第13話
執務室の窓際、結露したガラスの向こう側で、王都の夜明けが不吉なほど赤く染まっていた。机の上に放り出された極秘報告書は、まるで悪性の腫瘍が全身に転移したことを告げる診断書のように見えた。
隠密からの報告は簡潔だったが、その内容は私の脳髄を鋭く突き刺した。穏健派の貴族連合が、あろうことか聖女セラフィナと密約を交わしたという。名目は「平和への共同祈祷」だが、実態は王の軍拡路線に対する正面切っての反逆だ。清らかさという名の巨大な慣性が、私が血を吐く思いで構築してきた王の「戦神としての威厳」に真正面から衝突しようとしている。調整係としての私の胃壁は、もはや酸で焼け落ちる寸前だった。
私は冷え切った安コーヒーを一口啜り、顔を顰めた。豆の質が悪いうえに、抽出から数時間が経過している。その苦味は、今の私の立場そのものだった。
王の執務室に呼び出されたのは、それから間もなくのことだ。重い扉を押し開けると、そこには冬の朝陽を背負い、シルエットとなったレオンハルト陛下が立っていた。彼は、デスクの上に新調された長剣を鎮座させていた。抜身ではないが、その鞘の彫刻さえもが獲物の血を欲しているように見える。
「エドガー、来たか。待っていたぞ」
王の声は、かつての震えを失っていた。代わりに、自分が歴史という巨大な劇場の主役であるという、根拠のない、しかし強固な全能感が混じっていた。
「陛下、お呼びにより参上いたしました。……その剣は?」
「軍部から献上された。帝国を根絶やしにし、その傲慢をこの国から一掃するための、最強の牙だ。これに相応しい演説を書け。民衆の心臓を一突きにし、一滴残らず戦意を絞り出すような、至高の台本をだ」
私は深いため息を飲み込み、一歩前に出た。
「陛下、時期尚早です。穏健派が聖女様を担ぎ上げました。今、性急に戦争を煽ることは国内を決定的に分断し、統治の根幹を揺るがします。平和的な落とし所を模索し、聖女側の支持層を取り込むのが先決です。平和こそが、今の王国の維持には不可欠なのです」
「平和」という言葉を口にした瞬間、部屋の空気が凍りつくのを感じた。レオンハルトはゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線を向けた。その瞳には、かつての優柔不断な影はなく、自らの「怒り」という表現手段を、ついに「王の威厳」そのものとして定義し直した男の、不気味な充足感があった。
「平和か。それは聖女に任せておけばいい。私の役割は、この国の自尊心を血で洗うことだ。お前が言ったんだろう、エドガー。王には象徴としての感情が必要だと。私は今、最高に王らしい感情に満ちている。怒りこそが、今の私を支える背骨なのだよ」
戦神。
私がかつて提示していた「賢王」というコンセプトは、いまや私の手を離れ、怪物へと成長していた。
かつて私が目撃した「威厳崩壊」の光景が、不意に脳裏をよぎる。先代の王が、民衆の前でたじろぎ、言葉を失い、ただの無力な老人へと成り下がった瞬間に起きた地獄。略奪、放火、そして法の死。それを防ぐために、私はこの男に「役割」という鎧を着せた。だが、その鎧はいまや王の皮膚に癒着し、彼自身の肉体を食い破ろうとしている。
私は執務室の壁に掛けられた歴代国王の肖像画を眺めた。彼らは皆、沈黙の中でこの喜劇を冷ややかに見下ろしている。
「陛下、戦争は演出ではありません。現実の泥と血です。それを煽る台本を書くということは……」
「わかっている。だからこそ、最高傑作を書けと言っているんだ、エドガー。お前というプロフェッショナルが、私のために最良の言葉を紡ぐ。それがこの国の唯一の救いだ」
レオンハルトは剣の柄を愛おしそうに撫でた。彼の指先がわずかに震えているのが見えた。それは恐怖による震えではなく、これから始まる巨大な破壊への、無垢で残酷な子供のような高揚だった。私は絶望的な気分でペンを握る準備をした。インクの黒が、紙の上で血のように広がっていく幻影が見えた。私は、平和を求める理性を必死に繋ぎ止めながらも、自らが作り出した偶像の重みに、一歩ずつ押し潰されようとしていた。
執務室を出た私は、そのまま王宮を離れ、王都の喧騒の中へと身を投じた。調整係としての私の流儀は、現場の「空気」を肺に詰め込むことから始まる。台本は机の上だけで書くものではない。民衆の欲望の温度を測らなければ、言葉は届かないからだ。
しかし、街の様子は私の予想を遥かに超えていた。広場には愛国的な歌が溢れ、訓練中の義勇兵たちの足音が石畳を不快に揺らしていた。酒場からは、昼間から帝国の無礼をなじる男たちの怒号が響き、安っぽい高揚感が蒸せ返るような湿気と共に路地裏まで流れている。
