潮鳴
今年も、あの浜にやってきた。
潮風が肌を撫で、波の音が絶え間なく打ち寄せる。
家族連れの笑い声。焼きそばの匂い。眩しい陽射し。
だが、この海には、「音」がある。
誰も耳を傾けない、小さく、不気味な音——“潮鳴”と呼ばれるものが。
私がその音を最初に聞いたのは、中学生の夏だった。
海水浴場の一角に、地元の人も近寄らない「立入禁止区域」があった。
柵も標識もない。ただ、妙に水が冷たく、深く、音を呑んでしまうような海域。
その波打ち際で、私は「潮鳴」を聞いた。
――こっち、きて。
小さな子供の声。まるで耳元で囁くように。
私はその声に導かれ、無意識のうちに腰まで海に浸かっていた。
ふと我に返ると、視界がぐにゃりと歪み、足元の砂が蠢いていた。
引き波ではなかった。
誰かが、足首を掴んでいた。
そのとき、兄が私を引き上げてくれた。
誰も信じてくれなかった。
「水に酔っただけだよ」「気のせいさ」
けれど私はあの手の感触と、耳に残る囁きを忘れられなかった。
そして十年後、兄が戻らぬ人となった。
海水浴中に溺れたという。
しかも、あの場所で。
兄は泳ぎが得意だった。
浅瀬で姿を消し、遺体は三日後、まったく別の入り江で見つかった。
顔は水に浸かりすぎて判別できなかったが、手には私の名を彫ったペンダントを握っていた。
なぜ私の名を?
それ以来、毎年、私はこの浜に戻ってきている。
兄が死んだ場所を見つめるために。
そして今日、再び“それ”は聞こえた。
――きょうは、きてくれるの?
耳元で濡れた声がささやく。
周囲を見渡しても、誰もこちらを気に留めていない。
私は波打ち際まで歩き出した。
ざぶ……ざぶ……水は異様に冷たく、足首から膝、そして腰まで濡れていく。
そのとき、波間に何かが浮かび上がった。
それは、小さな男の子だった。
目を開け、口元だけで笑っていた。
肌は青白く、ところどころが海草に覆われていた。
私は逃げようとしたが、腰が抜けたように動けなかった。
少年は口を開いた。
泡のような声が漏れる。
「おにいちゃんが、まってるよ」
瞬間、私は海の底に引き込まれた。
視界が青に染まり、泡と砂が舞う。
耳元で囁く声が、幾重にも重なった。
「もっとたくさん」「もっとにんげん」「ここへ」「こっちへ」
海の底に、無数の顔があった。
どれも、目を開けたまま沈んでいる。
叫びたいのに声が出ない。
そのとき、誰かが私の手を掴んだ。兄だった。
「逃げろ、なつき」
兄の口が動く。
その顔は、死の直前のまま腐り、海水に染まっていた。
兄は自らの身体を食い破り、私の手を放った。
そこから現れた無数の腕が兄を引きずり、奥へと消えていった。
気づくと、私は浜辺に打ち上げられていた。
全身びしょ濡れで、両手は切り傷だらけだった。
だが、誰も私が溺れていたことに気づいていない。
私を見つめるのは、遠くで遊ぶ子供たちと、海の波だけ。
そして今、私は気づいている。
兄が私を突き放した理由を。
「ここから逃げろ」と言ってくれた意味を。
この浜には、“何か”がいる。
生者の記憶をなぞり、耳元で囁く“声”。
それは、一人一人の心の奥に潜む哀しみに染みこみ、呼びかけてくる。
そして今日も、あの「潮鳴」が聞こえる。
――つぎは、だれ?