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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第11話

「視点:エドガー・クロウ」

 執務室の空気は、湿った羊皮紙と古い煙草の匂いが混じり合い、肺の奥を不快に逆撫でする。窓の外では、王都の民が聖女の無事を祈る鐘を鳴らし続けていた。その音が、私のこめかみを執拗に叩く。

 扉が叩かれ、先ほどまで「最悪」を運んできた伝令が、今度は一転して上気した顔で滑り込んできた。

 「補佐官! 誤報でした! 聖女セラフィナ様は、帝国の宿泊施設内で無事に発見されました。体調を崩し、一時的に奥の間に籠もっておられただけとのことです!」

 伝令の若者は、まるで奇跡でも目撃したかのように声を弾ませている。私は表情を変えず、ただ短く頷いて彼を下がらせた。政治家どもは喜び談笑を始める。王だけは気に入らないという顔をしていた。

 最近王の威厳がますますなくなっている。ただしそれは「賢王」としてのもので、一度も戦ったことのない「戦神」としての権威だけは上がり続けていた。

 私は会議室を抜け出し自室に戻った。数分後、部屋の影から、音もなく男が立ち現れた。王宮の暗部、私の個人的な「耳」だ。

 「……実際の状況は?」

 私が問うと、男は乾いた、感情を排した声で答えた。

 「聖女セラフィナはいません。現在、その座に座っているのは影武者です。彼女が現地の皇帝や貴族の目をごまかし続けています。本物の所在は、依然として不明です」

 椅子が軋む音を立て、私は深く背もたれに身を預けた。

 伝令が運んできた「公式の真実」と、暗部が持ってきた「剥き出しの事実」。この乖離こそが、私の生きる世界だ。しかし、今回の乖離はあまりにも歪みが大きい。

 なぜ代役なのか。なぜ、帝国側に対して「聖女が攫われた」と抗議することを選ばず、この薄氷を踏むような綱渡りを強行しているのか。

 通常、こうした事態では大々的な捜索が行われるべきだ。聖女の失踪は、帝国を外交的に追い詰めるための、何物にも代えがたい最強のカードになるはずだった。それを使わず、影武者を立ててまで「平穏」を演出する。その判断の裏には、聖女本人、あるいは現場の執事フェリックスの、極めて私的で破滅的な「都合」が隠されているに違いない。

 私は、デスクの上の安っぽいコーヒーを一口啜った。冷めきって、泥のような味がした。

 役割を守る。それは、時に真実を殺し、嘘を神殿に祀り上げることだ。影武者が今この瞬間も、恐怖に震えながら「清らかさ」の仮面を顔に張り付けている様子を想像する。

 「……本物を探せ。何が何でもだ」

 私は暗部の男に命じた。

 今聖女が死ねば確実に戦争になる。

 王はまだ何も知らない。レオンハルト陛下は、自分の威厳が聖女という脆い虚像によって支えられていることを、認める知性さえ失いつつある。

 私は、自分が設計した「平和」という名の精巧な時計が、内側からボロボロと部品を零していく音を、たった一人で聞き続けていた。 

 この国の政治家どもは、聖女が「いる」という報告だけで、すでに祝杯の準備を始めている。彼らにとって重要なのは、予算を組み、利権を分配することだ。王も聖女は金を生む。熱狂が金に変わる。市井は熱に浮かされたように消費と供給を繰り返している。王国始まって以来の好景気だ。

 エドガー、お前は考えすぎなんだよ。

 かつて、今は亡き先代の補佐官にそう言われたことがある。確かにそうかもしれない。真実を知ることは、単に胃潰瘍を増やすだけの作業だ。

 だが、誰かがこの泥の中を歩き、壊れかけの歯車を素手で繋ぎ止めなければ、この国は一晩で瓦解する。

 暗部の男が再び口を開く。

 「影武者が皇帝の誘いを断っているそうですが、皇帝は彼女の拒絶に逆に魅了されている節があります。また、偽物とバレないように他者と接触を抑えているため、より聖女の神聖さの演出になっているようです。今日も帝国軍人が聖女に会いに見張りを強行突破しようとしたとか。皮肉なものですね。偽物が聖女としての価値を高めている」

