好きの温度、まだ知らない
文化祭が終わって、最初の月曜日。
教室にはどこか、祭りのあと特有の静けさが漂っていた。
先週の金曜日、学年全体で席替えが行われたばかりだが、陽真とみつばはなぜか――いや、偶然にしてはできすぎているほどの確率で――また同じ並びの席に座ることになった。
陽真は窓際の一番後ろ。
その右隣に、変わらずみつばがいる。
「まさか、また隣になるとはね」
朝、席に着いた瞬間、みつばがそう言って肩をすくめていた。
それに陽真は、少し照れくさそうにうなずいただけだった。
けれど、ひとつだけ、不可解なことがあった。
陽真の前の席――そこだけは、なぜか名札が貼られておらず、誰の名前も割り振られていなかったのだ。
全員分の席が埋まるように組まれていたはずなのに、そこだけぽっかりと空いたまま。
(……欠席者でも出たのかな)
そんなふうに考えていた陽真だったが、その理由は、すぐに明かされることになる。
「今日はひとつ、紹介がある。転校生が来ている。入ってこい」
担任の荒木先生の声が響き、扉が開いた――
そこに立っていたのは、小柄な女の子だった。
柔らかく揺れる茶色のロングヘアに、大きめの制服。やや緊張した笑顔を浮かべながら、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「おはようございますっ。藤井美咲です! 転校は初めてでちょっと緊張してるけど……仲良くしてもらえたら嬉しいです!」
ぱっと空気が変わった。
その明るい声と笑顔に、教室のあちこちから「可愛い……」という囁きが漏れる。
「席は、春川の前だ」
そう言われ、美咲は先生に一礼すると、教室を進み陽真の前の席へと向かう。
鞄を机に置こうとしたとき、椅子の脚がガタッとわずかに傾いた。
「……その椅子、ちょっとだけ歪んでるから、気をつけて」
陽真が小さく、けれどはっきりと声をかけた。
「えっ……ありがと。えっと……春川くん?」
「……うん。よろしく」
美咲はぱっと笑って、「よろしくね」と返すと、席に座った。
ほんの短いやりとりだったけれど――
「……うん。なんか声が落ち着いてて、話しやすいかも」
少しだけ照れくさそうに笑うその姿に、陽真は思わず視線をそらした。
そのやり取りを、隣の席で見ていた一ノ瀬みつばは、手を止めて静かに眉をひそめた。
休み時間。
美咲の周囲には、自然と人が集まっていた。
「前の学校って美術系だったんだ? かっこいい!」
「ううん、ぜんぜん。ちょっと雰囲気が合わなくて……制服着る普通の高校生活もいいかなって思ったの」
「絵とか得意?」
「好きだけど、最近はあんまり描いてないかな。気分屋だから!」
明るくて、距離感が近くて、でも押しつけがましくない。
そんな美咲の空気感に、女子たちもあっという間に馴染んでいった。
陽真は自分のノートを眺めながら、ときどき前の席をちらりと見る。
ふと、美咲が振り返ってきた。
「春川くんって、静かだけど……なんとなく、安心するかも」
「え?」
「……あ、ごめん。変なこと言っちゃったかも。なんか最初に話してくれたから、ちょっとほっとしちゃって」
そう言って笑った彼女に、陽真は言葉を返せず、ただ小さく頷いた。
その様子を――みつばは隣の席から、静かに見つめていた。
何がどう、というわけじゃない。
でも、胸の奥がじわじわと落ち着かない。
放課後。
帰り支度をしていた陽真の前で、美咲がそっと振り返る。
「ねえ、春川くん。今日……声かけてくれてありがとう」
「え……ああ、うん。椅子のこと?」
「それもだけど……最初に話しかけてもらえたの、すごく嬉しかった。ああいうの、ずっと覚えてるタイプなんだ」
美咲は笑う。朝よりも、少しだけ打ち解けた表情で。
「明日からも、よろしくね?」
「……うん、こちらこそ」
その会話の終わりを――見ていたみつばは、ゆっくりと視線を落とした。
自分のすぐ隣で話していた彼が、誰かと笑い合っている。
たったそれだけのことなのに、
胸の奥がざわついて、何も言えなくなる。
(……なんで、こんな気持ちになるんだろ)
まだ言葉にはならない。
でも、“好き”という感情の輪郭が、そっとかたちを取り始めた気がした。




