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白い翼の檻




どれくらい時間が経ったのだろう。


俺の意識がゆっくりと浮上してきた時、最初に感じたのは柔らかな感触だった。体が何か暖かいものに包まれている。


そして——光。


瞼越しに感じる、優しい光。


「……ん」


目を開けると、真っ白な天井が視界に入った。


ここは……どこだ?


体を起こそうとすると、背中に重みを感じた。翼だ。あの白い翼が、まだそこにある。


「気がついたのね」


優しい声が聞こえた。


振り向くと、白い衣装を纏った女性が立っていた。頭には看護師を示す白い帽子。そして背中には、小さな天使の羽。


「ここは……」


「セントラリア聖療院よ。天使領の中央医療施設」


女性——看護師は微笑んだ。その笑顔には、一片の曇りもない。


「あなた、森の入り口で倒れていたの。ガブリエル様が見つけてくださったのよ。よかったわ、無事で」


ガブリエル。あの、俺を見つけた天使の男か。


俺は自分の体を見下ろした。白い病衣を着せられている。そして、胸元には金色の紋章が刺繍されていた。天使領の医療施設を示す印だ。


「鏡……鏡はあるか」


「ええ、そこに」


看護師が壁際の鏡を指差した。


俺はベッドから降り、ふらつきながら鏡の前に立った。


そこに映っていたのは——間違いなく天使だった。


白く輝く翼。金色の瞳。整った顔立ち。頭上にはうっすらと光輪が浮かんでいる。


悪魔の面影は、どこにもない。


「……本当に、変わってしまったのか」


俺は自分の顔に触れた。確かに自分の顔だ。だが、どこか違う。より穏やかに、より……「純粋」に見える。


(これは……)


その時、ふと思考が閃いた。


(待てよ。これは逆にチャンスなんじゃないか?)


俺は深呼吸をした。冷静に考えるんだ。


悪魔の王子が、天使の姿で天使領にいる。これは前代未聞の状況だ。だが見方を変えれば——天使領の内部情報を、誰にも疑われずに収集できる絶好の機会ではないか。


父様は俺に期待していた。次期魔王として、優秀であることを。


ならば、この状況を利用すればいい。


天使の弱点、防衛体制、魔法の仕組み、政治構造——全てを知り、魔王領に持ち帰る。それができれば、父様はきっと喜んでくださる。


そして、元に戻る方法も、ここで見つけられるかもしれない。


「よし……」


俺は決意を固めた。


天使として生きる。それが、今の俺にできる最善の選択だ。


「あの、大丈夫? 顔色が悪いけれど」


看護師が心配そうに声をかけてきた。


「ああ、大丈夫だ。ただ……少し混乱していて」


「そうよね。倒れていた時、とても苦しそうだったもの」


看護師は優しく微笑んだ。


その笑顔を見て、俺の胸が少しだけ痛んだ。こんなに純粋な笑顔を、悪魔領で見たことがあっただろうか。


(いや、違う。これは天使の偽善だ。きっと裏があるはずだ)


俺は心の中で自分に言い聞かせた。


---


その日の午後、俺の病室に一人の男が訪れた。


ガブリエル。俺を見つけた天使だ。


「やあ、目が覚めたんだね。よかった」


彼は爽やかに笑った。金色の髪に、碧眼。典型的な天使の容姿だ。


「君のこと、心配していたんだ。あんなところで倒れているなんて」


「……助けてくれて、ありがとう」


俺は努めて礼儀正しく言った。


「いやいや、当然のことさ。それより、君の身元なんだけど」


ガブリエルの表情が少し曇った。


「調べてみたんだけど、天使領のどの記録にも君の名前が載っていないんだ。家族は? どこから来たの?」


この質問は予想していた。


俺は少し俯き、震える声で答えた。


「……覚えていないんだ。気がついたら、あの森の中にいて」


「記憶が……?」


「ところどころ欠けている。名前は……ルーク。それだけは覚えている」


本名を名乗るのは危険かもしれない。だが、完全に別の名前を名乗って、後で矛盾が生じる方が問題だ。ルークという名前は悪魔領でも天使領でも使われている一般的な名だから、これなら大丈夫なはずだ。


「ルーク……」


ガブリエルは考え込んだ。


「もしかして、君は……悪魔に襲われた村の生き残りなのかもしれない」


「悪魔に……?」


「ああ。三ヶ月前、国境近くの村が悪魔の襲撃を受けた。ほとんどの住民が犠牲になり、一部は連れ去られたと聞いている。もしかしたら君は、そこから逃げてきたのかもしれない」


