第10話
「視点:ミラ」
帝都バルドスの正門を潜った瞬間、私の鼓膜を震わせたのは、王国とは質の違う、暴力的なまでの歓声だった。王国の民が聖女に向ける涙にはどこか湿り気があるが、帝国民のそれは乾燥した、熱狂的な金属音に近い。
純白の馬車の窓から、セラフィナがゆっくりと細い指先を差し出す。たったそれだけの動作で、沿道を埋め尽くしていた最前列の群衆が雪崩のように押し寄せ、折り重なって倒れた。
「見て、ミラ。まるで蟻の巣を突いた時みたい。みんな、私に焼かれたがっているわ」
彼女は窓の外を慈愛に満ちた微笑で見つめながら、隣の私にだけ聞こえる低い声でそう囁いた。
彼女は完璧な所作で、一人一人の瞳を覗き込み、唇をかすかに動かして音のない祝福を授ける。その一挙手一投足は、数学的に計算されたかのような黄金比の美しさを保ち、風に揺れる髪の房でさえ、神の意思を感じさせるほどに制御されていた。これほどの「天性の能力」がありながら、彼女は信奉者の数にも、自分に向けられる神聖視にも、欠片ほどの興味も持っていない。それが、影として付き従う私には、底の知れない空虚さのように感じられた。
謁見の間は、氷のような冷徹な静寂に支配されていた。
玉座には若き現皇帝、バルドス。その傍らには、かつて我が国の先代聖女と個人的な知己があったという退位した先代皇帝が、老いた巨木のように座している。
セラフィナは、大理石の床に花が散るような優雅さで跪き、祈りの姿勢をとった。
「畏れ多くも帝国の皇帝陛下。我が王の至らなさが招いた非礼を、この身に免じてお許しください。神は、北の冷徹な正義と、南の温かな信仰が融和することを望んでおいでです」
彼女は、エドガー補佐官が事前に危惧していた「バッシュ伯爵の独断」という情報を、まるで天からの啓示として今思い出したかのように、絶妙なタイミングで会話に滑り込ませた。皇帝側の責任を追及するのではなく、「伯爵という一個人の暴走」を「慈悲深い聖女が先に許す」という形を、衆人環視の中で確定させてしまったのだ。
その清浄極まる空気の中で、彼女がほんの一瞬だけ、現皇帝に向かって伏せていた睫毛を上げた。
その瞬間、彼女の瞳から「神」が消え、剥き出しの「性」が、毒液のように漏れ出した。ほんの数ミリの口角の緩み。それは聖女の仮面の下にある、男を根源から揺さぶるための誘惑的な色香だった。
皇帝の喉仏が、わずかに上下したのを私は見逃さなかった。
「……バッシュの件は、確かに軍部の統制が乱れた結果だ。我が帝国としても、聖女のこの上ない寛大さに応えねばなるまい」
皇帝は重々しく口を開き、公式な謝罪を述べた。聖女はそれを受けて、神々しく微笑み、すべてを「許した」。
私は彼女の背後で、胃が雑巾のように絞られる激痛を感じていた。
王宮との綿密な調整も、今後の外交的見返りの要求もすべて無視して、彼女はただその場の気分と、目の前の強い男の視線を奪うためだけに、国家間の巨大な貸し借りを、たった一つの微笑みで清算してしまったのだ。役割を完璧に演じながら、中身はただの壊れた欲望の羅針盤。その凄まじい不調和に、私は眩暈を覚えた。
*
帝都滞在の間、セラフィナはまるで「清らかさ」の種を蒔く農夫のように、各地の古びた教会を精力的に訪ね歩いた。
だが、その裏側で彼女が真に楽しんでいたのは、神への祈りではなく、随行する帝国の精鋭騎士たちへの執拗な肉体的干渉だった。
「あら、その鎧の隙間に、細かな砂が入っていますよ。重厚な正義を守るお身体に、傷がついては胸が痛みます……」
彼女は、本来ならば触れることさえ許されない聖女の手を、護衛の騎士の首筋や腕に這わせる。献身的な侍女のような無垢な顔をしながら、指先には、相手の皮膚を粟立たせるような確かな熱を込める。
騎士たちの顔は、厳格な規律の下で赤く染まり、呼吸は浅く乱れていく。
