その距離を、超えたくて
──制服を脱いで、自室の椅子に座ったときだった。
藤井美咲の頭の中には、あの放課後に拾ったノートの一文が、ふと浮かんでいた。
『誰にも言わなくていい。ただそばにいたいと思うことは、逃げじゃなくて願いなんだ。』
ほんの数行。偶然、目に入っただけ。
けれど、どうしてだろう――胸の奥が、じんと熱を帯びたままだった。
その言葉の“温度”に、見覚えがあった。
いや、聞き覚え、かもしれない。
(……この感覚、知ってる)
スマホを手に取り、思わず検索ワードを入力しそうになる。
けれど、すぐにやめた。
名前を出すのが、どこか怖かった。
“最高裁番長”
Webで不定期に小説を投稿する、謎めいた書き手。
美咲が密かに大好きな、誰にも教えたことのない推し作家。
言葉の間、リズム、匂いのようなもの。
あのノートに綴られていた文章は、あの人の“それ”にあまりにも似ていた。
(……まさか、ね。でも)
気づいてしまった時点で、意識せずにはいられなかった。
翌日、美咲は覚悟を決めて声をかけた。
ただ“気になる”じゃ、片付けられない。
それが何かを確かめたくて――
放課後の視聴覚室。
カーテン越しに差し込む夕陽が、机の縁を淡く照らしている。
扉を静かに閉めたあと、美咲は陽真の隣に立っていた。
「ほんとに、誰もいないんだね……」
「文化祭終わったから、ここ使う理由もあんまりなくなったしね」
「そうだよね。だから、ちょっと静かで落ち着くかなって思って。春川くんと、少しだけ話してみたくて」
美咲はプロジェクター前の椅子にそっと腰を下ろした。
視聴覚室には、教室にはない静けさがあった。
「ねえ、ノート……あの時の、覚えてる?」
「……うん」
「ちょっとだけ読んじゃって、ごめん。でも、すごかったの」
「たいしたことじゃない。ただの、メモみたいなものだから」
「ううん、違う」
その声には、真剣さがにじんでいた。
「“この人、こんなこと考えてたんだ”って……読んでて、息が止まりそうになった。
なんていうか……すごく、聞き覚えのある言葉のリズムで。文章の間とか、雰囲気とか」
陽真の手が、手元のノートをそっと撫でる。
美咲は迷いながらも、口を開いた。
「……あのね、私、昔からネットで小説読むの好きで。ずっと追いかけてる書き手さんがいるの。
“最高裁番長”っていう名前で、たまに投稿する人なんだけど」
陽真の手が、わずかに止まった。
「……そうなんだ」
「うん。たぶん知ってる人は少ないけど、文章の空気がね、なんていうか……似てたの。春川くんのノートと」
美咲は顔を伏せ、ほんの少し笑った。
「まさか、そんな偶然ないって思ったけど……気になっちゃって。どうしても、もうちょっと知りたくなったんだ」
「春川くんって、言葉を大事にする人なんだね。……そこが、いちばん似てた」
陽真は何も言わなかった。
けれど、そのまなざしは、少し戸惑いながらも、なにかを受け入れるように揺れていた。
けれどその沈黙の裏で、名前を出された“あのペンネーム”が、胸の奥を静かに波打たせていた。
一方その頃、教室では。
みつばが一人、残された教室にいた。
陽真の席に目を落とし、その隣の椅子に腰を下ろす。
机の端に、ひっそりと置かれた万年筆。
それが、彼がいつも原稿ノートと一緒に使っているものだと、みつばは知っていた。
授業中でも、休み時間でも、何か書くときには決まってそれだった。
少し傷がついているキャップの部分や、インクの染みた指先も、全部、目に焼き付いていた。
そっとつまみ上げて、手の中に収める。
(……忘れていくなんて、らしくないじゃん)
少しだけ笑って、その万年筆を制服のポケットにしまい込んだ。
“また今度”なんて、どこかで逃げ道にしていた自分。
でもそれは、彼の大切なものを手にしたこの瞬間に、もう通用しなくなった。
「……“今度”じゃなくて、“いま”をもらいにいく」
誰にも聞かれないような小さな声だったけれど、
その言葉には、もう迷いがなかった。




