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静かな感情が、物語になるとき

放課後の教室には、夕陽が長く影を落としていた。


 黒板のチョーク跡はうっすらと残り、クラスの誰かが描いた落書きが半分だけ消されたままになっている。机の上にノートを広げたまま、陽真はペンを持つ手を止めていた。


 ノートの左上には、細かく書き込まれたプロット案。


 その中央に、小さく線を引いて記されている一文がある。


 ――「静かに歩く人は、静かに誰かを守っている」


 文化祭での推薦文。あのとき、一条陽菜がクロエのために書いた言葉。


 静かで控えめな文章だった。けれど、そこにあった感情は、たしかに“本物”だった。


 陽真は、あの一文に胸を衝かれたのをよく覚えている。


 声を荒げるでもなく、感情をぶつけるでもなく。

 ただ、誰かのことを思って、言葉にした“強さ”がそこにはあった。


 あれ以来、自分の小説『ミステイク』に対する考え方が、少しずつ変わりはじめている。


 これまでは、あくまで「読者にウケる展開」や「伏線の巧妙さ」に重きを置いていた。

 ミステイクのキャラも、どこかテンプレートを脱することを恐れていた。


 だが、陽菜の文章に触れてから――


 言葉を削ぎ落としてでも、伝えるべきものがあると、そう思うようになった。


 たとえば、最新話に登場したモブキャラ。

 名前もない“道案内役の少女”が、主人公に最後だけこう言う。


 『あなたが、ちゃんとここに立ってくれてよかった。誰にも気づかれなくても、私は知ってます』


 投稿した直後、コメント欄には「この子もっと出して」「セリフだけで泣きそう」といった反応がいくつも並んだ。


 誰にも期待されていなかったシーンで、なぜか“響いた”。


 ――それは、きっと陽菜の推薦文の中にあった“視点”が、陽真の中でどこか重なっていたからだ。


 誰も見ていないところで、誰かが誰かを想っている。


 それを知っているだけで、人は少しだけ優しくなれる気がする。


 そういう感情が、物語のなかにも生きている――今、そう信じられる。


「……そろそろ、更新準備するか」


 陽真はペンを置き、ノートPCを開いた。ログインした“ミステイク”の管理画面には、前回の話数に対するコメントがずらりと並んでいた。


 《地味な子のセリフが泣けた。こういう一言、ずるい》

 《主人公よりあの子の目線でもう一話書いてほしい》

 《なんか、静かな回だけどめちゃくちゃ心に残った》


「……だろうな」


 少し笑って、指を止める。


 誰にも強く主張しない言葉が、こんなにも誰かの心に残るなんて。


 春川陽真というひとりの書き手が、それを知ったのは――


 一条陽菜という、静かな存在が放った言葉がきっかけだった。


「……今度、直接お礼言えるタイミングがあればいいんだけどな」


 ぽつりと呟いた声は、誰に届くでもなく教室に溶けていった。


 夕暮れの光が、ノートの隅に影を落としていく。


 その上には、小さく書き足された新しいプロット案。


 ――“誰にも気づかれなくても、確かにそこにいた人”


 まだ物語は続いていく。


 けれどそれは、もう“ひとりよがりな創作”ではなかった。


 誰かの想いに背中を押されて紡がれる、新しい章の始まりだった。

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