『三十四歳、同じ教室の別々の恋』Part.1
第一章|欠席番号17
― 不登校/両片思い ―
黒板の左端、出席番号順に並んだ席。
十七番は、いつも空いていた。
理由は知らない。クラスメイトの誰も、はっきりとは言わなかった。
「体調が悪いらしい」
「家の事情らしい」
そんな曖昧な噂だけが、日替わりで流れていた。
私は、十六番だった。だから毎朝、彼の机の横を通って自分の席に着いた。
新品のままの教科書。
名前が書かれた机。
時間だけが置き去りにされた場所。話したことは、ほとんどない。それでも、なぜか目に入った。
入学してしばらくは、彼はちゃんと学校に来ていた。
大人しくて、目立たなくて、
でも笑うと、少し安心する顔をしていた。
私が彼を好きだと自覚したのは、彼が来なくなってからだった。
「今日も来てないね」
誰かが何気なく言うたびに、胸の奥が、ほんの少し痛んだ。声をかければよかった。連絡先を聞けばよかった。でも私は、何もしていない自分が傷つくのが怖かった。
時間は流れて、卒業した。
彼の名前は、卒業アルバムの集合写真には写っていない。
そして三十四歳の同窓会。
ホテルの会場で、懐かしい名前が呼ばれる中、聞き覚えのある声が、少し後ろから聞こえた。
「……久しぶり」
振り返ると、彼はそこにいた。
背は少し伸びて、表情は穏やかで、でも、あの頃と同じ静けさをまとっていた。
「来てたんだ」
それしか言えなかった自分が、情けなかった。
「欠席番号、ずっと空いてたでしょ」
彼は冗談みたいに言った。
「行けなくなってからも、毎朝、同じ時間に目は覚めてた」
私は、胸が詰まった。
「……私ね」
言葉が震える。
「ずっと気になってた。でも、何もできなかった」
彼は少し驚いた顔をして、
それから、困ったように笑った。
「俺もだよ」
一瞬、時間が止まった。
「君が隣の席だったから、行けなくなってからも、学校のこと、完全には嫌いになれなかった」
両片思い。でも、それはもう過去の言葉だ。
連絡先は交換した。
でも、頻繁に会うことはないだろう。それでいい。あの席が空いていた理由を、ようやく知れただけで、十分だった。
両片思いは、報われなくても、無意味ではなかったと、三十四歳の私は思える。
第二章|進路希望欄
― 受験/嫉妬 ―
進路希望調査票は、何度書き直しても同じ名前に戻った。第一志望の大学。
それは、彼と同じ場所だった。高三の夏、私たちは付き合っていた。
「一緒の大学、受けようと思ってる」
そう言った私に、彼は一瞬だけ、言葉を探すような顔をした。
「……俺、別のところにした」
理由は立派だった。学びたい分野。将来のこと。全部、正しかった。
それでも私は、その“正しさ”を受け入れられなかった。
「応援するよ」
そう言いながら、胸の奥では、置いていかれる自分の姿ばかり想像していた。勉強机に向かっても、問題集より先に、彼の未来が浮かぶ。
合格発表の日。私たちは、別々の場所にいた。
連絡は取った。でも、喜び合う温度が違った。
そこから、少しずつ会話は減った。
嫌いになったわけじゃない。ただ、彼の夢がまぶしすぎただけだった。
同窓会のテーブルで、彼はグラスを持ちながら言った。
「俺さ、あのとき君が怒ってるって、気づかなかった」
私は苦笑する。
「怒ってたんじゃない。怖かっただけ」
三十四歳になって、ようやく言葉にできた本音だった。
「嫉妬してた」
彼は、少し驚いた顔をした。
「君の未来が、私のいない場所にある気がして」
沈黙のあと、彼は静かにうなずいた。
「それ、分かる気がする」
もう、恋人じゃない。でも、過去を否定する必要もない。
進路希望調査票は、今はもう残っていない。
それでも、あの欄に書いた名前は、確かに私の青春だった。嫉妬は、愛が浅かった証拠じゃない。未来を一緒に描こうとした、必死さの痕跡だったのだ。
第三章|同じ顔、違う答え
― 双子姉弟/三角関係 ―
最初に好きになったのは、弟のほうだった。
名前を呼ばなくても振り向くところ。考え込むときに、指先で机を叩く癖。双子だと聞いても、私は迷わなかった。
でも、彼の隣には、いつも姉がいた。
同じ顔。同じ声。
でも、空気はまるで違った。
姉ははっきりしていて、意見を言う人だった。弟は、その後ろで黙ってうなずく。
「姉ちゃんが先に言ったから」
彼はよく、そう言った。
告白はしなかった。理由は単純だ。彼が選ばない人だと、薄々分かっていたから。
三角関係と呼ぶには、あまりにも静かな関係だった。卒業して、彼は姉と同じ進路を選んだ。私は、別の道に進んだ。
それから何年も経って、三十四歳の同窓会。
「久しぶり」
声をかけてきたのは、弟のほうだった。
「……元気?」
彼は少し間を置いて言った。
「俺さ、ずっと選ばなかったよね」
胸が、少しだけ痛んだ。
「選ばなかったんじゃない。選べなかったんでしょ」
私の言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。
「姉ちゃんが悪いわけじゃない。双子って、選ぶと壊れる気がしてた」
私は、ようやく理解した。
彼は、私と姉のどちらも失いたくなくて、結果として、誰も選ばなかったのだ。
「好きだったよ」
彼は、初めてそう言った。
それは告白じゃない。過去の整理だった。私はうなずいた。
「知ってた」
不思議と、悔しさはなかった。
三角関係に勝者はいない。あるのは、選ばれなかった理由だけだ。同じ顔でも、違う人生を生きる。それを受け入れたとき、この恋は、ようやく終わった。
第四章|音を合わせすぎた二人
― 部内恋愛/醜愛 ―
吹奏楽部の部室は、いつも少し息苦しかった。音を揃える場所なのに、感情まで揃えなければならない気がして。
彼と付き合い始めたのは、パート練習が増えた頃だった。
「一緒にいる時間が長いからだよ」
そう言われれば、それまでだった。でも私は、音よりも彼の反応を気にする自分に気づいていた。
彼が誰と話すか。誰の音を褒めるか。視線がどこに向くか。
本番が近づくほど、私の余裕は削られていった。
「今日、私の音どうだった?」
返事が少しでも曖昧だと、胸の奥がざらついた。好きだから不安になる。そう言い訳しながら、私は彼の世界を狭くしていた。
本番前日、小さな言い争いが起きた。
「音楽の話をしてるのに、恋愛の顔を持ち込まないでくれ」
彼のその一言で、自分が何をしていたのか、はっきり見えた。
好きだった。でもそれ以上に、奪われることが怖かった。
本番は成功した。
でも、私たちはそのあと別れた。
誰にも言わなかった。部活を壊したくなかったから。三十四歳の同窓会で、彼はグラスを持って言った。
「あのとき、ちゃんと音楽を好きでいられた?」
私は少し考えてから答えた。
「……正直に言うと、あなただけを聴いてた」
彼は苦笑した。
「俺もだよ」
それが、私たちの醜さだった。
でも、それを認められた今は、もう誰も責めていない。音を合わせすぎた二人は、ようやく別々のリズムで生きている。
今はもうそれでいい。それがいい。それが2人のためだったのだから。もう少し早くこうしておけばよかったのかもしれなかった。




