隣の席は学年一の美少女
春。
制服のブレザーに袖を通すたび、あの重さを思い出す。
名前を呼ばれない教室。
昼休みも、ひとりきり。
黒板よりも、ノートの隅に描く落書きに意識を逃がしていた日々。
春川陽真は、そんな“地味枠”の高校生だ。
けれど。
その誰も気づかない裏側で、彼は、ひとつの“名前”で世界を動かしている。
『最高裁番長』——ネット小説投稿サイトにて連載中の『ミステイク』は書籍化を果たし、文芸コーナーに平積みされるヒット作となった。
けれど、陽真が“春川陽真”として注目されたことはない。顔出しもしない。プロフィールも空欄のまま。本人はその状態を、むしろ心地よく思っていた。
知られないまま、届く言葉。
言葉だけで誰かの心に触れられる距離感が、彼にとっての“救い”だった。
そんな彼にとって、もうひとつの救いがある。
夜。
部屋の明かりを落とし、モニターに浮かび上がる彼女の姿を見る時間。
「今日も来てくれて、ありがとう。コメント、ちゃんと見えてるよ」
VTuber。
淡い髪色にふんわりした雰囲気。
その声は、柔らかくて、どこか人を包み込む空気を持っていた。
明るくて、ほんの少し天然。でも、言葉の端々ににじむ“思慮の深さ”がある。
彼女の声を聞いていると、自分が“存在してもいい”気がする。
「……今日も、癒された」
陽真はそうつぶやき、画面右下の“スーパーチャット”をクリックした。
三千円。送信者名は『最高裁番長』。
それが、彼の本当の名前ではないことを、ミスティはきっと知らない。
けれどそれでいい。知られないからこそ、素直になれることもある。
(いつか、届いたりするのかな。……なんて)
そんな願いをひとりごとで打ち消し、そっと画面を閉じた。
日付は変わっている。
深夜の空気はまだ肌寒く、春はまだ完全には目を覚ましていないようだった。
翌朝。
陽真は自宅を出て、駅までの坂を下る。空気は澄んでいて、街路樹の新芽が陽に透けていた。
電車はすでに混み合っていた。扉の前に立ち、揺れる車内の中で、彼はそっと視線をずらした。
——そのときだった。
向かい側に立つ一人の少女に、目が止まった。
艶のある黒髪が肩先で揺れ、姿勢まで整っているのが遠目にもわかる。すれ違った誰もが一度は振り返る、完璧すぎる顔立ち。整いすぎていて、現実味が薄れるほどだった。
一ノ瀬みつば。
学年でも名前を知らぬ者はいない。けれど、陽真にとっては、それ以上に“別格”な存在だった。
(まさか、同じクラスとか……ないよな)
半ば夢想のようにそう思った。
けれどその直後、自分の思考に笑ってしまいそうになる。
(あるわけないか)
電車が駅に着き、いつもより少しだけ重い足取りでホームを降りた。
始業式の日。校舎には人があふれていた。
掲示板の前で人波を避けるように立ち、彼はクラス表を確認した。
「……二年C組、か」
小さくつぶやき、教室へ向かう。
緊張感よりも、“どうせまた誰とも関わらない”というあきらめの方が強かった。
だが、その予想は、数分後あっけなく裏切られることになる。
教室に入り、黒板横の座席表を確認した。
(窓側の一番後ろ……俺の名前)
その右隣には。
一ノ瀬みつば。
思考が一瞬、止まった。
席に座っても、心臓の音ばかりがうるさい。まだほとんど生徒が来ていない教室で、窓の外の春風だけが静かに吹いていた。
そして——
「あ、隣なんだね」
振り向いた先に、彼女がいた。
駅で見たそのままの姿。そのままの笑顔。
「よろしくね、春川くん」
「……っ、うん。よろしく」
なんとか返した声が、自分でも情けないくらい震えていた。
「クラス替えって、ドキドキするよね。特に隣の席とか、大事だし」
「た、たしかに」
当たり前みたいに話しかけてくる彼女に、陽真は戸惑いすら覚える。
これまで、こんなふうに普通に会話をした記憶なんて、ほとんどない。
でも、それ以上に——
彼女の声が、やはりどこか耳に残る。
(まさか、な)
休み時間。周囲がざわつくなか、前の席の男子たちがひそひそと話していた。
「お前、マジで一ノ瀬と隣じゃん」
「人生の運、使い果たしたんじゃね?」
聞こえないふりをして、ノートにペンを走らせる。
だけどその手は、わずかに震えていた。
そして——
(この春が、何かを変えるなんて)
そのときの陽真には、まだ想像もつかなかった。