揺れはじめた日常の中で
翌朝、教室に入った陽真は、どこか落ち着かない感覚を覚えていた。
席についてすぐ、ペンケースの中に目をやる。
昨日、みつばから返してもらった万年筆が、そこにある。
キャップの端の小さな傷も、インクのにじみも、見慣れたそれなのに、少しだけ――重たく感じた。
(……何か、変わったのかもしれない)
昨日の帰り道。
ほんの少し触れた指先の温度と、言葉の端の柔らかさが、心の奥に残っている。
始業前のざわついた教室。
ちらりと視線を感じて、顔を上げると、何人かの女子がこちらを見ていた。
ひそひそと声を交わしながら、小さく笑い合っている。
「おはよ、春川くん」
聞き慣れた声に振り向くと、南條美佳が教室の後ろから歩いてきていた。
緩やかな笑みを浮かべながら、陽真の机の横に立つ。
「昨日、ちょっと見ちゃった。……みつばと一緒に帰ってたでしょ?」
「……ああ」
「へぇー。ふふ、意外。春川くんって、そういうの避けそうなタイプだと思ってたけど」
「そんなつもりじゃ……」
「うん、わかってる。でも、誰かと一緒に帰るだけで、周りってちょっと騒ぐんだよね」
美佳の声には、からかいの色はなかった。
むしろ、ほんの少しだけ――何かを探るようなまなざしを感じた。
「……でも、いいと思う。
前はちょっと遠くにいる感じだったけど、今の春川くんって、ちゃんと“輪の中”にいる気がするから」
そう言って、美佳はいつものようにふわりと笑い、席へ戻っていった。
チャイムが鳴る頃、みつばが教室に入ってきた。
陽真の隣に腰を下ろし、何気なく机を開く。
「おはよ、陽真」
「……おはよう」
みつばは何も言わなかった。
けれど、昨日の帰り道のことが、ちゃんと二人の間に残っているのを、陽真は感じていた。
何かが変わり始めた。
でもそれが、前に進んでいるのか、どこかをすれ違っているのかは、まだわからなかった。
昼休み。
購買から戻ってきた陽真が教室に戻ると、真鍋怜央が近づいてきた。
「なあなあ、春川。昨日のあれ、マジなの?」
「……あれ?」
「みつばと一緒に帰ってたってやつ。お前ら、いつの間に仲良くなってんの?」
「別に、仲良くってわけじゃ……」
「いやいや、もう完全に“お付き合いモード”だったって。見たやつもいるし、今朝から噂になってるぞ?」
怜央は悪びれる様子もなく、興味津々といった顔で話してくる。
陽真は黙って席に戻った。
噂という言葉が、こんなに重たく響いたのは初めてだった。
そのとき、隣の席のみつばがふと顔を向ける。
笑っていないけれど、怒ってもいない。
ただ、視線の奥に、かすかに揺れるものがあった。
何かを言いかけて、やめるように、みつばはまた前を向いた。
(……ちゃんと、向き合わなきゃいけないのかもしれない)
言葉じゃない何かが、確かに伝わってくる気がした。
気づかないふりも、立ち止まることも、もう許されない気がした。
放課後。
陽真が廊下に出ると、目の前を通り過ぎたのは――藤井美咲だった。
彼女は気づいたふうにこちらを振り返り、小さく笑ってから立ち止まる。
「春川くん、ちょっとだけ時間ある?」
その声は、どこか少しだけ――昨日より踏み込んでいた。




