噂は静かに広がって
翌朝、陽真は学校に着いた瞬間から、どこかざわざわした空気を感じていた。
誰かが騒いでいるわけでも、何か事件があったわけでもない。
けれど、視線がチラチラと交差しているのが分かる。
教室に入ると、真っ先に話しかけてきたのは東雲拓海だった。
「なあ、春川。掲示板、見たか?」
「……掲示板?」
「ほら、例の“最高裁番長考察スレ”。今朝、ちょっとやばい書き込みがあってさ」
陽真は心臓がひとつ跳ねた気がした。
「なんて書いてあったの?」
「昨日のミスティの配信で引用された台詞、ほぼ全文“ミステイク”のやつだったんだよ」
「……ああ、それは……」
「でさ、そっから“最高裁番長=ミスティと繋がってる”説が再浮上したの。
なんなら“同じ学校にいる説”とか、“春川ってやつが怪しい”って名前まで出てたぜ?」
陽真は固まった。
「俺、名前……出てた?」
「いや、フルネームじゃない。“春ってつくやつ”って感じ。でも一応、根拠っぽいのも書かれてて……」
「どんな?」
「“最近、学園内の図書室に『ミステイク感想ノート』が置かれた。
それを書いた生徒が作者本人か、関係者の可能性がある”って」
(……たしかに、俺が感想書いたっちゃ書いたけど)
誰が、どこで、何を見ていたのか。
教室のざわめきが、いつもより少しだけ耳に刺さる。
(誰かが、俺を見てた? いつ?)
胸の奥に、ぞくりとした寒気が走った。
朝のホームルームが始まり、席に着いた陽真の隣に、みつばが現れた。
「おはよ、春川くん」
「……おはよう」
彼女はいつも通りに明るく、いつも通りに美しい。
艶のある髪をさらりと流し、制服のリボンを軽く結び直しながら、にこりと笑う。
「ね、朝からネット見た? ちょっとした騒ぎになってたよね、“最高裁番長”の件」
「……見たけど、ああいうのって憶測ばっかりだし」
「うん、まぁね。でも、もしほんとにこの学校にいたら……すごくない?」
(……まただ。声のどこかが、妙に引っかかる)
「……すごい、ね」
陽真は視線を落とした。
自分が“すごい”と言われるのは、嬉しい。
けれど、それが“自分”だと気づかれるのは、怖い。
(どうしてこんなに矛盾してるんだろう)
昼休み。
数人の女子が廊下の掲示板前で話しているのが耳に入った。
「“選ばなければ進めない”って、あの小説の一節らしいよ」
「ミスティの配信でよく使ってるよね? やっぱ作者と関係あるのかな?」
「でも、誰が書いたのかって、本当に誰も知らないんだよね。謎すぎる」
(バレたくない。けど、俺の言葉をこんなに広く共有してくれてるなんて……)
遠くからでも、自分の言葉が広がっていくのを感じる。
そのことが、誇らしくもあり、どうしようもなく怖かった。
放課後。
陽真はこっそり図書室に立ち寄った。
昨日書いた感想のページが、もう新しい書き込みでいっぱいになっていた。
『このセリフ、最近の配信で聞いた気がする。偶然?』
『どっちも好きだけど、繋がってたらすごい!』
『“最高裁番長”って、なんでこんな言葉選び上手なの……』
(届けって思って書いた。でも、こんな風に広がるなんて思ってなかった)
自分の書いた言葉が、誰かの心の中で、知らないうちに生きている。
その奇跡が、胸を締めつける。
陽真は、書きかけのノートをそっと閉じて席を立った。
帰り道。
校門を抜けたあたりで、スマホに通知が届いた。
ミスティの新しい配信予定が更新されたらしい。
タイトルは、こうだった。
『“選ぶということ”について、少しだけお話しします』
(……まさか)
陽真は思わず立ち止まり、スマホの画面を凝視した。
そのタイトルに、自分の言葉が透けて見えた気がして。
まるで――メッセージのように感じた。
(気づかれたかもしれない)
《彼女が今度どんな言葉を選ぶのか、それが少しだけ、怖かった――。》
だがそれでも、彼女は配信をする。
あの言葉を選び、あのテーマを掲げて。
(じゃあ、俺は……)
足元の影が、ゆっくりと伸びていく。
沈む夕日に照らされながら、陽真の胸の中にも、ひとつの問いが浮かんでいた。
(俺は、このまま隠れたままでいいのか?)
そう考えた瞬間――
ポケットの中のスマホが、ふと重く感じられた。
(……それでも、伝えたい。もう一度、俺の言葉で)
その夜、陽真はパソコンの前に座り、そっと指を伸ばした。
静かに開いた執筆画面には、カーソルが瞬いている。
隠れたままで届くなら、それでもいい。
でも、もし――
自分自身の声で伝えられるなら。
陽真はひとつ息を吸って、
再びキーボードを叩き始めた。