街全体が、まるで巨大な発熱に浮かされているかのようだった。人々は、死の匂いが混じったこの「祭り」に熱狂的に酔いしれていた。明日、自分が戦場に送られるかもしれないという恐怖を、王が用意した「怒り」という麻薬で紛らわせているのだ。
一方で、華やかな中央通りを一歩外れれば、そこには剥き出しの現実が横たわっていた。軍拡による極端な物価高騰。パン屋の前には、灰色の顔をした女たちが、空の籠を握り締めて蛇のように長く列を作っている。その行列の隅、汚れたレンガの壁の影に、一人の子供が座り込んでいた。
その子は、土のついた根菜の切れ端を、獣のような目をして貪り食っていた。頬はこけ、手足は枯れ木のように細い。周囲の熱狂的な軍歌も、兵士たちの力強い行進も、その子供の瞳には映っていないようだった。そこにあるのは、愛国心でも憎悪でもなく、ただ「今、この瞬間を生き延びる」という、重苦しい生存の渇望だけだ。
私の胃の奥から、酸っぱい液体がせり上がってきた。平和。私が守るべきだったのは、この子供の空腹を癒すための平穏な日常ではなかったか。戦神という演出された虚像のために、この小さな命の糧を奪うことが、私の「調整」の結果だというのか。
私は、自分が救おうとしていた世界と、自分が作ろうとしている台本との間の巨大な乖離に、目眩を覚えた。私は再び王宮へ戻り、演説の執筆を拒否し、王を説得するために再び執務室の重い扉を開けた。私の背中には、路地裏で見た子供の虚ろな瞳が、消えない焼き印のように張り付いていた。
「陛下、改めて進言に参りました。街の疲弊は、もはや私の予想を超えています。今、戦争という火に油を注げば、戦地で敵とまみえる前に、この国は内側から暴動という名の炎に焼かれます。演説のトーンを下げてください。聖女様の和平路線と歩調を合わせ、まずは民の腹を満たすべきです」
だが、レオンハルト陛下は、私の必死の訴えを鼻先で笑い飛ばした。彼は窓辺に立ち、外で熱狂する群衆を満足そうに眺めていた。
「エドガー。お前は本当に、民衆のために平和を求めているのか? それとも……」
王はゆっくりと振り返った。その瞳には、かつてないほど鋭く、残酷な光が宿っていた。
「……私を自分の指先一つで操り、『王を支配している』というあの歪んだ快感に浸り続けたいだけなんじゃないか?」
肺から空気がすべて抜け出たような衝撃を受けた。私の心臓は、王の言葉という鋭利なメスで、最も見られたくない場所を剥き出しにされた。
「お前の目は、私を見ていない。お前が見ているのは、お前が精巧に作り上げた『王』という名の空洞だ。お前は私という役割を守るふりをしながら、その実、私を自分だけの玩具として飼い慣らそうとしている。支配者は愉快だろう? 私も今、ようやくその味がわかってきたところだ。お前が私を支配しようとしたように、私はこの国を、民を、そしてお前をも、私の意志で支配してやるのだ」
王の瞳の奥に宿る「暗い智慧」が、私の正論を無慈悲に切り裂いた。道徳的な正しさで武装していた私の鎧が、一枚ずつ音を立てて剥がれ落ちていく。私は、世界を救おうとするプロフェッショナルなどではなく、ただ自分の手の中で世界が回ることに陶酔していた、傲慢な演出家に過ぎなかったのか。路地裏の子供の瞳が、今度は軽蔑を込めて私を見ているような気がした。
レオンハルト陛下は、私の沈黙を、自らの完全な勝利として受け入れたようだった。彼は私の動揺を慈しむかのように、デスクの引き出しから見たこともないほど高級なクリスタルボトルを取り出した。その液体は、夕闇の影を含んだ琥珀色をしていた。
「飲め、エドガー。お前が普段、罪悪感を紛らわせるために啜っている安コーヒーとは違う。真の王が愛する酒だ」
震える手で差し出されたグラスを受け取った。注がれた液体は、暴力的なまでの芳香を放っていた。私はそれを、喉を焼く熱さを堪えながら一気に煽った。アルコールが瞬時に血液に溶け込み、私の倫理観を麻痺させていく。
「支配者というのは、孤独だが、それゆえに全能だ。……今夜は仕事は終わりだ。お前には、私の慈悲を与える。お前が愛している『調整』という名の苦行から、一晩だけ解放してやる」
王が優雅に指を鳴らすと、重いカーテンの陰から、控えていた若く美しいメイドが一人、音もなく姿を現した。彼女は王の命令に従うためだけに存在する、意思を持たない彫像のように見えた。
「この娘をあてがってやろう。エドガー、お前は働きすぎだ。正義や平和といった重い荷物を、今夜だけは下ろせ」
王の笑い声が、耳の奥で不気味に反響した。