ガブリエルの目に、深い同情が浮かんだ。


「辛い記憶を思い出させて、すまなかった」


「……いや」


俺は複雑な気持ちだった。


三ヶ月前の襲撃。それは確かにあった。俺も報告書で読んだ。だが、それは魔王軍の正式な作戦で、標的は天使軍の前線基地だったはずだ。村を襲ったという記録はない。


だが、ガブリエルは嘘をついているようには見えない。本当にそう信じているようだ。


(情報が歪められているのか? それとも……)


「ルーク、心配しなくていい」


ガブリエルは俺の肩に手を置いた。


「君は一人じゃない。天使領は、困っている者を決して見捨てない。家族を失った君を、私たちがサポートする」


その言葉に、俺は思わず顔を上げた。


「本当に……?」


「ああ。実は、君の状況を王宮に報告したんだ。そうしたら、王族の方が直々に君を引き取りたいとおっしゃっている」


「王族……?」


「セラフィナ様だよ。第三王女殿下。彼女は戦争孤児の保護活動に熱心で、多くの子供たちを王宮で育てている」


ガブリエルは誇らしげに言った。


「明日、お会いできることになっている。君は王宮で暮らすことになるよ」


王宮。天使領の中枢だ。


俺の心臓が高鳴った。これ以上の好条件はない。


「それは……ありがたい」


「よかった。安心した顔をしているね」


ガブリエルは満足そうに微笑んだ。


---


その夜、俺は一人で病室の窓から外を眺めていた。


天使領の夜景は、魔王領とは全く違っていた。


街全体が柔らかな光に包まれている。街灯は魔法の光で、月明かりよりも優しく、温かい。建物は白を基調とし、美しいアーチや彫刻で飾られている。


そして、空を飛ぶ天使たちの姿。


彼らは笑い、語らい、平和に暮らしている。


(綺麗だな……)


その思考が浮かんだ瞬間、俺は自分を叱った。


(違う。これは敵の領地だ。油断するな)


だが、心の奥で小さな声が囁く。


*本当に敵なのか?*


看護師の優しい笑顔。ガブリエルの親切。そして、見ず知らずの俺を引き取ろうとする王女。


魔王領で、こんな扱いを受けただろうか。


いや、俺は王子だったから特別扱いされていただけだ。一般の悪魔たちは、もっと厳しい環境で生きていた。


(でも、天使だって全員がこんなに優しいわけじゃないはずだ)


俺は頭を振った。


(これは罠かもしれない。信じるな。利用するんだ)


---


翌日、俺は王宮への馬車に乗せられた。


いや、馬車というより、魔法で浮遊する優雅な輿だ。白い布で覆われ、金色の装飾が施されている。


窓から見える天使領の街並みは、昼間もまた美しかった。


広場では子供たちが笑いながら遊んでいる。市場では商人たちが陽気に商売をしている。公園では老人たちが穏やかに語らっている。


これが……戦争をしている国の風景なのか?


魔王領では、常に戦時体制だった。訓練、会議、武器の準備。緊張が街全体を覆っていた。


だが、ここには……平和がある。


(いや、これは表面だけだ。きっと裏では……)


「到着しました」


御者の声で、俺は我に返った。


目の前に広がるのは、壮大な王宮だった。


白い大理石で作られた建造物は、太陽の光を受けて輝いている。高い塔が四方にそびえ、それぞれの頂上には巨大な天使の像が立っている。


正門の前には、金色の鎧を纏った衛兵たちが整列していた。


「ルーク様、どうぞこちらへ」


メイドが丁寧に案内してくれた。


王宮の内部は、外観以上に豪華だった。天井には美しいフレスコ画が描かれ、廊下には芸術品が並んでいる。だが、それは成金的な豪華さではなく、品格のある美しさだった。


「セラフィナ様がお待ちです」


メイドが大きな扉の前で止まり、ノックした。


「どうぞ」


中から、鈴を転がすような声が聞こえた。


扉が開くと、そこには一人の少女が立っていた。


金色の長い髪。碧眼。白いドレスに身を包み、背中には大きな翼。頭上の光輪は、他の天使よりも明るく輝いている。


だが、俺を驚かせたのは、その外見ではなかった。


彼女の笑顔だ。


それは、計算されたものでも、義務的なものでもなく——純粋に、心からの歓迎の笑顔だった。


「ようこそ、ルーク。私はセラフィナ。これから、あなたの家族よ」


彼女は両手を広げ、俺を抱きしめた。


その温もりに、俺の心臓が大きく跳ねた。


(なんだ、これは……)


