わたし、まだ知らなかった顔
火曜日の放課後。教室には、今日も淡い陽が差し込んでいた。
陽真は、誰もいない教室でひとり、鞄の中を整理していた。
次の小説のネタ帳を、机の上に積み上げていたのだ。
その中には、最近書き始めた短編の草稿もあった。タイトルもまだない、断片的な物語。
――“君が笑うたび、僕の呼吸がひとつ遅れる気がする。”
そんな一節が、ページの上に走り書きされていた。
そのとき。
「……あれ、まだいたんだ」
背後から声がした。振り返ると、藤井美咲が教室の入口に立っていた。
「あ、ごめんね。勝手に入っちゃって」
「いや、大丈夫。忘れ物?」
「うん……って、あ。落ちたよ?」
美咲が指さしたのは、陽真の机の下に滑り落ちていた、ノートの1冊だった。
彼女はしゃがみこんで拾い上げると、パラ、と何気なくページを開いてしまう。
――その瞬間、言葉を失ったように、動きが止まった。
「……これ、春川くんが書いたの?」
「……うん。一応、趣味で」
「……うそ。これ、ただの趣味で書くレベルじゃないよ」
そう言った美咲の目は、驚きと、少しの感動を含んでいた。
陽真は恥ずかしそうに目をそらした。
「誰にも見せるつもりじゃなかったから、あんまりちゃんとしてない」
「でも……すごく、好きかも。こういうの」
美咲は、ノートをそっと閉じた。
「春川くんって、なんていうか……表に出さないだけで、たくさん考えてるんだね」
「……そんなたいしたもんじゃないよ」
陽真の声は低く、それでいて少し照れていた。
その様子に、美咲はふわりと笑う。
「じゃあ、内緒にしておくね。わたしだけの、ちょっとした秘密にする」
その言い方は、まるで小さな宝物を見つけたみたいだった。
そう言って、美咲は教室を出ていった。
――そのすぐあと。
廊下の角を曲がって教室に向かってきた一ノ瀬みつばは、教室から出てくる美咲の姿を見た。
すれ違いざま、美咲が小さく笑って言った。
「……春川くん、やっぱり面白い人」
その言葉に、みつばの足が一瞬だけ止まる。
(なに……今の)
胸の奥に、わずかにひっかかるような違和感が残る。
陽真の机に近づいたみつばは、ノートの束がきれいに積まれているのを見て、小さくため息をついた。
「……また、書いてたんだ」
その声は、聞こえるか聞こえないかのほどに小さかった。
文化祭のとき、ほんの少しだけ共有した“ステージの光”。
けれど、その光は今――
他の誰かにも届きはじめているのかもしれない。
“知らない顔”が、たくさんある。
(自分にだけ見せてくれたと思ってたものが、誰かに渡ってしまうみたいで――)
そんな不安を、どうしてこんなにも強く感じるんだろう。
春川陽真という存在の中には、自分がまだ踏み込めていない場所があって。
でも、そこに誰かが先に触れていたら……そう思うと、胸が苦しくなった。
教室の窓から差し込む夕陽が、ゆっくりと伸びる影を照らしていた。




