南條美佳の距離
放課後の教室。ざわめきはすでに薄れ、残っていたのは数人だけだった。
春川陽真は、いつもの席で台本に向かっていた。
文化祭の動画企画。全体の構成はほぼ決まり、あとは細かいセリフや演出の詰めを残すだけ。ノートのページには、クラスメイトたちをモチーフにしたキャラクターたちが、静かに言葉を待っていた。
「春川くん」
声に顔を上げると、そこに立っていたのは南條美佳だった。
茶色い髪をゆるくひとつにまとめ、どこか気まずそうに目線を外している。
「……一緒に帰ろう?」
一瞬、陽真の手が止まる。
「え、あ……うん。いいよ」
立ち上がると、美佳は少し照れたように笑った。
「よかった。ちょっとだけ、話したいことあったから」
二人は並んで校舎を出た。まだ陽の残る道を、柔らかな風が吹き抜ける。
「ねぇ、春川くんって、小説……どうして書き始めたの?」
突然の問いかけに、陽真は足を少し緩める。
「うまく言えないけど……言葉にできなかったことを、書きたかったのかもしれない」
それは、自分でもはっきり言葉にしたのは初めてだった。
隣で歩く美佳が、小さく頷く。
「……分かるな、それ。私も、口に出せないこと、けっこうあるから」
そう言って笑った彼女の横顔は、いつもの明るさとは違っていた。
飾らず、強がらず、どこかほんの少しだけ脆くて――けれど、ちゃんと届いてくる笑顔だった。
言葉は続かなかった。けれど、沈黙はどこかやさしく、二人の間に流れていた時間を、壊すことなく包んでいた。
やがて駅前までたどり着いたところで、美佳が足を止める。
「……じゃあ、私こっちだから。また明日」
軽く手を振りながら、美佳は階段のほうへと歩き出す。
その背中を見つめながら、陽真は思わず声をかけた。
「南條さん」
ぴたりと、美佳が振り返る。
「うん?」
「……その、話しやすいよね。俺、あんまりこうやって自然に喋れる人って、いないから」
一瞬、彼女は目を丸くし、それからふっと微笑んだ。
「そっか。……私もね、春川くんと話してると、なんか落ち着くよ」
その一言は、思っていたよりもずっとやわらかくて、あたたかかった。
帰りの電車、陽真は窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。
(“クラスの誰か”としてじゃなくて、“南條美佳”として、話した気がした)
その感覚は、陽真の中に、確かな重みを残していた。
一方その頃。
みつばは、教室に一人だけ残っていた。
静まり返った空間の中、誰もいない陽真の机の上に、一冊のコピー台本が置かれていた。
みつばはそれを手に取り、何ページかめくる。
台詞の節々に滲む、彼らしい選び方。少し不器用で、けれどまっすぐで――
思わず、口の中で呟く。
「……やっぱり、春川くんの言葉って、ずるいくらい届くんだよね」
その声は小さく、誰にも届かない。
けれどその言葉は、確かに彼女自身の奥で何かを揺らしていた。
まだ物語は動き出したばかり。
けれど、静かに少しずつ――関係が、変わり始めていた。




