第3話
「視点:エドガー・クロウ」
午前十時、円卓議場には、重厚な静寂と高価な絨毯が放つ微かな獣臭が充満していた。
中心に座るレオンハルトは、五十年という歳月をかけて彫り上げられた「賢王」の彫像のように動かない。背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、視線は議場の空中の、何もない一点を鋭く射抜いている。傍目には、国家の命運を左右する予算案の細部を、脳内の複雑な計算機にかけているように見えるはずだ。
だが、私の位置からは、彼の耳たぶの裏に一筋の脂汗が伝うのが見える。
彼は何も考えていない。
正確には、財務官が読み上げる「インフラ整備への歳出比率」や「流動資産の担保余力」といった単語の羅列が、彼の脳を素通りして、ただの不快な雑音として処理されている。彼は数分前から、昼食のスープにクルトンを入れるか入れないか、あるいは昨夜抱いた高級娼婦の腰のくびれの感触、その程度の選択肢に全リソースを割いているはずだ。
「――以上の通り、今期の国防予算は前年比で三・四パーセントの微増となります。陛下、ご決裁を」
財務官が書類を閉じ、深々と頭を下げる。
議場の視線がレオンハルトに集中する。空気の密度が物理的に増したような圧迫感がある。
レオンハルトは沈黙を保っている。これは私が彼に叩き込んだ技術だ。分からないときは沈黙しろ、そうすれば周囲が勝手に「深謀遠慮」と解釈してくれる。王の沈黙は、雄弁な肯定よりも、鋭い否定よりも、相手の不安を煽る最強の武器になる。
私は彼の背後に立ち、手に持った指示書を、彼にだけ見える角度でわずかに揺らした。それは「まだ動くな」という合図だ。
彼は石のように固まっている。彼が自身の無能さを微塵も自覚していないことが、この場では最大の利益を生む。彼は自分が賢いと信じているからこそ、この不自然な沈黙を、威厳ある熟考として堂々と振る舞えるのだ。
「……陛下?」
財務官が不安げに顔を上げる。その不安こそが、演出の収穫物だ。
私は一歩前へ出た。
「陛下は、数字の背後にある『国民の血の巡り』を感じ取っておられます。この程度の予算案に即答を求めるのは、陛下の先見性を軽んじることと同義ではありませんか。陛下は今、この数字が十年後の平民の食卓にどう影響するか、その一点を見つめておいでです」
財務官は恐縮し、再び頭を下げた。私はレオンハルトの右肩に軽く触れる。
「陛下、そろそろよろしいかと。あなたの直感は、既に答えを出されているはずです」
レオンハルトはゆっくりと瞬きをし、深く、重々しく頷いた。
「……よかろう。通せ」
その一言で、数兆規模の予算が確定した。
彼は満足げに胸を張る。自分が国家の巨大な歯車を回したという万能感が、彼の頬を微かに紅潮させていた。私はその影で、胃に走る鋭い痛みを感じながら、次の脚本を脳内で捲る。役割は守られた。内容は空洞でも、形さえ整っていれば、国は明日も回るのだ。
休憩を挟まない会議は、出席者たちの肉体から忍耐を奪い、代わりに生々しい攻撃性を引き出す。
「陛下。私には、この予算配分が王家の延命のみを優先しているように思えてなりません」
急進派の若手議員、カッセルが立ち上がった。彼は「若さ」という免罪符を盾に、しばしば議場の静寂を切り裂く。
「教育への投資を削り、形式的な城壁の修繕に予算を割く。これは未来の放棄です。陛下、この決定に至った論理的な背景を、今この場で、陛下ご自身の口からお聞かせ願いたい」
レオンハルトの表情が凍りついた。
彼の脳内にあるのは、先ほどのクルトンの有無だけで、国家の未来などという概念は一片も存在しない。彼の眉間から冷や汗が吹き出し、軍服のカラーが喉を締め上げる。彼は何かを言おうとして口を開くが、そこから出るのは意味をなさない空気の塊だけだろう。
私は瞬時に、彼の耳元に囁いた。
「陛下、論理で戦ってはなりません。戦場を変えるのです。彼を『小さな枠組み』に閉じ込める、必殺の『そもそも論』を。怒る必要はありません。ただ、哀れむように笑ってください」
レオンハルトは私の指示に縋るように、視線をカッセルに向けた。彼は深く息を吸い込み、私の教えたフレーズを、最も尊大な声で放った。
「……カッセルよ。お前は論理を語るが、そもそも、『国家の形』とは何だと考えているのだ?」
議場が静まり返る。カッセルが反論しようとするのを、レオンハルトは手を挙げて制した。
「教育か? 経済か? 違う。国家とは『持続する記憶』だ。城壁を直すことは、石を積むことではない。我々が何者であるかを、千年前と千年後に繋ぐ行為だ。お前が語る『未来』という言葉には、その重みがあるのか? 目の前の数字をいじるだけの子供の理屈を、私の前で広げるな」
これは、私が昨夜の三時に書いた台本だ。意味はまったくない。城壁の修繕はただの公共工事であり、癒着の温床に過ぎない。
