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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第12話

「視点:ミラ」

 聖女の寝室には、高価な香香と、生理的な嫌悪感を催させる発汗の匂いが充満していた。

 セラフィナは絹のシーツを剥き出しの爪で掻きむしり、陶器のように白い肌を脂汗で光らせている。帝都の闇市で手に入れたという、安価で質の悪い合成薬物の離脱症状だ。瞳孔は散大し、焦点の合わない瞳が虚空を彷徨っている。

 「……ミラ、あの夜は本当に最高だったわ。帝国騎士の首筋に鼻を押し付けた瞬間に、世界が極彩色に弾けたの。あのまま死んでもいいって、本気で思った」

 彼女はうわ言のように繰り返し、突然、何かが喉に詰まったような乾いた笑い

 私は無言で冷たいタオルを絞り、彼女の額を拭う。この女を「清らかさの象徴」として維持するために、私たちはどれだけの泥を啜ってきたのだろうか。

 「セラフィナ様、いい加減にしてください」

 背後でフェリックスが、鉄格子のきしむような声を出した。

 彼は三時間に及ぶ説教を続けていたが、主君の耳には届いていない。彼の整った顔立ちは、過労と神経衰弱で紙のように薄くなっている。

 「帝国との外交は、あなたの放蕩のせいで一触即発の事態に陥った。ミラがいなければ、今頃あなたは帝国の監獄で、薬物中毒の娼婦として吊るされていたはずだ。分かっているのですか?」

 セラフィナは、聞こえているのかいないのか、私の腕にすり寄ってきた。

 「ミラ、あんたの肌は冷たくて気持ちいいわ。……ねえ、もうあんたが代わりに聖女をやればいいじゃない。私はこのまま、暗い部屋でずっと夢を見ていたい。あんたの方が、私よりもずっと『私』らしい顔をして笑うんだもの」

 「セラフィナ様。そのような冗談は慎んでください」

 私は彼女の身体を突き放すようにして立ち上がった。

 だが、フェリックスがふと漏らした言葉が、私の心臓を冷たく掴んだ。

 「……ミラ、正直なところ、私もそう思う。今の彼女を聖女として表に出すのは、壊れた爆弾を広場で弄ぶようなものだ。お前が本物と入れ替わってしまえば、どれほど楽になるだろうな」

 彼の目は笑っていなかった。それは救済ではなく、機能的な廃棄の提案だった。

 「フェリックス様、あなたまで。……私はただの侍女です。冗談はやめてください。不敬ですよ」

 私は、鏡に映る自分の顔を見た。そこには、セラフィナの絶望と私の虚無が混ざり合った、名状しがたい何かが映っていた。役割が、ゆっくりと、しかし確実に私の皮膚を侵食し始めている。その恐怖を隠すために、私はわざとらしく彼女の乱れた髪を整え始めた。

 窓の外では、王都の空気が急速に冷え込み、同時に異常な熱を帯び始めていた。

 聖女が「奇跡の和平」を持ち帰ったはずの王国と帝国は、表向きの和解とは裏腹に、かつてない規模で軍備拡張を競い合っている。内部が二つに分かれた国同士が並んで歩めるはずもなく、平和という名の猶予期間は、単なる次なる殺戮のための準備期間へと成り下がっていた。

 「平和になったのに、なぜ小麦の値段は上がる一方なの?」

 「帝国を許したというのに、なぜ息子たちが軍に徴用されるんだ?」

 民衆の苛立ちが、広場に澱みのように溜まっている。彼らの熱狂は、現実の苦しさを前にして、急速に毒性の強い不満へと変質していた。昨日まで聖女を讃えていた口は、いまや体制への罵倒を吐き出すためにある。