温かい。優しい。そして——懐かしい。


まるで、母様に抱きしめられた時のような……。


いや、母様は俺が幼い頃に亡くなった。この感覚は、記憶にあるはずがない。


だが、確かに感じる。この安心感を。


「大丈夫よ。もう怖いことは何もない。ここは安全。あなたの家よ」


セラフィナは俺の背中を優しく撫でた。


その瞬間、俺は気づいた。


自分が泣いていることに。


なぜだ。なぜ涙が出る。


俺は敵の領地にいるんだ。スパイとして潜入したんだ。


なのに、なぜ——こんなにも、安心してしまうんだ。


「よしよし。泣いていいのよ。辛かったでしょう」


セラフィナの声が、俺の心に染み込んでくる。


(ダメだ。流されるな)


俺は必死に自分に言い聞かせた。


(これは任務だ。父様のためだ。魔王領のためだ)


だが、心の奥で、小さな亀裂が入り始めていた。


(天使は敵だ。悪だ。偽善者だ)


そう思おうとする。


だが、この温もりは——本物だ。


---


その日から、俺は王宮での生活を始めた。


与えられた部屋は、広くて豪華だった。魔王城の俺の部屋よりも、明るく、温かい雰囲気がある。


窓からは王宮の庭が見える。色とりどりの花が咲き、噴水が優雅に水を吹き上げている。


「夕食の時間です、ルーク様」


メイドが部屋に入ってきた。


「ああ、わかった」


俺は鏡の前に立ち、服装を整えた。


白いシャツに金色の装飾が施されたベスト。天使領の正装だ。


鏡に映る自分は、完全に天使だった。


(これが……俺なのか)


食堂に向かうと、そこには長いテーブルがあり、セラフィナが座っていた。


「ルーク、こちらに座って」


彼女は俺の隣の席を示した。


テーブルには豪華な料理が並んでいる。だが、魔王領の料理とは全く違う。


魔王領の料理は、肉が中心で、濃い味付けだった。力を得るための食事。


だが、ここの料理は……美しい。


野菜と果物がふんだんに使われ、色彩豊か。盛り付けも芸術的だ。


「さあ、召し上がれ」


セラフィナが微笑んだ。


俺はフォークを手に取り、一口食べた。


「……美味い」


思わず声が漏れた。


繊細で、優しい味。素材の味を活かしながら、絶妙に調和している。


「気に入ってもらえて嬉しいわ」


セラフィナは満足そうに笑った。


「ルーク、これからのことだけど」


「……はい」


「あなたには、王立学院に通ってもらおうと思っているの」


「学院……?」


「ええ。天使としての基礎を学ぶ場所よ。魔法の使い方、歴史、文化。それに……」


セラフィナは少し真剣な表情になった。


「悪魔との戦い方も」


その言葉に、俺の胸が締め付けられた。


「私たちは、愛と平和を愛する種族。でも、悪魔たちは私たちを憎み、攻撃してくる。だから、自分を守る術を学ばなければならないの」


セラフィナの目には、悲しみが浮かんでいた。


「本当は、戦いたくない。でも……家族を守るためには、戦わなければならない時もある」


(家族を守るため……)


その言葉は、父様が言っていたことと同じだった。


*我々は家族を守るために戦う*


天使も、悪魔も、同じことを言っている。


「ルーク、大丈夫? 顔色が悪いわ」


「……いえ、何でもありません」


俺は笑顔を作った。


(そうだ。笑顔を作るんだ。天使らしく)


だが、その笑顔の裏で、俺の心は激しく揺れていた。


---


その夜、ベッドに横になりながら、俺は天井を見つめていた。


天使領での最初の一日が終わった。


看護師の優しさ。ガブリエルの親切。セラフィナの温かさ。


全てが、俺の予想と違っていた。


天使は冷酷で、計算高く、偽善的だと思っていた。


だが、彼らは……本当に優しかった。


(でも、これは罠かもしれない)


俺は自分に言い聞かせる。


(最初だけだ。きっとそのうち本性を現す)


だが、心の奥の声が囁く。


*もしかしたら、これが本当の彼らの姿なのでは?*


「……ダメだ」


俺は小声で呟いた。


「俺は悪魔だ。魔王の息子だ。天使に心を許してはいけない」


だが、その決意は、日に日に弱くなっていくような気がした。


窓の外から、月明かりが差し込んでくる。


天使領の月は、魔王領よりも明るく見えた。


(父様……ハク……)


遠い故郷を思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。


明日からが、本当の戦いだ。


天使として生きながら、悪魔としての心を保つ——。


それが、俺に課せられた使命。


だが、それがどれほど困難なことか、この時の俺はまだ知らなかった。

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