声にならない呼びかけ
教室の隅で、春川陽真は静かにスマホの画面を伏せた。
掲示板には“最高裁番長”という名前が何度も並んでいる。
「天才すぎ」「文章がエモい」「正体気になる」「学生説あるかも」
そんな言葉が、見慣れたはずのスクロールに並んでいた。
(まるで、自分じゃない誰かの話みたいだ)
嬉しくはなかった。
むしろ、何かを照らされていくようで、そっと身を引きたくなる。
“誰にも知られずに届ける”ために選んだはずの名前。
けれど注目されればされるほど、その“隠れ場所”は消えていく。
昼休みの教室。数人のクラスメイトが、談笑しながら盛り上がっていた。
「見た? 昨日の特定スレ。最高裁番長、マジで学生説強まってるらしい」
「文体分析してる人いたよ。“十代特有の間の取り方”だってさ」
「え、それこの学校にいる説ある?」
「やば、それだったら推理始まるじゃん」
何気ない会話のはずなのに、ひとつひとつの言葉が、じわじわと陽真の胸を刺してくる。
(もし、この中に……ほんの一人でも、真剣に探そうとしてる人がいたら)
考えるだけで、指先が冷たくなる。
「春川くん」
いつもの声が、耳に届いた。
振り向けば、みつばが、どこか慎重な表情でこちらを見ていた。
「……最高裁番長って、知ってる?」
その言葉に、心臓が一瞬止まりそうになる。
けれど、顔には出さず、陽真は静かに頷いた。
「名前は、見たことあるよ。掲示板とかで」
「そっか……実はちょっと、気になってて」
その目は、“確かめたい”というよりも、“たしかめすぎないようにしている”ようだった。
「最近、ミスティの配信でさ。“誰かに届くといいな”って言葉が何度も出てて」
「……うん」
「それが、なんていうか……すごく優しくて。
ああいう言葉を、ちゃんと選べる人って……いいなって、思ったの」
陽真は、黙ってその言葉を聞いていた。
それは、自分が書いた台本の一節。
誰かに届いてほしくて、でも名前は明かさずに綴った、あの言葉。
まさか、こうして“目の前”で返される日が来るとは思っていなかった。
けれど、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
“届いていないふり”を続けながら、少しだけ間を置いて、笑って席に戻った。
放課後。
陽真は図書室にいた。
ノートパソコンの画面には、新しい台本の構成案。けれど、言葉はひとつも浮かんでこない。
(いま書く言葉は、誰に届くんだろう)
ふと、スマホが震えた。
ミスティからのメッセージだった。
『こんばんは。
少しだけ……迷っています。
最近、自分が何のために配信してるのか、わからなくなってきて。』
『言葉を届けるって、どうしてこんなに怖くなるんだろうって。』
『……また、相談させてもらってもいいですか?』
読みながら、陽真はその行間に“彼女自身の声”を感じた。
自分を守りながら、それでも誰かに寄り添おうとする声。
その“誰か”に、自分が含まれているのかは、わからない。
だけど、もう十分すぎるほど、その声に救われていた。
返信欄を開きかけたが、陽真は指を止める。
(……いま言葉を返したら、それがどこまで“届いて”しまうか、わからない)
だから、いまはまだ返せなかった。
代わりに、手元のノートに、そっとペンを走らせる。
誰に見せるでもない言葉。
けれど、それがきっといちばん、本音だった。
『――正体がわからないままのほうが、優しくできることもある』
その一行だけを書き終えて、陽真はノートをそっと閉じた。
胸の奥には、いま言えなかったすべての想いが、静かに息をひそめていた。