 私は、分厚いカーテンの隙間から、広場で小競り合いを始める民衆を見て頭を抱えた。このままでは、演出された「清らかさ」さえも物理的な暴力に飲み込まれてしまう。

 「ねえ、ミラ。あの子たちを見て。あんなに醜く顔を歪めて、神様を呪っているわ。面白いわね」

 薬から醒めかけのセラフィナが、窓際に寄ってきて愉しげに笑った。

 彼女は、自分が火をつけた火薬庫の導火線を眺める子供のような、純粋で残酷な瞳をしていた。民衆が自分を愛そうが憎もうが、彼女にとっては等しく「娯楽」でしかないのだ。

 「……面白がっている場合ではありません。エドガー補佐官は、次の行事であなたが民衆を沈静化させることを求めています」

 「沈静化? 無理よ。彼らが求めているのはパンか、あるいはもっと刺激的な血よ。私はパンは持っていないけれど、血ならいくらでも流させてあげられるのに」

 彼女が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、私にはもう判別がつかなかった。ただ、彼女の微笑みが、窓の外の狂乱と不気味に共鳴しているのを感じ、私は背筋に嫌な汗をかいた。役割を演じるための「型」は持っているが、その中身を埋めるべき「正気」は、すでに帝都の路地裏に置いてきてしまったらしい。

 結局、建国記念の大典という名の巨大な舞台装置に、私は「聖女」として放り込まれることになった。

 セラフィナは薬の残滓を吐き出すために寝室の暗がりに沈み、フェリックスは血の気の失せた顔で「今の彼女を衆目に晒すのは、国家という名の船を自ら沈めるに等しい」と断じたからだ。

 純白の法衣は、私の皮膚の一部であるかのように馴染んでいる。重厚なヴェールを被り、指先までを完璧な「静寂」で満たして、私は大聖堂のバルコニーへと一歩を踏み出した。

 眼下には、数万の民衆。揺れる松明の火が、彼らの苛立ちと飢えを映し出し、巨大な生き物の脈動のようにうねっている。

 私は脳内で、これまで何千回、何万回と繰り返してきたセラフィナの映像を再生した。呼吸の深さ、視線の動かし方、慈愛という名の虚飾。私は、私であることを放棄した。

 その時だった。以前から片鱗はあった。自分ではない感覚。自分を外から見ている感覚。

 トレースという行為が極点に達した瞬間、明らかに私の私を認識する範囲が変わった。

 自分の姿が、バルコニーに立つ「聖女」という一点の記号として視界に入っているように感じる。それと同時に、広場を埋め尽くす万民の、個々の呼吸、視線の熱、わずかな肩の震えまでが把握できた。

 私が、私自身を見ている。そして、私が、この数万の感情の「うねり」を一本の糸で繋いでいる。

 私は、右手の指先を、わずか数ミリだけ、空を撫でるように動かした。

 それだけで、広場の怒号が、物理的な衝撃を伴って静まり返った。

 次に、私はまぶたを伏せ、深く、しかし誰にも聞こえないほど繊細に息を吸い込んだ。

 数万の群衆が、それと同期するように一斉に息を呑む。

 恐ろしいほどの万能感が、脊髄を突き抜けた。

 私の指先の角度一つで、この飢えた群衆を泣かせることも、怒り狂わせることも、死地へ向かわせることもできる。彼らの感情のつまみは、すべて私の手元にある。

 「聖女」という役割は、神の代行者などではない。人々の脳内に作り上げられた「期待」という名の鍵穴に、完璧な形の鍵を差し込むための、精密な技術職だ。

 「愛する民たちよ。神は、あなた方の忍耐を、その清らかな涙の一滴までをも数えておいでです」

 自分の声が、天から降り注ぐ銀の鈴のように響いた。

 民衆が、波が引くように一斉に地に伏す。その光景を、私は冷徹な視点で見下ろしていた。

 この万能感は、劇薬だ。一歩間違えれば、私はこのまま「神」になれる。純粋な象徴として、この世界を支配できるという確信。

 その瞬間、猛烈な、そして逃げ場のない鳥肌が全身を駆け抜けた。

 ぞっとした。

 私が今、完璧にコントロールしているのは、この数万の民衆だけではない。私という一人の人間の魂もまた、この「役割」という巨大な怪物に、一欠片も残さず食いつぶされている。