 「笑えない冗談だ。偽物が本物を超えた時、その役割は誰のものになる?」

 私は窓の外を見た。聖女の無事を祝う民衆の歌声が聞こえてくる。

 彼らが愛しているのは、「聖女」という名前の付いた、都合の良い記号だ。

 まるで質の悪い喜劇の脚本のようだった。

 報告書によれば、帝国内部は今や、現皇帝を支持する「肯定派」と、聖女の魅力に当てられて統制を失いつつある軍部の「軍閥派」に真っ二つに分かれているという。

 「軍閥派の若手将校たちは、聖女を汚そうとする皇帝から彼女を救い出し、自分たちの女神として担ぎ上げようと画策しているようです。彼らにとって、聖女はもはや外交の対象ではなく、個人的な崇拝の対象と化している」

 私は思わず乾いた笑いを漏らした。

 清らかさが、軍事組織を内側から腐らせる酸として機能している。聖女という役割が持つ、あまりにも皮肉な副作用だ。ただ、これまではそんなことはなかった。何かが違ってきている。

 一方で、王宮の公式ルートから入ってくる伝令の報告は、それとは正反対の「清潔な」内容に満ちていた。

 「聖女様は、連日の祈祷と会談を恙無くこなしておられます。一点、小さな不祥事がございました。随行していた侍女の一人が、帝都の闇市で禁止薬物を所持しているところを摘発されたとのことです。聖女様は深く心を痛め、皇帝に嘆願し彼女を救うと宣言されました。皇帝は感激し侍女を釈放し引き渡したそうです」

 私は、その「解雇された侍女」が誰を指しているのか、すぐに察した。ミラだ。

 聖女の代わりに服を着て玉座に座っている影武者がいる一方で、街で薬物に溺れる侍女がいる。責任はないのかと言いたかった。 

 「影武者は、それほどまでに聖女に似ているのか?」

 ふと気になって私は、暗部の男に問うた。

 「容姿は双子と言っても差し支えありません。所作も完璧で、その、雰囲気まで似ております。聖女がいなくても成り立つくらいに」

 侍女が薬物で捕まろうが、そんなことはどうでもよかった。

 私が関心があるのは、この「入れ替わり」という欺瞞が、いつまで国家の屋台骨を支えきれるかという一点だけだ。

 王宮内では、この侍女の不祥事さえも「聖女様の高潔な厳しさ」として好意的に解釈されている。レオンハルト陛下にいたっては、「私の威厳が帝国を威圧しているからこそ、聖女も背筋を伸ばしているのだ」と、まるで見当違いな自信を深めていた。

 私は、デスクの上の山積みの資料を眺め、暗い快楽に似た絶望を感じていた。

 真実を知っているのは、私と、現場で泥を啜っている数人だけ。

 それ以外の数百万の人間は、偽物の微笑みに酔いしれ、偽物の威厳にひれ伏している。

 この巨大な嘘を維持するために必要なコストは、もはや金銭や労力ではなく、人間の正気そのものになりつつある。

 


 事態は沈静化したかのように見えた。

 暗部からの最終報告書は、「聖女は無事。予定通り帰還の途につく」という簡潔なものだった。

 だが、報告に来た男の態度は、どこか歯切れが悪い。具体的な経緯を問うても、彼は「現場の混乱は収束しました」と繰り返すばかりで、詳細を濁す。

 「まさか……」

 私は、一つだけ懸念していた可能性を口にした。

 「帝都で、聖女の『純潔』が奪われたのではないか? 皇帝に、あるいはあの荒れ狂った軍閥の誰かに」

 聖女の純潔。それは王国という国家が持つ、最も価値のある「無形資産」だ。それが失われたとなれば、演出の根幹が揺らぐ。私は、その事態を想定して、どのような「清浄な嘘」を上書きすべきか、脳内で急速に計算を始めた。

