すこし、手を伸ばせば
夜の駅のホームに、静かな風が吹いていた。
電車が去ったあとの線路は、ほんのりと余熱を残していて、誰もいないベンチに夏の空気がそっと寄り添っていた。
みつばと陽真は、ふたり並んでそのベンチに座っていた。
花火大会のあとの帰り道、他の客たちがぞろぞろと改札を抜けていく中、ふたりだけが少しだけホームに残っていた。
手にはまだ、縁日の屋台で買ったままのラムネの瓶がある。もうぬるくなっていて、飲むにはちょっと微妙な温度。それでも捨てずに持っているのは、なんとなく──名残惜しかったからだ。
「……まだ、ちょっと信じられないかも」
みつばがぽつりと呟く。
「なにが?」
陽真が横を向くと、みつばは照れくさそうに、少し肩をすくめた。
「今、こうしてること。……ちゃんと気持ちを伝えられて、陽真も“好き”って言ってくれて……それで、今、私たちが隣にいるってこと」
「……俺も、似たようなこと考えてた」
陽真の声は、少しだけ低くて、でもやわらかい。
「付き合うって、もっと特別な瞬間が来るんだと思ってた。でも……今こうしてると、なんか、それだけじゃないんだって思う」
「それだけじゃない、って?」
「……全部が、積み重なって、ここにあるんだなって。夏祭りのこと、図書室のこと、本屋の帰り道、文化祭、読語フェス、海、別荘……全部」
みつばは静かに目を伏せた。
どれも、思い出せばすぐに心がふるえるような、大切な記憶たち。
言葉じゃ足りないくらいの時間が、ふたりの間にちゃんと流れていたのだと、改めて思う。
「ねえ、陽真」
「ん?」
「……私、どうして陽真のことが好きなんだろうって、たまに思うんだ」
「え?」
「いや、変な意味じゃなくて! ちゃんと“好き”なんだけど……言葉にしようとすると、うまく言えなくて。でも……なんとなく、思ったの」
言いながら、みつばは夜風に揺れる髪を指で整えた。
「……隣にいるとき、自分を“ちゃんと好き”でいられるんだって」
陽真は驚いたように、目を丸くする。
「……それ、俺にはちょっと、もったいないくらいの言葉だな」
みつばは首を振った。
「もったいなくないよ。陽真は、自分ではそう思わないかもしれないけど……私にとっては、そういう存在だった。だから、これからも……」
言いかけて、ふいに電車の通過音がホームを揺らした。
風が頬をかすめ、みつばの浴衣の裾がさらりとめくれる。
陽真は、その音が通り過ぎたのを見計らって、静かに言葉を重ねた。
「……俺も、同じだよ。自分のこと、すごく好きになれるってわけじゃないけど……みつばといると、少しだけ強くなれる。自分の言葉を信じてみようって思える」
ふたりの視線が、ゆっくりと交差する。
夜空にはもう花火は上がっていなかったけれど、胸の奥でなにかが、まだぱちぱちと音を立てているような気がした。
「……歩こっか。そろそろ電車、来ちゃうよ」
「うん」
立ち上がるみつばの肩に、そっと陽真の手が触れた。
「え……?」
「……あ、いや。ちょっと……その、手」
陽真が少しだけ視線をそらして、手のひらを差し出す。
みつばは、一瞬だけ驚いたように目を見開いて──でもすぐに、ふっと笑って、その手を取った。
「……うん。じゃあ、帰ろう、陽真」
手のひらは、まだ少し汗ばんでいたけれど、それがなぜか嬉しかった。
繋いだ手をほどかないまま、ふたりはゆっくりと駅の階段を上っていく。
夏の夜。
終わりの近づく時間の中で、はじまったばかりの関係が、少しずつ歩き出していた。
恋人って、何かを変える言葉じゃなくて、
ただ、少しだけ勇気をくれる言葉なんだと思った。
その日、夜空に花火はもうなかったけれど──
ふたりの心には、たしかに火が灯っていた。