第2話
「視点:ミラ」
寝室に充満しているのは、祈りの残り香などではない。安物のジンと、未消化の欲望が混じり合った、酸っぱくて重い残骸の臭いだ。私は遮光カーテンを力任せに引き開ける。冬の鋭い太陽光が、ベッドの上で丸まっている「聖女」の無防備な背中を暴き出す。シーツから突き出た白磁のような腕には、昨夜どこかの安酒場でつけたらしい赤黒い痣が滲んでいた。
「起きてください、セラフィナ様。朝のミサが始まります」
返事はない。代わりに、喉の奥を鳴らすような不快な呻きが聞こえる。私は溜息を吐き、右手の指先を向けた。脳内で低温の術式を編み上げ、熱を奪う。結露した空気が一瞬で凍り、生成された巨大な氷塊がセラフィナの項に直接触れた。
「……っ、冷たっ! 殺すわよ、ミラ!」
彼女は跳ね起き、真っ赤な目で私を睨みつけた。
「どうぞ。ですが、その前にその汚物まみれの身体を洗ってください。一時間後には、執事との予定確認があります。扉の向こうでは、清掃担当のメイドたちが控えている。彼女たちにこの光景を見せるわけにはいかない。聖女の寝室は、常に神聖な静寂に包まれていなければならないという強迫観念が、この城を支配している」
私は扉を数ミリだけ開け、廊下に立つメイドたちに、感情を削ぎ落とした声で告げた。
「聖女様は深い瞑想に入っておられます。決して中を覗かないように。精神が肉体を凌駕する瞬間を邪魔してはなりません」
彼女たちは畏れ多いと言わんばかりに頭を下げ、足早に去っていく。「朝が弱い」のではない。単に、自制心が欠如しているだけだ。メイドたちが去った後、入室してきたのは三十代の執事、フェリックスだった。彼は室内を漂う異臭を嗅いだ瞬間、顔を激しく歪め、額を押さえた。
「……またですか。ミラ、今朝の換気はどうなっています。この臭いは精霊の対話では説明がつかない。どう見ても下界の、それも質の悪い酒の臭いだ」
「彼は世俗に詳しい精霊だったことにすればいい。フェリックス、予定を」
フェリックスは手元の記録帳を開くが、その指先は微かに震えている。彼もまた、この「清らかさ」の維持に胃を焼かれている同族だ。かつては教会の将来を担うエリートだった男が、今では二日酔いの女の嘘を塗り固める専門職に成り下がっている。
「午後は下町の教会の見廻りです。……ああ、主よ。なぜ私が、朝から吐き気を催す女を神の代弁者に仕立て上げねばならないのか。私の信仰が摩耗していく音が聞こえる」
「神に訊いても無駄よ。神は今、シャワー室で昨夜の男の匂いを洗い流しているところだから。役割を果たしなさい、フェリックス。あなたは執事という虚構を演じるためにここにいる」
私は浴室から聞こえる軽薄な鼻歌を無視し、フェリックスと共に、今日つくべき嘘の優先順位を整理し始めた。
*
下町の教会は、貧困と信仰がどろりと混ざり合った独特の熱気に包まれていた。セラフィナは白のローブをなびかせ、物乞いの子らの頭を撫でて歩く。その一挙手一投足に、民衆は涙を流してひれ伏す。彼女の指が子供の泥まみれの頬に触れるたび、そこには神聖な奇跡が宿っているかのように演出される。しかし、祭壇の裏、信徒たちの視線が遮られた瞬間、聖女の「本能」が頭をもたげた。
寄付金が収められた木箱。その中から、セラフィナは慣れた手つきで金貨を数枚抜き取り、ローブの隠しポケットへ滑り込ませた。
「……何をしているんですか」
私が耳元で低く囁くと、彼女は悪びれもせず、むしろ苛立ったように私を突き放した。
「これくらい、神への仲介料として当然でしょう? 私が今日、あんな汚い子供たちの頭を何回触ったと思っているの。あの子たちのシラミや病気が、私の美しい肌に移ったらどう責任を取るわけ? 経費よ、これは」
「その金は、彼らの炊き出しに使われるものです。戻してください。今夜の酒代にするには、あまりにも血の匂いが強い」
「嫌よ。今夜の『遊び』に必要だもの。あんた、私を退屈で殺す気? あの薄暗い聖堂で一日中祈るなんて、死刑宣告と同じよ」
背後でフェリックスが、見たくないものを見たというふうに天を仰いでいた。彼の「聖女様、民衆が外で救済を待っております」という震え声が、虚しく石壁に反響した。彼の顔はもはや、聖職者のそれではなく、倒産寸前の商店主のような悲壮感に満ちていた。
私は彼女の手首を強く掴み、無理やり金貨を奪い取って箱に戻した。セラフィナの顔が、一瞬で「人殺し」のそれに変わる。
「ミラ、あんた、自分が誰に口を利いているか分かっているの?」
「ええ。世界で最も高価な、ハリボテの偶像にです。そして私は、そのハリボテが倒れないように支える楔だ。偶像が自ら台座を降りて泥棒を働くなら、私がその手を折ってでも止める。それが私の役割です」
教会の外では、まだ民衆が聖女の名前を叫んでいる。彼らが求めているのは救済ではなく、救済されているという実感だけだ。セラフィナが金を盗もうが、私を殴ろうが、彼らには関係がない。
