正体不明の君に惹かれて
図書室の窓から差し込む春の光は、柔らかくノートのページを照らしていた。
春川陽真は、いつもの席でパソコンを開き、台本の構想に向き合っていた。
ミスティからの新しい依頼。それは、こう綴られていた。
『ふたりの距離が近づく分だけ、心の奥にある“秘密”が重くなる──そんな物語を書いてほしいです』
(……どこまで、踏み込んでいいんだろう)
画面に向かいながら、言葉を選ぶ手が止まる。
あの配信の声。あのメッセージの行間。
直接確かめたわけじゃない。でも、ずっと一緒に過ごしてきた時間が、胸の奥で名前を囁く。
(……たぶん、みつば、なんだと思う)
そう思ってしまった自分を、あえて否定しなかった。
けれど、それを口に出すことも、問いかけることもしていない。
“知らないふり”のまま、言葉だけでつながっている。
だからこそ──その言葉が、これまでよりもずっと難しかった。
「春川くん、集中してる?」
ふいに隣から声がして、陽真は顔を上げた。
一ノ瀬みつばが、いつものようにそこにいた。
今日は髪をゆるくまとめていて、どこか柔らかな雰囲気を纏っている。
ナチュラルな笑顔。自然な仕草。それなのに、目が合うたび、胸の奥がざわつく。
「うん、ちょっと悩んでて」
「小説?」
「……まあ、そんな感じ」
みつばはそれ以上は聞かずに、そっと机の上にペットボトルのお茶を置いた。
「集中すると、水分忘れるタイプでしょ? 休憩して」
「……ありがとう」
手にしたお茶の冷たさが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
この自然な気遣いに、いくつ救われたかわからない。
でも、それが“演技”だったとしても、いまはそれでいいと思った。
ふたりの間に、少しの沈黙が流れる。
「ねえ、春川くん」
「ん?」
「ミスティの配信って、どう思う?」
一瞬、指が止まる。
思いがけない問いに、心臓がわずかに速くなった。
「……うまく言えないけど。なんか……誰かの気持ちを丁寧に拾ってる感じがする」
自分でも、意外なほど自然に答えが出ていた。
「“気づけなかった感情”をそっと差し出してくれるような……そんな声、っていうか」
「……そっか」
みつばは、ゆっくりと目を伏せた。
そして、小さな声で言う。
「私ね、ああいう言葉を書ける人って、ほんとにすごいと思う」
「うん……魔法みたいだよね」
「うん。……魔法、かもね」
笑いながらそう言った彼女の横顔に、なにかが滲んで見えた。
(……その“魔法”をかけてるのが、俺自身だとしても)
(今はまだ、何も言えない)
けれどその想いは、確実に言葉になろうとしている。
名前を呼んだときと同じように、いつかその“魔法”が、彼女に届く日が来ると信じていた。
図書室を出て、校門を出たあたりで、陽真は東雲拓海に声をかけられた。
「なあ春川、ちょっと……いいか?」
「うん?」
「掲示板で、“最高裁番長って学生説”がまた盛り上がってるらしいぞ」
「……また?」
「うん。なんか、台本の言葉遣いが“現代の若い感覚に近すぎる”とか、妙に分析されててさ。
“作者は十代”って仮説が広まってるっぽい」
陽真は、小さく息を呑んだ。
「マジな話、そろそろ特定班が動き出すんじゃね? アイコンの時間帯ログとかも調べてるってさ」
「……へえ」
東雲は軽く笑っていたが、陽真の中には確かな“冷たさ”が流れていた。
(匿名って、こんなにも脆いんだな)
言葉だけで作ったはずの世界が、現実に引き寄せられていく。
筆名。時間帯。言葉の癖。
それだけで、“誰か”が“自分”になっていく。
(届いてほしいと思って書いた。でも、届きすぎるのも、怖いんだ)
歩きながら、陽真は空を見上げた。
まだ春の雲が浮かんでいる。
(もし、名前まで届いてしまったら……そのとき、俺は)
心のどこかで、答えを探していた。




