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始まりのカチンコ

 放課後の教室は、まるで別の空間になっていた。


 机と椅子は後方に寄せられ、中央にはホワイトボードが背景として立てかけられている。

 三脚に固定されたカメラ、マイクスタンド、照明器具。文化祭動画の本格的な撮影が、いよいよ始まろうとしていた。


「じゃ、いこうか。カチンコ、用意」


 演出補佐の真鍋怜央が、軽やかにカチンコを鳴らす。

 その“ぱちん”という小さな音が、空気を引き締めた。


 教室の隅で脚本を抱えながら、陽真はじっと現場を見守っていた。


 ナレーション担当の南條美佳は、原稿を持ったまま何度も口の動きを確かめている。

 音響の佐伯夏目は、チェックリスト片手にワイヤレスマイクの感度を慎重に調整していた。


「マイク、少し下げて。声の輪郭が強すぎる」


「うん」


 静かなやり取りの中で、着実に準備が進んでいく。


 その先では、主人公役の村上真哉と“凛”役の一ノ瀬みつばが立ち位置を確認していた。

 みつばは周囲のざわめきにも動じず、静かに台本へと意識を向けている。


 その佇まいは、もはや演じているというより“そこに存在している”という言葉のほうがふさわしかった。

 彼女の柔らかく、けれど芯のある表情に、陽真は自然と視線を引き寄せられていた。


(……やっぱり、“凛”は一ノ瀬で正解だった)


 そう思った矢先、すっと彼の隣に影が差す。


「春川くん……あの、ちょっといい?」


 声をかけてきたのはクロエだった。

 手には台詞カード。肩までの金髪が、控えめに揺れている。


「わたしのパート、回想の前半なんだけど……動きと表情のつなぎ方、いまいち掴めなくて」


 その表情には、珍しく不安の色が浮かんでいた。


「……ここは“気づき”の瞬間だから、あえて沈黙を活かすのがいいと思う。間があることで、そのあとの台詞に重みが出る」


 陽真は台詞カードを一読して、ゆっくりとアドバイスを返す。


「トーン自体は悪くない。少し“間”を置いてから動き出せば、自然に深みが出ると思う」


「……ありがとう。少し楽になった」


 クロエの瞳が、少しだけ和らいだ。

 息を整えるように小さく息を吐き、その場に立ち直る気配があった。


 そのとき――


 教室後方、壁際に設けられた“見学スペース”では、数名の生徒たちが静かに様子を見守っていた。


「……すごい、本当に映画みたい」


 ぽつりと呟いたのは、桃井千花。装飾班として衣装案を練っている彼女は、スケッチ帳を膝に乗せながら目を輝かせている。


「まさか、うちのクラスがこんなに真面目にやるなんてな」


 隣で腕を組んでいた内海紗月が、淡々とした声で続けた。

 けれどその視線には、意外と真剣なものが宿っていた。


「……でも、こういうのって、悪くない」


 もう一人、岩瀬亜子が微笑みながら言う。


 ふだんあまり目立たない生徒たちも、今は同じ空間を共有し、同じ“作品”を見つめていた。


 その姿に気づいた陽真は、そっと視線を向けて軽く会釈する。

 ただそれだけのことなのに、不思議と背筋が伸びる気がした。


 教室中央、カメラの前では次のテイクが始まろうとしている。


 ページを静かにめくりながら、陽真は改めてペンを握った。

 この物語が、たしかに誰かに届くように。



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