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Educator  作者: 槇 慎一


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5 かおちゃん、寝ちゃった?


 夏休み前の最後の学校の日。


 タケルの家に誘われた。僕は、友達の家に行ったのは初めてだった。思いがけず、妹の美桜ちゃんのピアノのレッスンをして、夕食をいただいて帰ってきた。


 電車に乗る時にお母さんに電話を入れておいた。マンションの玄関のドアを開けると、リビングが暗かった。そう、……もう夜の八時を過ぎている筈。普段のかおちゃんだったら、もう寝ている時間だ。


 案の定、かおちゃんは仄かな灯りにされたリビングのソファで眠っていた。ソファから落ちても痛くないように、ソファの下に毛布が敷いてある。

「おかえりなさい。かおちゃん、シンイチのこと、待ってたのよ。後でお父さんがベッドに運ぶだろうから、そこで寝かせておいて」

 かおちゃんは寝ているのに、お母さんは気にせず大きな声だ。まぁ、暗くしてあればかおちゃんは起きないけど。


 僕はかおちゃんの寝顔を見ながら、頬を撫でた。ふっくらして可愛い。視界にピアノが目に入った。僕の家のリビングにもピアノがある。黒い艶消しの大きなグランドピアノだ。お母さんが、まだ小さかった僕を抱きしめて繰り返し教えてくれた。結婚した時にお父さんが用意してくれた外国のピアノ。外国のピアニストがリサイタルで使っていたピアノ。特別なピアノ……特別な音。一緒に、大切に使いましょうねって、優しく教えてくれた。僕は、小さい頃からずっとこのピアノを弾いていた。


 顔を上げて、改めてそのピアノを見ると、譜面台に、今日かおちゃんが一人で練習したであろう数冊の楽譜が、きちんとそろえて置いてあった。練習する前に、今日練習する楽譜を右側に置き、練習したら左側に置く。楽譜は、順番を変えることもある。右側に何もなくなるまで練習する。左側に置かれたかおちゃんの楽譜……。今日は聴けなかった。僕がいなくても、一人で練習したのか。かおちゃんのピアノを早く聴きたい。


 今日、僕が美桜ちゃんに教えたことは、もっともっと小さかった頃のかおちゃんに教えたやり方だ。かおちゃん以外の子を教えたのは初めてだ。成果が気になる。コンサートまでは、練習する習慣もなかったと聞いていた。これから練習を続けるだろうか。ピアノを続けるだろうか。続けてほしい。どうなるか見たい。こんな気持ちも初めてだった。また、タケルにも会えるだろう。


 ……そうだ。かおちゃんが寝ている今のうちに学校の宿題をやろう。僕は、かおちゃんに光が当たらないように向きを変えてから勉強用のライトをつけた。


 簡単な復習ドリルだから何冊でもすぐに終わる。読書感想文だって、普段から読んでいる。わざわざ新しい本を読む必要もない。どれが書きやすくて、どれが点を取りやすいか……。借りていた人がほとんどいなかった、珍しい本にしてみようか……。


 夏休みはピアノを頑張ろう。


 僕は来年の発表会でショパンの『スケルツォ2番』を弾く。夏休みは膨大な『マズルカ』に関することを『スケルツォ』と並行してやるつもりだと母親に言われていた。『マズルカ』のことは図書室で調べてあるし、数曲なら練習してある。


 かおちゃんがこの四月の発表会で弾いたのは、シューマン作曲の『トロイメライ』、『はじめての悲しみ』、『民謡』。どれもゆったりとしたメロディーが綺麗なロマン派の曲だ。来年は初等部一年生になる。ドビュッシー作曲の『夢』を弾かせたい。これまで、バロック時代から古典派を多く弾かせてきた。そろそろロマン派から近現代の作曲家の作品を弾かせてみよう。


 カバレフスキー、ハチャトゥリアン、ギロック、シュレーダー、グルリット、ケーラー、メリカントあたりの小さい子供向けの曲がある。どこまでがロマン派で、どこからが近代なのか……あ、夏休みは学校の図書館は使えない。後で調べることをノートにまとめておこう……そんなことを考えながら、次から次へと鉛筆を走らせた。一問めの答えを書いている間に次の問題を解く。二問めの答えを書くと同時にまた次の問題の答えを出す……そんな風に進め、計算と漢字のドリルを終わらせた。


 玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」

 お父さんだ。僕は玄関まで走って行って伝えた。

「お父さん、おかえりなさい。かおちゃんがリビングで寝てるんだ」

「おぅ、じゃ俺が連れてくよ」

 お父さんは、静かにそう言ってかおちゃんを起こさないように抱っこした。ベッドに連れて行ってくれた。


 かおちゃんがいなくなったので、リビングの照明をつけた。まぶしい。僕もそろそろ寝よう。


 勉強道具の整理をした。これは終わった。これは明日。明日から使う、夏休みの宿題に必要なものを探して一ヶ所にまとめた。終わったものは……もうランドセルでいいか。


 お父さんがリビングに戻ってきた。

「もう、結構遅い時間じゃないか。何やってるんだ?」

「夏休みの宿題の終わったのと、これからのを分けてるんだ」

「夏休みは明日からだろう?」

「ドリルはもう終わった」

「感心だな。俺なんか最終日にやってたよ?」

「あ、成績表……はい」

「おぅ。……頑張ってるな。皆も頑張るから、維持するの大変だろう」


 そうなのかな?すごく必死にやっているわけでもないけど……。お父さんはいつも優しい。言わなくても、いろいろわかってくれるところがある。

「印鑑押してもらったら、すぐにランドセルに入れたいんだ」

「わかった。るり子のとこに持っていって、すぐに戻すよ」

 お父さんは僕を「イイコ」だと言う。そうなのかな。自分ではわからない。僕は、お父さんを格好いいなと思う。かおちゃんもお父さんのことが大好きみたいだ。お父さんにベタベタと甘えるかおちゃんを見るのは、ちょっと複雑な気持ちになる。そんな気持ちも、お父さんにバレていると思うと、ちょっと恥ずかしくなる。早く大人になりたい。


 早く中学生になって、早く高校生になって、早く大学生になりたい。そして……。


 僕はそのために勉強とピアノを頑張っている。


 僕は、お父さんが持ってきてくれた成績表の保護者欄の印鑑を確認して、終わらせたドリルと一緒にランドセルに入れた。










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