「支配者は愉快ぞ、エドガー。他人の人生を、尊厳を、指先一つで変えられるのだからな。お前も、その悦楽に身を浸してみるがいい」
私は拒むことができなかった。いや、心のどこかで、拒むことをやめたかった。
平和を求め、理性を保ち、壊れかけの世界を必死に繋ぎ止めようとする不毛な努力に、私は心底疲れ果てていたのだ。酒の酔いと、王への恐怖、そして彼が提示した背徳的な全能感。私は、自分が守るべきだった最後の一線を、重力に身を任せるようにして踏み越えてしまった。
その夜、私は深夜の執務室に籠もり、熱に浮かされたように演説の構想を練り始めた。机の傍らには、王から与えられたメイドが、物言わぬ人形のように佇んでいる。彼女の体温と、喉の奥に残る高級酒の残香が、私の倫理観をゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。
ペンが紙の上を走るたびに、不気味なほどの高揚感が私の血管を駆け巡った。平和、人道、倫理。それらすべてを「言葉」という暴力で粉砕し、一つの巨大な「戦意」という名の石塊にまとめ上げる作業。
私は王の共犯者となることで、自分自身を縛り付けていた理性という名の鎖を、自ら断ち切っていた。王の狂気を言語化し、美化し、神聖化する。それが、これほどまでに甘美な破壊衝動を伴うものだとは知らなかった。
ペン先が紙を削る音が、深夜の静寂に呪文のように響く。私は、自分が救いたかったはずの路地裏の子供たちの顔を、意識的に脳裏の奥底に追い払った。代わりに、炎の中で崩れ落ちる帝国の幻影と、それを見て歓喜する民衆の狂熱を描き出した。
私は、自分が最も恐れていた「威厳崩壊」という地獄の代わりに、自らの手で「狂信」という名の祭壇を築き上げていた。メイドの冷えた手首に指をかけた瞬間、私は自分が完成させた「戦争の台本」と心中することを決意した。
朝を告げる鐘の音が、頭蓋骨に響く重い頭痛と共に鳴り渡った。
私は、もはや王の共犯者だった。精神的に、肉体的に、そしてこの国を破滅へ導くという運命において。
執務室の床には、何十枚もの書き損じが散乱し、インクの瓶は空になっていた。しかし、最後の一枚を書き終えたとき、私の内側には、荒れ果てた戦場の後のような、奇妙で冷徹な静寂が訪れていた。
もはや「平和」への未練はない。私は王が求めるままに、この国の全エネルギーを戦争という名の熱狂へ変換するための、壮大な物語を完成させたのだ。それは、この国そのものを巨大な火薬樽に変えるための、点火剤となる言葉の羅列だった。
王宮の広大なバルコニー。そこは、かつて先代の王が威厳を失い、崩壊が始まった呪われた場所だ。
そこに立ったレオンハルト陛下は、もはやかつての無能で優柔不断な男ではなかった。彼は、私が書いた台本を完璧に演じた。いや、彼は役割そのものへと変貌していた。
彼はある時は民衆の憎悪を煽り、ある時は不屈の決意を叩きつける。その声は、魔法による増幅を超えて、大気を震わせ、数万の民衆の心臓を一つの狂気的なリズムで共鳴させた。
「我々の静寂を、帝国は弱さと見誤った! 聖女の慈愛を、奴らは無力と嘲笑った! 諸君、時は来た! 我々の誇りを取り戻すために、この国という名の剣を、奴らの胸元に突き立てるのだ! 勝利だけが、我々の神聖なる正義を証明する唯一の道である!」
広場を埋め尽くした民衆から、地鳴りのような歓声が上がった。それは歓喜というよりは、理性を失った獣の咆哮に近かった。男たちは喉を枯らして絶叫し、女たちは涙を流しながら軍旗を振りかざした。
その熱狂の渦の中で、私は、バルコニーの影から王の背中を、虚ろな目で見つめていた。王は、民衆の熱狂を栄養にして、より巨大な、より冷酷な「戦神」へと脱皮していく。彼の肩越しに見える空は、あまりにも澄み渡り、私たちのついた巨大な嘘をあざ笑うかのようだった。
その横には、穏健派に担がれた聖女……いや、ミラが立っているはずだったが、王の圧倒的な演説の前に、彼女の「平和への祈り」は単なる弱々しいノイズとしてかき消されていた。彼女の清らかさは、いまや王の武勲を彩るための、単なる「勝利の景品」としての飾りに成り下がっていた。
役割は、ついに暴力を正当化するための、この国唯一の真実となった。私は、自分が書き上げた台本が、世界を炎に包んでいく光景を、ただ網膜に焼き付けていた。
王は演じることに酔い、私は共犯者としての快楽に沈み、民衆は血の祭りに狂う。
私がかつて救いたかったはずの平和は、私が紡いだ言葉の洪水によって、跡形もなく押し流された。路地裏の子供たちがこの炎の中でどうなるか、今の私にはもう考える権利さえ残されていない。




