本当の声
その夜、陽真は部屋の明かりを少し落とし、パソコンの前に座っていた。
時計の針は、二十一時を少し前に指している。
ミスティの配信が始まる時間だ。
モニターの前で、陽真はゆっくりと配信ページを開いた。
すでにコメント欄は多くの視聴者で溢れ返っている。
『今夜もミスティ待機!』
『“選ぶということ”ってテーマ深くね?』
『最近ミステイク多すぎ!絶対作者と繋がってんだろ』
『そろそろステマとかじゃ済まんレベル』
『これってミスティの中の人が最高裁番長説あるぞ』
陽真は、呼吸をひとつ整えるように画面を見つめた。
「今日も、配信してくれてありがとう」
“最高裁番長”の名前と三千円のスーパーチャットを添えて。
(……癖で名前、変え忘れた)
けれど、そのコメントは一瞬で他の文字に埋もれていった。
それでも胸の奥に、微かな焦燥が残る。
数秒後、画面が切り替わる。
配信が、始まった。
ミスティが映し出される。
ふわりと揺れる水色の髪。柔らかく光を帯びた瞳。
けれど今夜の声は、いつもより少しだけ低く、震えているように聞こえた。
『こんばんは、ミスティです。今日も来てくれてありがとう』
一礼するように小さく頭を下げたあと、彼女は一度だけ目を伏せた。
『今日はね、ちょっとだけ、真面目な話をしてもいいかな?』
コメントがざわつく。
『どしたの?』
『しんみりミスティ!?』
『こういう回も好き』
『“選ぶ”って、実はずっと私の中で難しいテーマで……』
彼女は、ぽつりぽつりと語り出した。
『キャラをどう保つかとか、どんな言葉を使うかとか。
配信で何を話すか。誰かの言葉を借りていいのか……ずっと悩んでたの。』
陽真は、そのたびに喉の奥がかすかに詰まるのを感じた。
『でも、最近ある小説に出会って――“ミステイク”っていうんだけどね』
陽真の手が、マウスを握る力を少し強めた。
『その小説の中に、“選ばなきゃ進めない”ってセリフがあって……なんだか、すごく救われた気がしたんだ』
コメント欄が爆発する。
『やっぱミステイク引用してたんか!』
『最高裁番長のやつマジで好きなんだな』
『もうこれ、コラボの域じゃね?』
『てか最近過剰に引用しすぎじゃない? ステマに見えるんだが』
コメントの一部には、棘のある言葉も混じっていた。
それでも、ミスティはそのまま画面を見つめて、やさしく言った。
『私は、その作家さんを直接は知らない。……でも、言葉が私を支えてくれた。
だから、もしこの言葉が誰かに届いていたら、嬉しいなって思ってる』
その瞬間だった。
彼女がふと、カメラの向こう――誰かを見つけるような視線を向けた。
何気ない動きに見えて、陽真にはそれが“目が合った”ように思えた。
胸がどくん、と大きく鳴る。
陽真は、画面にコメントを打ち込んだ。
「選ぶって、怖い。でも……誰かに届いたなら、それでいいのかもしれない」
すぐに流されてしまうそれは、誰の目にも留まらないように思えた。
けれど――その直後。
ミスティが、ゆっくりと目を細めて、小さく微笑んだ。
『……うん。そういう気持ち、すごくわかるよ』
たった一言。
けれど、それがまるで返事のように聞こえてしまった。
配信が終わったあとも、陽真はしばらくモニターを見つめていた。
映像は切れ、コメント欄も消え、部屋には静寂が戻っている。
けれど、心の中だけはずっとざわめいたままだった。
そのとき、不意にひとつの言葉が思い出された。
――「春川くんって、言葉を大事にしそうだよね」
みつばが、前に言ってくれた言葉だった。
それを聞いたとき、自分では気づかなかった何かが、
今、ミスティの言葉と静かに重なっていく。
(……なんで、あのときのこと、今思い出したんだろう)
胸の奥に、混じり合うふたつの声。
誰かに気づかれたくないはずだった。
けれど、どこかで――ほんの少しだけ、気づいてほしいと願っている自分がいた。
キーボードには触れなかった。
ただ、光の落ちる画面の中で、陽真はそっと目を閉じた。
返事はなかった。
でも確かに、言葉はどこかに届いていた。
それだけは、信じてもいい気がしていた。