 しかし、暗部の男は意外な反応を見せた。

 「……そのあたりは、気にしなくてよいかと」

 「気にするなだと? 国家の象徴が辱められたかもしれないのだぞ」

 「補佐官。現場からの暗号によれば、皇帝も軍閥も、今や聖女……あるいは聖女を演じている者の前に跪くしかない。純潔などという概念よりも、彼女たちが帝国の中心部をどれほど深く掻き回したか、そちらを憂慮すべきです」

 私は、暗部の男が何を言わんとしているのか、正確には理解できなかった。

 だが、彼の言葉の端々に、名状しがたい恐怖が混じっているのは分かった。

 聖女セラフィナ。彼女が帝都という巨大な檻の中で何をしでかしたのか。私はあるまじき「思考の停止」を選んだ。

 「わかった。不問にする。聖女が『清らかに』帰還する。その事実だけを、王宮と民衆に布告しろ」

 私は、深くため息をつき、二本目の煙草に手を伸ばした。

 役割を守るということは、時として「知りすぎた自分」を殺すことでもある。

 もし彼女が汚されていたとしても、私が「清らかだ」と言えば、それは清らかなのだ。私が「慈愛の権化だ」と言えば、それは慈愛なのだ。

 真実などは、執務室の灰皿に捨てられた吸い殻と同じだ。価値もなければ、熱も持たない。

 だが、私の指先は、微かに震えていた。

 聖女が帰ってくる。そのことが、これほどまでに恐ろしいと感じたことはなかった。

 彼女たちが持ち帰るのは、平和という名の果実なのか。それとも、この国を根底から腐らせる地獄の種なのか。

 窓の外では、まだ鐘が鳴っている。何も知らない民衆の祈りが、皮肉なBGMとして私の部屋を満たしていた。



 聖女セラフィナの帰還。

 王都は狂乱に近い歓喜に沸いた。沿道を埋め尽くした民衆の声は、もはや言葉ではなく、巨大な一つの「熱」となって街を焼き尽くさんばかりだった。

 白銀の馬車から降り立った彼女は、確かに完璧だった。

 だが、その表情には、以前にはなかった「深すぎる疲れ」と、どこか底冷えするような静寂が張り付いていた。

 「セラフィナ様。あなたの献身が、この国を救いました」

 レオンハルト陛下が、精一杯の「威厳」を絞り出し、彼女の手を取る。

 だが、陛下の顔は苦い。

 聖女が持ち帰ったのは、帝国との和平だけではない。帝国がこの国に屈したという「屈辱的な勝利」の記憶だ。王が戦う前に、聖女が許してしまった。その事実が、陛下の乏しい自尊心を内側から削り取っている。

 私は、彼女の背後に控える侍女ミラに目をやった。

 彼女は幽霊のような顔をしていた。聖女の影として、あるいは一時は聖女そのものとして、彼女が何を見て、何を失ってきたのか。その瞳には、もはや光は宿っていない。

 政治は、大きく変わるだろう。

 聖女という象徴は、いまや王の権威を完全に拮抗し、独立した絶対的な力としてこの国に君臨し始めた。

 「陛下、祝宴の宣言を。民衆が、あなたの威厳と聖女の清らかさを、同時に讃えたいと願っています」

 私は、自分の声が他人のもののように響くのを聞いた。レオンハルト陛下は、不満げに私の言葉に従う。

 セラフィナは、疲労の色を隠して、再び民衆へと慈愛の微笑みを振りまく。熱狂的な怒号が飛び交っていた。戦争を望む戦神、平和を望む聖女。この対立構造が生む陶酔的熱病。この中にあって民は幸福だった。走っている限りは幸福だった。

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