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名前を呼ぶ練習

 図書室を出た瞬間、陽真の胸に残っていたのは、不思議な静けさだった。


 夕焼けの光が床に映っている。けれど、その色はどこか淡く、輪郭がぼやけて見えた。


(……みつば)


 呼びたくなった名前を、声に出せずに何度も心の中で繰り返す。

 昨日、彼女が言った。


「次に呼びたくなったときは、呼んでみて」


 その言葉が、冗談なのか、本気なのか。

 それでも、確かに何かを“託された”ような感覚が残っていた。


 夜。机に向かい、陽真は台本の続きを書こうとしていた。

 けれど、指は止まっていた。


(“名前を呼ぶ”だけで、物語って動くんだ)


 そのテーマだけで、きっと物語は成立する。

 何もいらない。ただ、名前ひとつあれば。


 モニターの白い画面に、そっと打ち込んだ。


『君の名前を、何度も練習してきた。

 誰にも聞かれないように、こっそり、心の中で。

 いつか本当に呼べるようになるために――』


 そのとき、スマホが小さく震えた。


 ミスティからのDMだった。


『台本、少し読みました。

“名前を練習する”って表現、すごく好きです』


『……私も、呼んでもらえたら嬉しいって、きっと思う』


 陽真の指が止まる。

 この人の言葉は、やはり“あの人”にあまりにも似すぎている。


 けれど、それを確かめる方法はまだなかった。

 言葉だけが、静かに届いてくる。


 翌日。


 図書室には、ひとりきりだった。


 窓際の席に座り、陽真は静かにノートを広げる。

 誰もいない空間で、そっと口を開いた。


「……みつば」


 小さな声。けれど、その音は、自分の中で確かに響いた。


 初めて声に出して呼んだその名前は、意外にもやわらかく、胸に残る音だった。


 帰り道、駅のホーム。

 反対側のホームで、誰かが手を振っているのが見えた。


 ブレザーの袖が揺れる。柔らかく巻かれた髪が、風にそよいでいる。


 みつばだった。


 陽真は、ゆっくりと歩を進める。

 距離が縮まるたびに、鼓動がひとつずつ数を増していく。


(もう一度、名前を――)


 何度も練習してきたその言葉が、自然に唇にのぼった。


「……みつば」


 風が吹いた。

 彼女の髪が揺れる。目が、ほんの少しだけ見開かれて、それからふっと細められる。


 笑った。


「……うん」


 その返事が、すべてだった。


 ただ名前を呼んだだけ。

 でも、今この瞬間――物語が、確かに次のページへ進んだ気がした。

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