隠しごとと、ひとつの嘘
夜の配信が始まる数分前、春川陽真はパソコンの前に座り、ゆっくりと息を吐いた。
数日前に提出した台本『遠くで名前を呼んだ声』が、今夜のミスティの朗読で使われる予定だった。
午後九時ちょうど。
配信が始まると、ミスティの柔らかな声がイヤホン越しに流れ込んでくる。
『こんばんは、ミスティです。今日も来てくれて、ありがとう』
変わらないイントネーション。穏やかな抑揚。
それだけで、陽真の背筋は自然と伸びた。
『今日は、“名前”について、少しだけお話をしたいと思います。
誰かの名前を呼ぶって、ただの音じゃなくて、そこに感情が宿る気がしていて――』
台本で設定した冒頭の流れは、完璧に再現されていた。
でも、どこか違和感があった。
それは“演技”の熱量の問題ではない。言葉の“重み”が、少しだけ増していたのだ。
『……もし、ほんの少しだけ言葉を足したら、伝わるかなって。
ふと、そう思うことがあるんです』
その一言に、陽真は小さく息を呑んだ。
そのフレーズは、彼の台本には存在しない。
けれど、それは確かに、その台本の“延長線上”にある言葉だった。
(……これって)
まるで――“誰か”の想いが、その場で言葉になったような感覚。
台詞ではなく、心の声のようだった。
配信はそのまま静かに終わっていった。
陽真は、画面を閉じたあともしばらく椅子から動けなかった。
(あれは、誰の言葉だったんだろう)
でも、答えは出なかった。
ただひとつ、確かにわかっていることがある。
あの言葉は、“届くこと”を願っていた。
次の日。昼休み。
教室の隅でひとり窓を眺めていたみつばのもとへ、陽真は静かに近づいた。
「……昨日の、ミスティの配信。聴いた?」
問いかけた声に、みつばはほんのわずかに瞬きをして、それから頷いた。
「うん。……ちょっと、胸に残った」
「最後、なんだか……雰囲気が違ってたような気がした」
それはあくまで、**“聴き手としての感想”**だった。
でも、その一言に、みつばは小さく微笑んだ。
「そう感じたなら……きっと、伝えたいことがあったんだろうね。その人に」
淡くて、曖昧で、それでいて確信めいた言葉。
陽真は、それ以上なにも聞かなかった。
「……言葉って、不思議だね」
ふと、みつばがぽつりと呟いた。
「ただ並べるだけじゃ届かなくて、でも……ほんの一言で、全部伝わることもある」
「……うん、わかる」
しばらくの沈黙。
窓の外では、春風が校庭の木々を揺らしていた。
「……春川くんは、言葉、信じる?」
ふいに向けられた問いに、陽真は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……信じたいと思ってる。まだうまく伝えられないけど」
みつばは頷いた。
その仕草に、はっきりとした“なにか”がにじんでいた。
「うん。……それで十分だよ」
言葉の正体を探るような、問いも、答えもなかった。
でも。
言葉の奥にいる“誰か”の想いだけが、確かに残っていた。
――そして、ふたりはまた、黙って教室へ戻った。
春川陽真は、その背中を見送りながら、心の中でそっと言葉を繰り返した。
(……名前の先にある言葉を、いつかちゃんと伝えたい)
(その人が、たとえ誰であっても)




