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裏方は舞台に上がらない  作者: 九式


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第1話

「視点:エドガー・クロウ」

 午前六時、安物の目覚まし時計が鳴る前に指を伸ばして止める。

 寝室の空気は冷え切っている。王宮の石壁は、夜の間に蓄えた冷気を容赦なく放出する。ベッドから這い出し、まずは胃の中にぬるい水を流し込む。鏡の中の自分を見る。三十代半ば、特徴のない顔。それが、王室補佐官という「黒衣」にはちょうどいい。

 レオンハルトの寝室へ向かうと、既に老執事が分厚い扉の前に待機していた。彼は生活面の管理を、私は「王という虚像」の演出を司る。役割は峻別されている。

 扉が開かれ、メイドたちが室内へ滑り込む。カーテンが引かれ、冬の鋭い光が王の寝顔を暴き出す。五十歳を超えた男の、弛緩した肉体がそこにある。

 「陛下、朝です。昨夜の隣領の火災について、対策本部を立ち上げたという体で執務室へ向かっていただきます。あなたは頷くだけでいい。民衆は、王が夜通し心を痛め、夜明けとともに決断を下したという物語を求めています。物語を裏切ることは、彼らの安心を奪うことと同義です」

 私の言葉に、レオンハルトは不機嫌そうに身じろぎした。

 「……うるさい。まだ三時だ。私の体調を考えろ」

 「六時です。執事が昨日のニュースをまとめています。聞いてください」

 老執事が恭しく、しかし事務的に昨日の国勢と今日の予定を読み上げる。王はそれを聞きながら、自身の無能さを「熟考」という言葉で塗りつぶして信じているようだった。彼は自分が有能であると信じなければ、この重圧に耐えられない。

 メイドの一人が着替えを介助する際、レオンハルトの手が慣れた手つきで彼女の腰を撫で、尻を執拗に揉み上げた。

 「……お前、前より太ったか? 弾力がいい。やはり若い肉体はいいな。私のような多忙な男には、こういう癒やしが必要だ」

 メイドの顔が屈辱で強張る。私は無機質な視線で見つめる。王は自身の無能さを認めないが、自身の欲望を律する理性も持ち合わせていない。

 レオンハルトが浴室へ向かった後、私は泣きそうな顔をしているメイドへ歩み寄らず、背後に立つメイド長へ短く告げた。

 「特別手当と、三日の休暇を。それから、当分は彼女を陛下の視線に入れない配置に。彼女の自尊心の摩耗は、国家の維持費として計上する」

 メイド長は無言で頭を下げた。

 王の威厳調整係としての私の仕事は、彼を浴室へ追いやり、今日の「威厳」を構築するための軍服を準備することから始まる。肩幅を強調するパット、喉元を締め上げるカラー。レオンハルトが人間であることをやめ、冷徹な彫像へと変貌するための拘束衣を私は整える。

 この男の肉体がいかに醜く、その精神がいかに脆弱であろうとも、表舞台に出る際には黄金の皮を被せねばならない。私はかつて、威厳が崩壊した瞬間の地獄を見た。前代の王が、民衆の怒りに触れ、ただの肉の塊として引きずり回されたあの光景を。あの日、秩序は死に、街は欲望と暴力に支配された。あの地獄を二度と繰り返さないためなら、私はこの男の卑俗な手つきも、無意味な傲慢さも、すべてを飲み込んで演出の材料に変える。

 鏡の前で、軍服に身を包んだレオンハルトが顎を上げる。

 「どうだ、エドガー。威厳に満ちているだろう」

 「左様でございます、陛下。その角度を維持してください。民衆は、あなたに見下ろされることで、自分が守られていると錯覚します。錯覚こそが、この国の法です」

 私は彼の襟元を微調整しながら、内側で冷ややかに呟く。今日もまた、虚構の一日が始まる。



 正午。謁見の間は、重厚な沈黙と脂ぎった欲望に満ちている。

 北部の領主、バートランド公爵は、熊のような体躯でレオンハルトを威圧しようとしていた。公爵が、増税に対する不満を、野卑な言葉で並べ立てる。その声は高く、広間の天井に反響し、王の権威を物理的に削り取ろうとしているかのようだった。

 レオンハルトの膝が、わずかに震えているのを私は見逃さない。彼は、決断を迫られると、膀胱が緩むかのように精神が弛緩する癖がある。だが、彼は決して「怖い」とは言わない。ただ、沈黙することで、それを「王の度量」に見せかけようとする。