その様子を周囲で見守っている他の兵士たちの間に、言葉にならない嫉妬と、黒い殺気が澱みのように溜まっていくのが分かった。聖女に触れられた幸運な一人への憎悪。それはやがて、軍隊という名の強固な組織を、内側からボロボロに腐らせる酸へと変わっていく。
「あんなに分かりやすいのに引っかかる馬鹿はいないわよ」
とセラフィナは笑った。いつも街や酒場でやっていることの延長なのだろうが、いつもは「私」の姿をしていることを自覚しているのだろうか?「聖女」としてのセラフィナが娼婦のようなことをすることの影響を想像して、私は冷や汗をかいた。
ある晩、先代皇帝による内密な晩餐会が催された。
老いた先代は、セラフィナの容貌にかつての面影を見出しているのか、我が国の先代聖女――彼女の母の思い出話を、湿り気を帯びた声で延々と語り続けた。
「あの清らかさ。あの気高さ。君の横顔を見ていると、時が止まったかのようだ」
私はセラフィナの指示で、セラフィナと入れ替わっていた。途中、セラフィナが「祈りの時間」として席を外した隙に、入れ替わりで私がその場を繋いだのだ。老皇帝の懐古趣味に適当な相槌を打ちながら、私は自分の顔が、この老人にとって単なる「聖女」という記号の複製でしかないことを再確認していた。私の所作がセラフィナに近付いてきたのもあるのだろう。
食事の後、私は現皇帝バルドスに呼び出された。
「聖女、少し話がある。政治の硬い話ではない。二人きりで、だ」
拒むことはできない。私はセラフィナに成り代わったまま、皇帝の私室へと案内された。
室内は薄暗く、暖炉の火の爆ぜる音と、強いアルコールの匂いが漂っていた。皇帝は玉座にいる時の冷徹な統治者とは別人のように、剥き出しの渇望を瞳に宿して、獲物を追い詰める捕食者のように近づいてきた。
「あんな瞳、あんな誘い方をされて、ただの聖女のままでいられると思うな。お前は、何かが壊れている」
大きな手が私の肩を掴み、乱暴にベッドへと押し倒されそうになる。
私は反射的に、セラフィナから耳にタコができるほど叩き込まれた「拒絶の聖句」を、凍りついた声で口にした。
「……陛下、神はあなたの内に宿る深い孤独を見ておられます。どうかその乾きを、私という器への暴力で埋めないでください」
陶器のような、冷たく無機質な拒絶。皇帝は一瞬、何かに打たれたように動きを止め、深く舌打ちをして私を解放した。
「……興が削げた。戻れ、人形め」
部屋を脱出した私の背中には、氷のような冷や汗が流れていた。私は、この役をいつまで続けられるのか、その限界を悟り始めていた。
私が命からがら、屈辱と恐怖に震えながら部屋に戻ると、そこには豪華な薄絹の寝衣に着替えたセラフィナが、鏡の前で退屈そうに金の髪を梳かしていた。
「皇帝に襲われかけました。……楽しんでいるのはあなたなのに、なぜ私が、その汚れ役の代償を払わねばならないのですか」
私が絞り出すような声で訴えると、セラフィナは意外そうに眉を上げた。それから、くすくすと喉を鳴らして、子供の悪戯を眺めるような顔で笑った。
「まあ、バルドス陛下も、案外短気だったのね。惜しいことをしたわ。でもミラ、あなたにはまだ見せたことがない『顔』があるのよ。男が、自分の地位も、名誉も、信仰さえも捨てて、ただの獣になりたくなるような顔がね」
彼女は立ち上がり、私の前に立った。
その瞬間、彼女の纏う空気が、まるで別の生き物に入れ替わったかのように変質した。声のトーン、吐息の混ぜ方、肩の力の抜き方。
「聖女」としての記号をすべて残したまま、そこに「犯してはならないものへの冒涜心」を直接刺激する、粘り気のある毒液のような誘惑が添加される。
「こうやって、彼らの耳元で、そっと囁くのよ。……あなたのその鋭い剣は、私を、守るためのもの? それとも……私を、汚すためのもの? ってね」
