静かに騒がしい日常
教室の空気は、まだどこかよそよそしかった。
春川陽真は今日も、自分の存在を隅に隠すように座っていた。けれど、その隣にいる少女だけは、毎日かならず話しかけてくる。
「春川くん、スマホで何見てるの?」
「あ、ニュース……っぽいやつ」
「ふーん。真面目なんだね~。あ、そういえばさ、放課後って何してるの?」
「……まあ、家で本読んだり、たまに……ちょっと文章書いたりとか」
「へえ、小説とか?」
「……そんな感じ」
「私も小説読んだりするよ! 『ミステイク』とか好き」
その瞬間、胸の奥で何かが破裂したような音がした。
言葉が頭の中を素通りせず、そこに刺さったまま残る。思考が霧のように乱れて、視線の先が歪んだ。
みつばは、無邪気に笑っていた。
全く悪気のない、明るい笑顔だった。
(……どうして、“ミステイク”を知ってる?)
自分が書いた小説。
それを、隣の席の彼女が“知っている”という事実が、現実感をもたらさない。
陽真はごく自然な動作を装って、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「読んだことある?」
「……少しだけ」
かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。
(言えない。俺が書いてるなんて、絶対に)
心の中にある名前、「最高裁番長」を、今この場で口に出せるはずがなかった。
その言葉は、自分にとっての“仮面”であり、唯一の安全地帯だ。
みつばは屈託なく続ける。
「面白いよね! 最近はずっと日間ランキング一位なんだよ」
「……うん」
「私、文庫本も買っちゃった!」
陽真は曖昧に笑うふりをしながら、内心で小さな混乱を抱えていた。
彼女は本当に、ただの読者として話しているのか。
それとも、何か知っていて、わざと触れているのか。
その答えは、みつばの笑顔からは読み取れなかった。
昼休み。教室の一角では、またもや“あの話”で盛り上がっていた。
「マジで見た方がいいって、昨日の配信! ミスティ、最近神回連発だし」
「“言葉の重みは、選ぶ勇気で変わる”ってやつ? あれ、最高裁番長のやつだよな?」
「また引用かよ。好きすぎて草」
笑い混じりのその声が、陽真の胸に針のように刺さる。
(……また、俺の言葉)
あの台詞も、『ミステイク』の中で使った、自分の文章だ。
それが、ミスティの口から発せられるたびに、世界の境界線が曖昧になっていく。
「春川くんも、ミスティ好きなんでしょ?」
ふと、隣から声がした。みつばだ。
「あ、うん……ちょっとだけ」
「なんか、最近すごいよね。配信で小説のセリフとか紹介してて。私、そういうのけっこう好きかも」
陽真は、小さく息を吸った。
(自分の言葉が、誰かに届いてる。それが、たとえば隣の席の彼女だったとしたら……)
考えるだけで、胸が熱を帯びる。それが嬉しさなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。
放課後。帰り支度をしていると、不意に東雲拓海が声をかけてきた。
「なあ、春川。お前、最高裁番長って知ってる?」
「え? ま、まぁ……ネットで見たことあるけど」
「やっぱ有名なんだな。最近、掲示板とかでも話題なんだよ。誰が書いてんのかって」
「……そうなんだ」
「活動歴めっちゃ浅いし、学生っぽいんだって。もしこの学校にいたら面白いよな」
東雲は笑いながら去っていった。
陽真の中で、静かに何かが軋んだ。
そのとき、もう一人——佐伯夏目が、何気なく声をかけてくる。
「春川、お前って静かだけど、観察してるよな」
「え? いや、そんなこと……」
「そういうやつのほうが、言葉に説得力あるんだよな」
興味なさげな口調だったが、その言葉はやけに鋭く響いた。
(……観察? 俺が?)
意識して見ていたわけじゃない。
ただ、話に加われないから、空気の流れや視線の行き先に敏感になっていただけ。
なのに、その“気づき”を誰かが見抜いていた。
陽真は席に戻りながら、自分の手をじっと見つめた。
この手が紡いだ言葉が、誰かに届いていたのなら——
もし、言葉の背後にある自分という存在が、誰かの目に映ってしまったのなら。
(……バレたら、どうなる?)
その問いの答えは、ただひとつ。
(すべてが壊れる)
陽真は息を詰め、頭を振った。
そんなはずない。誰にもバレるはずがない。バレてはいけない。
けれど、ほんの一瞬だけ。
(……もし、気づいてくれていたら)
そんな甘い想像が、心の奥に芽生えてしまった。
帰りの電車。
窓の外の景色は、春の光にぼやけていた。
(自分の書いた言葉が、あの子に届いていたら……)
そう思うたびに、怖くて、嬉しくて、苦しかった。
帰宅後。パソコンの前に座ると、陽真の指は自然に動き出していた。
画面の中で、いつもの物語が少しずつ形をなしていく。
でも今日、ヒロインの仕草に、ある誰かの姿が重なった。
髪を耳にかける癖。
笑うときに、少しだけ目を細めるところ。
人懐っこくて、それでいて、どこか寂しげな笑顔。
(……みつば、か)
自分でも驚いた。
今まで“キャラクター”として描いていたはずの登場人物に、“誰か”の輪郭が重なるなんて。
それでも、手は止まらなかった。
今の自分にしか書けない言葉がある気がして、陽真はただ静かに、画面に向き合い続けた。
書き終えて、背もたれに身を預けた瞬間。
彼は、天井を見上げながら、思った。
(もし……この小説を、誰かが本当に読んでくれてたら)
それがミスティでも、一ノ瀬みつばでも、誰でもなくても。
この気持ちが、どこかで誰かの支えになっていたなら——
それだけで、きっと十分だ。