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静かな余韻

 その夜、春川陽真は自室の机に向かっていた。


 開いたノートの上には、使い慣れたペン。

 けれど、まだ一文字も書き始めることができずにいた。


 ペン先を紙の上に落としかけて、ふと、昼休みの光景が脳裏に浮かぶ。


 中庭のベンチ。

 少しだけ風の強い、初夏の昼下がり。


 みつばは、笑顔を作ろうとして、うまく作れなかった。

 そして、ぽつりとこぼした。


「たまにね、すごく、何もかも怖くなるときがあるの」


 あの時、陽真は何も言えなかった。


 言葉をかけるべきか、何を返すべきか、迷った。

 けれど、結局、ただ隣に座っていることしかできなかった。


 みつばは、たった一言「ありがとう」とだけ言ってくれたけれど。

 本当は、陽真のほうこそ、何もできなかったことを、少しだけ悔しく思っていた。


 怖さを隠して、それでも前を向こうとする彼女を。

 ただ、そっと見守ることしかできない自分を。


 ペン先で、そっとノートの端をなぞる。


(……それでも)


 あのときみつばが見せた、かすかな震え。

 けれど、ちゃんと自分の言葉で「怖い」と言えた勇気。


 それはきっと、誰かにちゃんと届いてほしいと願った証だった。


 陽真は、ペンを持ち直す。


 次のページに、小さな文字で一行だけ書き始めた。


【君の声が、怖がらずに息をできる場所を、そっと探してあげたい】


 書き終えたあと、ペンを置き、そっとノートを閉じる。


 それだけのことで、ほんの少しだけ、胸の奥のざわめきが落ち着いた気がした。


 窓の外には、夜風。

 遠くの街灯がぼんやりと滲んでいる。


 陽真は、静かな夜の中で、もう一度だけ、あの昼休みの空気を思い出していた。


(また、明日)


 誰にも聞かれることのない、小さな約束を心の中でそっと結びながら。


夜。


狭いワンルームの一角、PCモニターが柔らかな光を放つ。


みつばは、防音カーテンを閉めた空間に一人座り、マイクに向かっていた。


今日は、いつもより少しだけ、声が柔らかい気がする。


「……こんばんは。ミスティだよ」


小さく笑いながら、画面越しのリスナーに手を振る。

コメント欄が一斉に華やぐ。


『待ってた!』

『今日も来たよ~!』

『ミスティちゃん、お疲れさま!』


いつもの、優しい夜。

いつもの、あたたかい場所。


コメントを読みながら、ふと、胸の奥に昼間の感触が蘇る。


春川陽真。

昼休み、あのベンチで隣に座ってくれた彼のことを。


あのとき、みつばは「怖くなる」と、ぽつりと漏らした。

陽真は、何も聞かず、何も詮索せず、ただ隣にいてくれた。


無理に笑わせようともしない。

励まそうともしない。


ただ、そこにいるだけで、温かかった。


その沈黙が、どれだけ心を救ってくれたか――みつばは、また思い出していた。


配信が中盤に差し掛かったころ、リスナーから、ふとこんなコメントが届く。


『今日、いいことあった?』


みつばは、一瞬だけ手を止めた。


画面の向こうでは、たくさんのリスナーが、

笑顔で、冗談交じりに、時には真剣に、

「いいこと探し」をしている。


その輪の中に、今夜は、自分もそっと加わりたくなった。


マイクにそっと近づき、みつばは微笑む。


「……うん。今日ね、ちょっとだけ、嬉しいことがあったんだ」


声は、ひときわ静かだった。


「誰かに、……ちゃんと『聞いてもらえた』って思える瞬間があって」


リスナーからのコメントが、優しく流れる。


『それ、すごく素敵だね』

『わかる、話すだけで救われるときってある』

『ミスティちゃん、無理しないでね』


みつばは、そっと笑った。


「……ありがと。今日も、ここにいてくれて」


マイクに向かってそう呟くと、コメント欄がさらにあたたかい言葉でいっぱいになった。


『こちらこそ!』

『ミスティの声に、今日も救われたよ』

『これからも、応援してる!』


配信が終わったあと。

ヘッドホンを外し、天井を見上げる。


小さく、息を吐く。


ちゃんと、届いてる。


今日だけじゃない。

これまでの一日一日が、ちゃんと繋がって、誰かの中に残っている。


そして、自分自身の中にも。


机の端には、閉じられた一冊のノート。


その表紙を、指先でそっとなぞる。


ノートの隅には、小さな文字で、陽真からもらった言葉が書き留められていた。


【話したいときは、ちゃんと聞くから。無理は、しなくていい】


短くて、不器用で、だけど。

みつばにとっては、それだけで十分だった。


また、少しだけ、頑張れる。


みつばは、そっと目を閉じた。


静かな夜に、まだ言葉にならないありがとうを、心の中でそっと伝えながら。


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