ことばに触れた午後
昼下がりの図書室は、ひときわ静かだった。
文化祭の喧騒から数日が過ぎ、生徒たちはようやく通常の時間に戻りつつある。けれどこの場所だけは、最初からずっと“静けさ”を守り続けているようだった。
窓際の一角に、一条陽菜の姿があった。
肩までの黒髪をふわりと揺らしながら、膝の上に開かれた文庫本にそっと視線を落とす。制服の上に重ねた淡いグレーカーディガンは、彼女の静かな佇まいに自然と溶け込んでいた。
その机の上には、一枚の紙が置かれていた。
文化祭で彼女が書いた推薦文の下書きだった。
少し折れた角をなぞるように触れながら、陽菜はゆっくりと読み返す。
黒崎クロエ(一条陽菜)
静かに歩く人は、静かに誰かを守っているのだと、私は思います。
黒崎さんは、言葉で飾らない。
誰にも見せることなく、誰かのために動いて、
その背中に、強さと優しさが同時に宿っていることに気づく人は、きっと少ない。
強がっているわけじゃない。
誰かに褒められるためでもない。
ただ、当たり前みたいに、そこにいる。
彼女がステージに立つとき、
その静かな意志のようなものが、
きっと見る人の胸に、柔らかく、けれど消えない光を灯すはずです。
(……ちゃんと、届いたかな)
自分の書いた言葉が、誰かの心に残るなんてことがあるのだろうか。
そんな思いを抱えたまま提出した推薦文だったけれど、クロエは確かにあの日、ステージに立った。
華やかでも、大胆でもないけれど、堂々と。
それは、言葉よりも強い“意志”のように感じられた。
「……一条さん?」
不意に聞こえた声に、陽菜は静かに顔を上げた。
立っていたのは、春川陽真だった。
「あ……春川くん……」
「よかった、ここにいたんだ。実は、ちょっとお礼を言いたくて」
陽真は手にしていた封筒を差し出した。
「クロエから、預かってきた。推薦文のお礼だって」
「……えっ」
陽菜は両手で封筒を受け取った。封を開けると、中には一枚の便箋と、しおりが挟まれていた。
あなたの推薦文を読んで、「見られる私」ではなく、
「私自身」でいたいと思えました。ありがとう。
黒崎クロエ
陽菜は、それを静かに見つめた。
「……うれしい」
それは、とても小さな声だった。
けれど、陽真にははっきりと届いていた。
「あと、俺も言いたかった。あの推薦文、すごくよかったよ」
「……私の?」
「うん。文章に静かで強い想いがあって……クロエのこと、すごく伝わってきた。読んだ人、きっとみんなそう思ったと思う」
陽菜は、指先でしおりをそっとなぞる。
その端には、小さく英語で印字された一文があった。
“The quietest words are sometimes the loudest.”
――もっとも静かな言葉が、ときにいちばん響く。
「書くの、すごく迷ったけど……書いてよかった」
「伝わってたよ。ちゃんと」
陽菜は、少し照れたように微笑んだ。
「……ありがとう」
陽真は、机の上に置かれていた文庫本に目をやった。
「それ、読んでたの?」
「うん。……短編集。誰かの心に届く言葉が、たくさん載ってる」
「……そっか」
しばしの沈黙が降りた。
けれどそれは、居心地のいい静けさだった。
図書室の窓から差し込む午後の日差しが、ふたりの間をゆるやかに照らしていた。
「……私も、もう少しだけ言葉に向き合ってみようかな」
ぽつりとこぼれた陽菜の声に、陽真は微笑んでうなずいた。
「うん。……楽しみにしてるよ」
そのひと言が、陽菜の胸に、そっと明かりを灯していた。