 儀式を終え、私室に戻った際私は崩れ落ちた。過去にこんなに消耗したことはなかった。フェリックスが私の前で深いため息をついた。彼の額には、見たこともないような冷や汗が浮かんでいた。

 「……ミラ。一瞬、本物が戻ってきたのかと思った。いや、本物以上の完成度だった。恐ろしいほどにな」

 「……そうですか。不吉な冗談ですね、フェリックス様」

 私は鏡の中の自分を見た。

 そこにいたのは、聖女でもミラでもない、ただ役割だけが透けて見える「何か」だった。

 度と自分自身の肉体という狭い世界に、安らかに戻れないと悟った。私は震える指先で法衣を脱ぎ捨てたが、肌にこびりついた万能感の寒気だけは、どうしても拭い去ることができなかった。



 しかし、この聖女の微笑みによる沈静化は、皮肉な副作用をもたらした。それを目撃した穏健派の貴族や商人たちに、ある種の確信を与えてしまったのだ。すなわち、「この国の実権を握っているのは、王ではなく聖女である」という、危険極まりない確信である。

 「聖女様、どうか、どうか我ら穏健派の旗印となっていただきたい!」

 大典の直後、私室の扉を突き破らんばかりの勢いで、穏健派の代表たちが詰めかけてきた。

 彼らはセラフィナの部屋の前まで来ており、フェリックスに止められている。彼らは一様に、急進派が進める軍拡による増税と徴兵に怯え、商路を断たれることを恐れる「持てる者」たちだ。彼らが差し出したのは、震える筆跡で記された連名の嘆願書。そこには、王の軍事教書に対する公然たる反対と、聖女による「和平維持の宣言」を求める文言がびっしりと書き連ねられていた。

 「嫌よ。政治なんて面倒くさいわ。そんな紙切れ、暖炉にでも放り込みなさい」

 奥の寝椅子で、ようやく薬の離脱症状から解放されたセラフィナが、大粒の葡萄を口に放り込みながら吐き捨てた。私は扉越しにそれをフェリックスに告げる。

 「皆様、聖女様のお言葉です。代々、聖女は政治には関わらないという原則がございます。王宮の決定に異を唱えることは、その神聖さを汚す行為に他なりません」

 扉の向こうでフェリックスが事務的に、しかし冷徹に断る。だが、穏健派の代表である初老の侯爵は、一歩も退かなかった。

「あなたが動かなければ、この国は帝国の鉄靴に踏みつぶされる」

 その醜悪なまでの必死さが、部屋の空気を重く沈ませる。

 「セラフィナ様、受け入れるべきです」

 私が口を開くと、セラフィナは信じられないものを見る目で私を睨んだ。私は跪いたまま、彼女の耳元で囁いた。

 「戦争が始まれば、あなたの愛する輸入物のワインも、帝都の極彩色も、すべて灰になります。平和という名の温室が壊れれば、あなたが一番に困るはずです。直接政治を司る必要はないんです。ただ、穏健派の『象徴』として王の言葉をその沈黙で否定するだけでいい。それだけで、軍靴の音は止まります。あなたの快楽を守るための、最も効率的な手段です」

 戦争回避。その大義名分の裏側にある、身勝手な欲望の計算。

 セラフィナはしばらく私を忌々しげに見つめていたが、やがて長く、退屈そうな溜息をついた。

 「……わかったわ。勝手になさい。その代わり、私の時間は奪わないで」

 聖女が申し出を受け入れたと伝えると、穏健派は歓喜に震え、聖女の「慈悲」を讃えながら退室していった。

 私は「聖女」の法衣を指先でなぞった。穏健派を救うため、そしてセラフィナの放蕩を守るために、私はこれから「政治の象徴」という、より重く、より不自由な役割に塗り潰されていくことになる。

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