 私は王の背後に立ち、静かに、しかし確実に彼の腰骨のあたりを指先で突いた。

 「姿勢を」という合図だ。

 レオンハルトはびくりとして背筋を伸ばす。それだけで、重厚な軍服の勲章がカチリと音を立て、公爵の言葉を遮った。

 私は王の耳元で、彼がさも自分で思いついたかのようなタイミングで囁く。

 「公爵の右肩にある古い傷跡を凝視し、三秒数えるのです。あなたの沈黙が彼を裁きます。そのあと、来月の狩りの話を振ってください。それで彼は黙ります。彼はあなたの沈黙を、増税を強行する冷徹な意志だと読み違えるでしょう」

 レオンハルトはその通りにする。彼が公爵の古傷を凝視すると、公爵の顔から余裕が消えた。公爵は自分の過去の失態や、隠している不正を王に見抜かれたのではないかと疑心暗鬼に陥る。王が沈黙し、相手の弱点を見つめ続ける。これだけで「底知れぬ王の沈黙」という演出が完成する。

 「……公爵、来月の狩りを楽しみにしている。お前の領地の鹿は、まだ足が速いか?」

 レオンハルトが、教えた通りのタイミングで言葉を放つ。その声は震えていたが、広間の反響がそれを「重低音」へと加工した。

 「……! は、はっ。光栄に存じます。増税の件、再度熟考させていただきます」

 公爵は毒気を抜かれたように膝をついた。王の無意味な問いかけを、寛大なる猶予と受け取ったらしい。

 公爵が退室した後、レオンハルトは鷹揚に頷いて見せた。

 「エドガー、今日の私の沈黙は、奴の肺腑を抉ったようだな。やはり、私の天性のカリスマには、奴のような粗野な男は太刀打ちできん」

 「左様でございます、陛下。そのカリスマを損なわないよう、次回の狩りの獲物はあらかじめ囲い込んでおきます。あなたは引き金を引くだけでいい」

 私は、彼の指先に滲んだ脂汗を、見えないように拭き取る。

 彼は自分の無能さを知らない。自分がただの操り人形であることを、一瞬たりとも疑わない。それが、この国の平穏を維持するための、最も重要な構成要素だ。

 「次はどの領主だ?」

 「次は、教会の使節です。彼らはあなたの『清らかさ』への理解を求めています」

 私は次の台本を脳内で開き、王の表情を「厳格」から「慈愛」へと切り替えるためのトリガーを準備する。

 役割は、演じ続けなければならない。演じ終えた瞬間、そこにあるのは無意味な死だけだ。



 夕刻、王宮の中庭を歩く。

 回廊の向こうから、聖女セラフィナの一行が歩いてくるのが見えた。西日に照らされた彼女は、白磁のような肌と慈愛に満ちた瞳を湛え、一点の曇りもない。彼女が歩くたびに、空気そのものが洗浄されていくような錯覚を覚える。

 「陛下、今日も素晴らしい夕暮れですわね。神の恩寵が、この国を優しく包んでおりますわ」

 鈴を転がすような声。だが、私の視線はその背後に控える侍女、ミラに止まる。

 彼女の評判は最悪だ。夜な夜な下町の酒場に出入りし、酔いつぶれて男と揉め事を起こしているという報告が上がってきている。聖女という至高の光に仕えながら、その影で欲望を垂れ流す汚泥のような女。

 レオンハルトの呼吸が荒くなる。彼の視線は、聖女の豊かな胸元や、伏せられた睫毛に這いずり回っている。五十を過ぎた男の、剥き出しの劣情が、王の軍服を内側から食い破ろうとしていた。

