君の名前を、心の中で何度も呼んだ
その日の放課後、図書室の空気は、どこか取り残されたように静かだった。
夕日が窓から差し込む。
それは毎日の光景のはずなのに、今日はやけに色が薄く感じられる。
陽真は、いつもより少し早めに図書室に入っていた。
理由は、自分でもはっきりしない。ただ――
(みつば、来るかな)
昨日のことが、頭から離れない。
“知らないふりって、優しさなのかな”。
彼女の残したその一言が、ずっと胸に残っていた。
開きっぱなしのノートパソコンには、ミスティから届いた新しい台本案。
『“名前を呼ぶ”ことで、距離が変わっていくような物語を書きたいんです』
『ずっと呼べなかったのに、ある瞬間から自然に呼んでしまうような――』
その言葉を読んだとき、すぐに浮かんだのは、みつばのことだった。
呼びたいのに、呼べない。
名前を口にするだけで、きっと何かが変わってしまう気がして。
机の上の台本用ノートをめくる。
表紙には仮タイトル――『名前を知らなかった君に』。
まだ真っ白なページに、そっと文字を打ち込む。
君の名前を、僕はまだ知らない。
でも、心の中では、何度も呼んでいた。
――そのとき、ふと気配を感じて、顔を上げた。
図書室の入り口。
みつばが立っていた。戸惑ったように、小さく瞬きしながら。
「……来るの、早いんだね」
「うん。少し、書きたいものがあって」
彼女は小さく頷き、隣に腰を下ろした。
笑顔はいつも通り。けれど、その瞳の奥に、ほんのわずかな“揺らぎ”があった。
ページを閉じかけた陽真に、みつばがぽつりと尋ねる。
「ねえ、春川くん。名前ってさ、呼び方で距離って変わると思う?」
思いがけない問いだった。
「……うん。変わると思う。苗字より、名前のほうが、少し近い距離って感じがする」
「私さ、今まで呼べなかった人がいて……怖かったの。呼んだら、何かが壊れる気がして」
陽真は、画面を閉じた。
みつばの言葉に、どこか自分自身が映っている気がして。
「……俺も、同じかもしれない」
みつばは、少しだけ笑って、小声で聞いてきた。
「春川くんは……私の名前、呼びづらい?」
「呼びづらいっていうか……タイミング、かな。なんとなく、きっかけをつかめなくて」
「そっか。……じゃあ、もし今度、“呼びたい”って思ったときがあったらさ――」
そこで言葉を切り、みつばは視線を窓のほうへ流す。
風に揺れた髪が、ほのかに陽真の肩先に触れた。
「……呼んでみてよ、“みつば”って」
その一言が、思っていたよりもずっと静かで、優しくて。
でも、確かに心に残る“音”だった。
「……うん」
それだけで、胸の奥が少し温かくなる。
言葉にできなかった気持ちが、
その“名前”を通して、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。