私は彼女のローブの乱れを整え、再び民衆の前へと押し出す。彼女は一瞬で表情を切り替え、眩いばかりの微笑みを振り撒いた。フェリックスはその豹変ぶりに吐き気を催したのか、口元を抑えて列の最後尾へ下がっていった。彼が今日何度目の絶望を噛み締めているのか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。
*
夕食の時間、聖女の私室には重苦しい沈黙が流れていた。表向き、聖女の食事は「精進料理」と決まっている。肉を断ち、酒を断ち、神の言葉だけで満たされるという建前。しかし、目の前のテーブルには、脂の滴る厚切り肉のステーキが並んでいた。
「……皆様、聖女様は今日も神との対話に夢中で、食欲を忘れておいでです。このままではせっかくの供え物が無駄になると、聖女様が慈悲をかけてくださいました。腹をすかせたこの卑しい私に、聖女様がこの肉を『恵んで』くださるそうです」
私は廊下にまで聞こえる声で、不遜な侍女を演じる。給仕たちが「なんて強欲な侍女だ」「聖女様の清らかさを汚す寄生虫め」と軽蔑の視線を送って扉を閉めた瞬間、セラフィナは獣のような素早さでステーキ皿を自分の手元へ引き寄せた。
「……ああ、これよ、これ。精進料理なんて食べてたら脳みそまで草になるわ。ミラ、あんたのパンと交換よ」
彼女はナイフもろくに使わず、肉の塊を口に運び、咀嚼する。脂が白磁のような顎を伝い、聖なるローブを汚していく。私はその横で、本来の聖女の食事であるパサパサのパンと、味のない冷めたスープを自分の皿へ移した。
「セラフィナ様、少しは上品に食べてください。フェリックスがまたどこかで泣いていますよ。彼はあなたの食事が野菜だけだと信じるために、自分の視覚を疑おうとしているんですから」
「いいのよ、あいつはどうせ私のことを悪魔だと思ってるんだから。期待を裏切らないのが礼儀でしょ」
私は彼女が食べ散らかした骨や脂を、さも自分が食べたかのように自分の皿に積み上げる。給仕が片付けに入ってきたときに見えるのは、「聖女の慈悲で肉を貪り食った醜悪な侍女」と「一切れも口にせず、清らかな祈りを捧げる聖女」の完璧な対比だ。
「ミラ、あんた、本当にいい役柄よね。どれだけ食べても、全部『私の慈悲』になるんだから。不謹慎な侍女がいてこそ、私の聖性が際立つ。感謝してよね」
肉を咀嚼しながら、彼女は愉快そうに笑う。私は冷めたスープを飲み込みながら、窓に映る自分の影を見た。私の評価は、こうして彼女の喉を通る脂と共に、確実に地面へと埋まっていく。美味しいとは微塵も思わない。これはただの、摩耗の儀式だ。食欲を満たしているのは彼女だが、その罪悪感と不名誉を摂取しているのは私だ。今日も役割は成立してしまった。
*
夜、セラフィナの寝室。彼女は確実に太り始めている。自制心のない肉体は、嘘を突き通すにはあまりに不都合だ。
「セラフィナ様、いい加減にしてください。ローブの腰回りが、もう限界です。運動を。さもなければ、来月の式典であなたが物理的に弾け飛ぶことになります」
「うるさいわね。少し動けばいいんでしょ。あんたが私の代わりに走ってくれればいいのに」
彼女は面倒そうに立ち上がり、壁に向かって数回屈伸をした。それだけで息を切らし、ベッドに倒れ込む。
「もう無理。疲れた。ねえミラ、入れ替わって。今夜はどうしても行きたいところがあるの。酒場のあの若い男、今夜も待ってるって言ってたから」
返事を待たず、彼女は自分の聖衣を脱ぎ捨て、私の侍女服を奪い取った。私たちは、鏡を見るまでもなく、不気味なほど似ている。彼女が私の姿をして街へ繰り出せば、誰もそれが「聖女」だとは思わない。ただの「素行不良の侍女ミラ」が、安酒場の片隅で若い男を侍らせ、下卑た笑いを浮かべていると噂されるだけだ。
窓から飛び降りる彼女の背後には、気配を殺した腕利きの「暗部」が数名、影のように張り付いている。彼らは教会の不祥事を物理的に抹消するための掃除屋だが、今は聖女の男遊びという最も不名誉な仕事の護衛を強いられている。先日、その一人が「戦場で暗殺者を狩る方がどれだけ高潔か」と、私にこぼしていた。彼らもまた、頭を抱えながら泥沼を泳いでいる同族だ。
「三時までには戻ってください。明日の朝は、王室補佐官のエドガーが演出の打ち合わせに来ます。あの男を待たせるのは、最悪の選択です」
「分かってるわよ。あの石像みたいな男、退屈なんだから。じゃあね」
セラフィナは私の姿で、夜の闇へと滑り出していった。私は彼女が脱ぎ捨てた下着を拾い上げ、洗濯籠に放り込む。微かに混じる安物の香水と、他人の煙草の臭い。
私は聖女の寝台に横たわり、天井を見つめる。外では「ミラ」が男たちの腕の中で笑い、醜聞を振り撒いている。室内では「聖女」が静かに眠っているという事実だけが、神聖な静寂として守られている。フェリックスが廊下で、また何かを祈りながら頭を抱えている気配がした。誰も本音を共有しない。誰も世界を救わない。それでも、今日も役割は成立してしまった。私は、自分が自分である必要性を、この暗闇の中で完全に見失っていた。




