出す。

 「……私には、あなたのフリはできても、あなたにはなれません」

 「それでいいのよ。あんたが私になっちゃったら、私はどこにも行けなくなるもの」

 セラフィナは楽しそうに笑い、聖女の皮を再び被り始めた。

 今日も、役割は成立してしまった。

 また明日、王宮の鐘が鳴り、新しい一日が始まる。



午前六時。王宮の静寂は、死を待つ病室のように冷たく、無機質だ。

 私は、セラフィナが残した「聖女」の残滓を片付ける。彼女が昨夜、脱ぎ捨てた「私の」ローブには、うっすらと青臭い臭いがついていた。酒場で戯れた誰かのものか。私はそれを指先でなぞり、ため息をつくこともなく、魔法の触媒を用いた洗浄液に浸す。汚れは一瞬で消える。この国の人々が信じている「聖女の潔癖」と同じように、化学的かつ人為的な処理によって。

 「ミラ、そこにいるのは分かっているわ。水を。氷をたっぷり入れた、私の魂と同じくらい冷たい水を頂戴」

 天蓋付きのベッドから、しわがれた声が響く。セラフィナが目を覚ました。昨夜、私の姿をして街を徘徊し、男たちの腕の中で「ミラ」という悪評をばら撒いてきた本物の聖女だ。

 私は指示通り、銀の杯に氷水を満たして運ぶ。彼女はそれを奪い取るように飲み干し、氷をガリガリと噛み砕いた。

 「……生き返るわ。あの酒場の男、顔は良かったけど話が退屈で死にそうだった。ずっと『聖女様は本当に存在するのか』なんて議論を吹っかけてくるんだもの。私の目の前で、私の侍女に向かってね。滑稽だと思わない?」

 「あなたが滑稽な状況を楽しんでいる間に、フェリックスは胃薬を三錠飲みました。そして私は、あなたの『清らかさ』という虚飾を維持するために、昨日から一睡もしていません」

 「あら、お疲れ様。でも、それがあんたの仕事でしょう?」

 彼女はベッドから這い出し、私の頬を冷たい指でつついた。その指先からは、まだ夜の湿り気と、微かな煙草の残り香がした。

 私は彼女を全身鏡の前へと引きずっていく。

 「さあ、仕事の時間です。今日は王都の中央広場で、戦没者慰霊祭があります。五万人の民衆が、あなたの涙を、神の慈悲を、そしてその一点の曇りもない肌を拝みに来る。私が一晩かけて手入れしたその顔を、彼らに見せてあげてください」

 セラフィナは鏡の中の自分をじっと見つめた。その瞳の奥にある虚無が、一瞬だけ鋭い知性に取って代わる。

 彼女は深く息を吸い込んだ。肺の奥まで清浄な空気を満たし、背筋を伸ばす。

 その瞬間、彼女の輪郭が輝きを帯びた。

 さっきまでの、だらしない酔っ払いの女は消えた。そこには、天からの啓示を一身に受ける、完璧なる「聖女」が立っていた。

 「……完璧よ、ミラ。あんたの磨き方は、世界一だわ」

 その言葉に、私は何も答えない。

 私は彼女の影だ。光が強ければ強いほど、影はより深く、より暗くなる。

 広場から、地鳴りのような民衆の歓声が聞こえてくる。彼らはこれから、偽物の光に照らされて、束の間の幸福を享受するだろう。

 私は彼女の背後に立ち、真っ白なヴェールを被せる。

 「行ってらっしゃいませ、聖女様。どうか、彼らに素晴らしい夢を見せてあげて」

 「ええ。夢を見せるのは得意よ。それが、私という記号の唯一の価値なんだから」

 彼女が部屋を出ていく。その歩幅、その手の振り方、その視線の落とし方。

 すべてが芸術であり、すべてが偽りだ。

 私は一人、もぬけの殻となった寝室に残る。

 胃の奥が、焼けるように熱い。

 私はセラフィナが脱ぎ捨てた、酒の臭いのする私の侍女服を抱きしめた。

 誰も救われない。誰も本音を語らない。

 それでも、今日も役割は成立してしまった。

 その事実だけが、この冷え切った部屋に、確かな重みを持って横たわっていた

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