彼女は満足そうに微笑んだが、その後に起きたことの「重み」を、致命的なまでに理解していなかった。
セラフィナは、自分の「聖女」としての絶対的な立場で行った誘惑が、どれほど強力で破壊的な力学的変動を、この規律の帝国内に引き起こすかを考慮しなかった。あるいは、知っていて楽しんでいた。
翌日から、城内の空気は目に見えて不穏になった。
皇帝に特別に呼び出された聖女。聖女に公然と触れられた若き騎士。
「聖女を、あの方が独占しようとしている」という、澱のような不審と疑念が、騎士たちと皇帝の間に決定的な亀裂を生んでいた。皇帝は、聖女に心酔した騎士たちの忠誠心を疑い始めて冷遇し、騎士たちは、聖女を汚そうとする「不敬な皇帝」に密かな敵意を抱き始めた。
清らかさの象徴であるはずの彼女一人を巡って、鉄の結束を誇った帝国の秩序は急速に溶解し、醜い憎悪の連鎖が始まっていた。彼女はそれを「面白い余興」だと言わんばかりに、眺めていた。
*
帝国の力学が歪みきり、いつ内乱の火の手が上がってもおかしくない極限の状況。
そんな緊張感の只中で、セラフィナは突然、大きな欠伸をして「飽きたわ」と呟いた。
「皇帝はしつこいし、騎士たちはみんな同じような陶酔した顔をして私を崇める。つまらない。ちょっと、街の本当の喧騒が見たくなったわ。暗い路地裏の、もっと剥き出しの人間たちがいる場所をね」
それを聞いて見張っておかねばと決意を固めた直後だった。目を離した隙に彼女は忽然と消えていた。止める間もなかった。
彼女は、あろうことか「侍女ミラの予備の服」を奪い取り、私の姿に変装して、警護の目を盗んで城を抜け出してしまったのだ。
「……セラフィナ様? 朝の祈祷の時間です。いらっしゃいますか?」
翌朝、返事のない部屋に入った執事フェリックスが、空になったベッドを見て、その場で顔面を蒼白にさせた。運が悪かったのは、私が成り替わる前にその話が漏れたことだ。
聖女が行方不明。それは、帝国内で不信感を爆発させていた軍部の急進派や、対立する騎士たちにとって、「相手陣営による拉致」という最高の開戦理由、あるいは皇帝を弾劾するための正当な武器になりうる。
「フェリックス様、どうすれば……。あの方は私の服を着て、市井へ消えました」
「……絶望的だな。暗部に隠密連絡を入れ、全力であの放蕩女を捜索させる。だが、それまでの間……ミラ、分かっているな。お前が『聖女』として、この部屋から一歩も出ずに、いや、一歩も出ずに座っていられるわけがない。会談も、祈りもある」
フェリックスは震える手で眼鏡を直した。
「ミラ、お前が『聖女』として、そこにいろ。聖女が消えたのは誤報、祈りのために庭に出ていたとでもしておく。本物が戻るまで、お前が我が国の、そして帝国の崩壊を止める唯一の、そして最も脆い壁だ」
私は、震える手で純白の法衣を身に纏った。
彼女が脱ぎ捨てた「聖女」という抜け殻は、皮肉なほどに今の私の体温に馴染んだ。
外では、聖女を奪われたと勘違いした騎士たちが、皇帝の親衛隊と一触即発の事態に陥っていた。街に遊びに出た本物の彼女は、自分が火をつけた巨大な火薬庫が、今まさに爆発しようとしていることなど、鼻歌でも歌いながら気にしていないだろう。
私はヴェールを深く被り、鏡の中の自分を見た。
そこに映っているのは、世界を救うための象徴でも、神の代行者でもない。ただ、摩耗し尽くした感情を殺して、最悪の結末を数分でも先延ばしにするためだけに存在する、空虚な「端役」だった。
「聖女様。民衆と、皇帝陛下がお待ちです」
フェリックスの声が、死刑宣告のように冷たく響いた。
私は深く息を吸い、昨日までのセラフィナがそうしたように、完璧な、そして残酷なまでに美しい慈愛の微笑みを、自分の顔に貼り付けた。