 「……ああ、聖女様。君の美しさは、神の奇跡そのものだ。どうだろう、今夜、神学についての個人的な教授を願えないだろうか。私は常に、魂の救済を求めているのだよ」

 王の口から、隠しきれない粘り気のある欲望が漏れ出す。

 「聖女様、祈りの時間では? 猊下がお待ちです。世俗の長話は、魂を曇らせます」

 ミラが静かに、しかし有無を言わせぬトーンで割って入った。その声には、聖女に対する敬意など微塵も感じられない。セラフィナは微笑みを絶やさぬまま、静かに頷く。

 「ええ、そうですわね。陛下、またの機会に」

 二人の背中を見送る間、レオンハルトはずっとその腰つきを眺めていた。その目は、獲物を狙う獣というより、甘い蜜に集まる蝿のようだった。

 「エドガー、あの聖女を抱くには、あとどれだけの寄付金が必要だと思う? あの清らかな肌に、私の指が食い込む様を想像してみろ」

 「不敬です、陛下。あなたのその想像は、この国の基盤を揺るがす毒となります。飲み込んでください」

 「……冗談だよ。君は相変わらず固いな」

 王は吐き捨てるように言い、近くで花壇の手入れをしていた若いメイドの肩を強く抱き寄せた。

 「おい、お前。夜に私の部屋へ来い。新しいワインが届いたんだ。私を慰める光栄を与えてやろう」

 メイドは顔を引き攣らせ、助けを求めるように私を見た。私は意識的に視線を外し、王の歩調に合わせて歩き出す。

 去り際に、ミラがもう一度だけ振り返り、私と視線を合わせた。

 その瞳には、侮蔑も同情もなかった。ただ、極限まで摩耗した人間だけが持つ、不気味なほどの虚無があった。

 あの不埒な侍女と、この卑俗な王。私たちは、聖なるものと俗なるものの境界線上で、汚物まみれの綱引きをしている。

 「陛下、夜の執務が控えています。欲望は、役割を終えてからになさってください」

 私は王を促し、黄金の檻へと連れ戻す。

 夜、レオンハルトの食事の時間だ。

 彼は豪勢な肉料理を頬張り、脂の滴る手でワイングラスを掴んでいる。老執事が隣に立ち、翌週の祭事の報告を子守唄のように読み上げる。王はそれを聞きながら、さも自分が国家の舵取りをしているかのような万能感に浸っている。

 執事が生活面での小言を呈している間、私はその隣で明日の会談の準備を進める。

 明日は外交使節団との会談がある。レオンハルトが失言をしないよう、回答を書き込んだカードを整理していく。このカード一枚に、この国の半年分の関税がかかっている。

 「エドガー、例のメイドを呼んだか? さっきの中庭の娘だ。あいつ、いい目をしていた」

 肉を飲み込み、レオンハルトがにやけ顔で尋ねる。

 「いいえ。彼女は急病で倒れました。陛下に病を移すわけにはいきません。代わりに、陛下のために特別に教育された『新しいメイド』を寝室へ手配しました」

 私はあらかじめ手配しておいた女を、裏口から王の寝室へと滑り込ませる。彼女は王室(裏)御用達の高級娼婦だ。

 城内のメイドを食い物にさせれば、その恨みはいつか城壁を越えて民衆に届く。そうなれば、私が作り上げた「威厳」という名のハリボテは、一晩で灰になる。プロの娼婦であれば、金と守秘義務で、王の醜態を墓場まで持っていく。

 レオンハルトは、娼婦とも知らず、用意された「獲物」に満足げな鼻を鳴らして寝室へと消えた。

 「エドガー、君は気が利く。私の孤独を理解しているのは、やはり君だけだ」

 その言葉を背中で聞きながら、私は扉を閉める。

 一人になった執務室で、私はペンを手に取り、レオンハルトの署名を模倣する練習を繰り返す。

 一画一画、筆跡をなぞるたびに、王という人間が消え、記号としての「王」が紙の上に立ち上がる。私の筆跡は、もはや彼自身のものより、力強く、迷いがない。本物よりも本物らしい偽物。

 ふと、胃のあたりに鋭い痛みを感じる。焼き付くような感覚。

 引き出しから薬を取り出し、水なしで噛み砕く。苦味と粉っぽさが喉に張り付く。

 窓の外、王都の静寂を眺める。

 あの聖女の侍女、ミラも今頃、どこかの酒場で酒の泥にまみれ、自身の悪評を積み上げているのだろうか。それが彼女の選んだ「代行」なのか。

 誰も世界を救わない。誰も真実を語らない。

 王は無能を隠し、聖女は欲望を隠し、私たちはその隠蔽工作に命を削る。

 時計の針が深夜二時を指す。

 明日もまた、六時に老執事が扉を開ける。私は、王という名の空虚な器に、威厳という名の金箔を貼り付ける作業に戻る。

 今日もまた、役割は成立してしまった。

 その事実に安堵し、絶望しながら、私は深く椅子に身を沈めた。

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