気づいてしまった、名前のない想い
美咲の言葉は、やわらかく、けれど鋭く心の奥に刺さってきた。
“春川くんって、言葉を大事にする人なんだね。……そこが、いちばん似てた”
陽真は、ノートの角を指先でなぞりながら、答えを探していた。
“最高裁番長”という名前を、彼女が知っている。
その文体に似ていると感じている。
あのノートを通して、自分の“どこか”に触れてしまった。
否定するべきなのか。
それとも、少しだけ……このままでもいいのか。
何も答えないまま時間が過ぎるのが、どこか怖かった。
「……誰にも、見せるつもりなかったんだ。あのノート」
それは、遠回しな肯定だったかもしれない。
あるいは、逃げ道を残した言い訳。
でも、美咲は、その言葉だけで何かを受け取ったように、小さく頷いた。
「……そっか。ありがとう。……聞かせてくれて」
微笑むその顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「じゃあ、今日はこれで。ごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん、大丈夫」
「……また、話せたらいいな」
そう言って、美咲はゆっくり立ち上がり、扉の前で振り返った。
「春川くんの言葉、私、すごく好きだよ」
その言葉が、まるで告白のように聞こえて、でも返せなかったのは――本当に好きなのが誰か、まだ答えが出せなかったから。
そう残して、彼女は視聴覚室を出ていった。
静まり返った室内に、陽真はひとり取り残された。
言葉を“好き”だと言われること。
それは、何より嬉しくて、でもどこかで息苦しくなる。
“自分”じゃなく、“書いたもの”に触れられる感覚。
けれど、それがいちばん本当の自分に近いという矛盾。
彼女が見たのは、どこまでが“自分”なんだろう。
──廊下を歩く足音。
扉の向こうで、美咲が去っていく気配。
「……やっぱ、バレかけてるな」
ポツリと漏らした言葉に、誰も返事はしない。
一方、昇降口では――。
「陽真!」
みつばが駆け寄ってくる。制服の裾が軽やかに揺れていた。
「いた……! ちょっとだけ、いい?」
「みつば……! どうしたの?」
陽真が問いかけると、みつばは少しだけ息を整えたあと、まっすぐに目を見た。
「今日さ、帰り……途中まで、一緒に歩いてもいい?」
「……もちろん」
彼女はふわっと笑って、先に歩き出す。
その背中を見ながら、陽真も一歩、足を踏み出した。
校門を抜けて少しした頃、みつばが制服のポケットに手を入れた。
「……あのさ、これ。教室で忘れてたでしょ」
差し出されたのは、見覚えのある万年筆だった。
「さっき、戻ったときに気づいてさ。……陽真、いつもこれで書いてるよね?」
陽真は、万年筆を受け取りながら、目を丸くする。
「……あ、これ……気づかなかった」
「ふふ、気づく前に返せてよかった。春川くん、大事にしてるの、見てたから」
みつばの声は軽やかだったけれど、陽真の胸の奥には、どこか優しい温度が残った。
並んで歩く帰り道。
制服の袖が少しだけ揺れて、陽真の手の甲に、かすかに触れる。
みつばは何も言わなかった。
でも、その沈黙の中には、いつもと違う温度があった。
「……ねえ、陽真」
「うん?」
「最近、いろんな人が陽真のこと見てる気がする。前はそんなの、なかったのに」
「……そうかな」
「うん。でも、私……そういうの、ちょっとヤだな」
足を止めることもなく、みつばはぽつりと言う。
「ちゃんと隣にいたいの、わたし」
その声は、誰にも聞かれないように。
でも、隣にいる“ひとりだけ”に届くように。
返す言葉が見つからなかった。でも、手のひらがほんの少し、みつばの方向へと伸びそうになっていた。
陽真は言葉を失ったまま、ただ歩き続けるしかなかった。
気づいてしまった。
誰かに向けられる視線の意味も。
隣にいる誰かの“想い”も。
そして、自分の中に芽生えつつある――名前のない感情も。




