名前のその先に
「……みつば」
その一言を聞いた瞬間、みつばの表情がかすかに揺れた。
驚いたような、照れくさいような――それでいて、どこか嬉しそうな笑み。
陽真の心臓が、胸の奥で不自然なリズムを刻んでいた。
(……言えたんだ)
声に出す。それだけのことが、どうしてこんなに難しくて、嬉しいのだろう。
「春川くん、いま……」
「うん。……昨日からずっと、練習してた」
みつばは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「それ、なんか可愛いかも」
朱に染まる夕陽が、彼女の横顔をやさしく照らす。
その姿が、思ったよりずっと近くに感じられた。
二人はそのまま電車に乗った。
混雑した車内。会話はなくても、沈黙は居心地が良かった。
降車駅のアナウンスが流れる頃、みつばがぽつりとつぶやいた。
「……ありがとうね」
「え?」
「名前、呼んでくれて。……嬉しかったから」
陽真はただ、小さく頷いた。
その夜。
ミスティから新しいDMが届いた。
『次回の台本、少しだけ違うテイストにしたいんです。
今まで静かな話が多かったけど、今度は“感情の衝突”をテーマにしたくて。』
『喧嘩じゃなくて、誤解とか……言えなかった気持ちのぶつかり合い。
最後には“ひとつの言葉”で通じ合うような――そんな話が理想です』
陽真は、その文面にしばらく目を落としていた。
(“名前を呼ぶ”だけじゃ、届かない想いもある)
でも、そこを越えていきたい。
彼女と、もう一歩、先へ。
『感情がすれ違っても、最後に“ひとつの言葉”で通じ合えるような話、書いてみます』
『その“言葉”を、ちゃんと選びます。あなたのために』
送信。
すぐに既読がつく。そして――
『……嬉しいです。ありがとうございます。
“その言葉”、楽しみにしています』
次の日の放課後。
図書室に、みつばの姿はなかった。
代わりに机の上に、折られたメモ用紙がひとつ置かれていた。
陽真はそっとそれを開いた。
『急にごめん。今日は家でちょっとだけ、集中したくて。
でも明日はまた来るから――もしよかったら、“その言葉”、聞かせてね。』
陽真は静かに紙を閉じる。
少しだけ口元がほころんだ。
(伝えるよ)
(名前のその先にある、ほんとうの想いを)
窓の外には、春の終わりを告げる風が、そっと吹いていた。