だが、抽象的な言葉の響きは、具体的な不満を霧散させる力を持っている。カッセルは呆気に取られ、口を半開きにした。論理で挑んだ者は、論理を超越した「王の直感」という名の無意味な壁に衝突すると、必ずこうなる。
「陛下。……失礼いたしました。私の視座が低すぎたようです」
カッセルは力なく着席した。レオンハルトは鼻を鳴らし、勝利者の笑みを浮かべる。
「若いうちは、目に見える数字ばかりを追うものだ。気にするな。お前の情熱は嫌いではない」
彼は完全にイニシアチブを握った。私は、彼の背後で冷徹に事態を観察する。誰も本質を見ていない。王も、議員も。彼らが求めているのは正解ではなく、抗いようのない「王の言葉」という暴力なのだ。私はその暴力を調律し続ける。
*
会議のトーンが一変した。次に提出された議題は、北方の隣国、バルドス帝国との国境問題だ。
「国境沿いに、帝国の新たな駐屯地が確認されました。その数、五個師団分。明らかに軍備を拡張しています」
情報官が、粒子の粗い魔導写真を円卓の中央に投影する。白黒の画像の中で、蟻のように蠢く兵員と、不気味な形をした攻城兵器が並んでいた。
レオンハルトの顔から、先ほどの勝利の色が消え、代わって隠しきれない怯えが這い出してきた。戦争。それは「威厳」という名の虚像が、最も通用しなくなる極限状態だ。彼は、血を流すことを極端に恐れている。いや、自分が責任を取ることを恐れているのだ。
「陛下、これは挑発です。我が国も即刻、軍を動かすべきかと。北の国境は我が国の心臓部です。ここを抜かれれば、王都まで遮るものはありません」
タカ派の将軍がテーブルを叩く。レオンハルトは震える指先を隠すため、机の下で膝を抱えるように握りしめた。
私は彼の耳に届かない程度の小声で、将軍への牽制を打つ。
「将軍、勇ましさと無謀を履き違えるな。陛下は、帝国の『裏にある意図』を慎重に見極めておられる」
レオンハルトは、私の言葉を自分の考えであるかのように補強した。
「……そうだ。軍を動かすのは簡単だが、それは帝国の罠かもしれん。……な、エドガー?」
彼は最後に、私に救いを求めるような視線を送った。それは王としてあってはならない、純粋な依存心の露出だ。
私は即座にそれを隠すように、彼の前に立ち塞がった。
「陛下は、帝国が軍備拡張を『見せつけている』理由について、既に一つの仮説をお持ちです。帝国は現在、国内で大規模な不作に見舞われている。この軍事行動は、国民の飢えから目を逸らさせるための高度な政治的ジェスチャーに過ぎません」
私はあらかじめ用意していた偽の分析報告書を広げる。帝国が内部に経済問題を抱えているという情報は半分が真実で、半分が私の捏造だ。だが、議場は「王の深い洞察」に納得した。
レオンハルトは、安堵のあまり呼吸が深くなる。
「ふむ。私の読みを、エドガーが上手く整理してくれた。……そういうことだ。静観しろ。無駄な血を流すのは、私の本意ではない」
彼は再び、賢明な判断を下した王の顔を取り戻した。すべては演出という名の薄い膜に覆い隠される。
*
会議が終了し、レオンハルトが満足げに寝室へと戻った後、私は一人、静まり返った議場に残った。
テーブルの上には、食べかけのミント菓子と、無数の空虚な言葉が染み付いた書類が散乱している。情報官が、私の方へ歩み寄ってきた。彼の顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
「補佐官。先ほどは陛下の顔を立てましたが、状況は笑い事ではありませんよ。……次週、帝国の特使がやってきます。それも、最強硬派として知られるバッシュ伯爵です」
私は、手に持っていたペンを置いた。バッシュ伯爵。言葉の裏を読み、相手の虚飾を剥ぎ取ることを至上の喜びとする、冷酷な交渉人だ。レオンハルトの「そもそも論」や、私の「抽象的な演出」が通用する相手ではない。
「分かっている。陛下には、既にそのための準備を……『陛下ご自身の意志として』始めていただいている」
私は嘘を吐いた。レオンハルトは今頃、昨日の高級娼婦の感触を反芻しながら、鼻歌を歌って風呂に入っているはずだ。
次週。演出と代行だけで国家を守る、この茶番劇の限界が訪れるかもしれない。私はかつて目撃した、前代の王が引きずり回されたあの地獄の光景を思い出す。あの日、秩序は消え、ただの肉塊となった王が広場で嘲笑されていた。あの日を繰り返してはならない。
私は執務室へ戻り、深夜の静寂の中で、次週の「王の台本」を書き始める。
王が何を話し、どのタイミングで水を飲み、どの角度で相手を睨みつけるべきか。それはもはや外交交渉ではなく、一人の無能な道化を神に見せかけるための、精緻な振り付けだった。
レオンハルト・ヴァルディス。この男が、玉座に座り続けていなければ、この国の歯車は一瞬で噛み合わなくなる。
誰も救われない。誰も本音を語らない。私はペンを走らせる。
明日も、役割は成立させなければならない。
その事実だけが、私の乾いた心臓を無理やり動かしていた。




