2 シンイチのお母さんて、ピアニストなの?
「タケル?」
妹のピアノの先生のコンサートで、同じクラスのシンイチに会った。
「シンイチ……」
シンイチは背が高い。クラスで、いや、学年で一番高い。そんなシンイチが、ネクタイをしめて、大人みたいなスーツを着ていた。小学生なのに、何でそんなの着てるんだ?
驚いたことがもう一つ。シンイチが、小さい女の子の手をつないでいた。紺色のワンピースを着ている。幼児教室に着ていくような感じの格好だ。幼稚園くらいか?妹がいたなんて知らなかった。ピアノを習っていたことも知らなかったし、僕は学校以外でのシンイチをあまり知らなかったんだな……。
「かおちゃん、僕のお友達。ご挨拶して」
「こんばんは」
その子は僕を見て、聞こえるか聞こえないか位の声で挨拶をした。手をつないでいた女の子は、挨拶をしてから隠れるようにしてシンイチの腕につかまっていた。小さくて可愛い。
お母さんが僕達のことに気がついたみたいだ。
「タケル、お友達?」
「うん。小学校のマキシンイチくん」
「タケルがお世話になっております。もしかして、今日の槇先生の?」
「はい。僕の母です」
「まあまあ、美桜の大先生でいらっしゃるのね!」
知らない言葉だった。
「え?何?だいせんせい?」
僕はお母さんに聞いた。
「美桜のピアノの先生の先生が、シンイチくんのお母様なのよ。今日のコンサートでは、前半が高田先生で、後半を槇先生が演奏なさるのよ」
僕はわかったけど、何て言っていいかわからず、うなずいた。
「じゃあ、また」
シンイチは、小さくて可愛い妹の手をつないだまま客席に連れて行った。係の人に、招待席を案内され、お礼を言っていたようだ。
「タケルのお友達、大人みたいね……」
うん。僕には笑ってくれたけど、学校でのシンイチとは違う人みたいだ。いつもうるさい美桜が、シンイチを見て静かだった。
しかし演奏が始まると、美桜は座席でもぞもぞしだした。音を立てているわけではないのに、何故だかうるさく感じる。ちっとも落ち着いて座っていない。スカートを直したり、背中の洋服のシワを伸ばしたり……慣れないよそ行きの洋服だしな。今度はハンカチを出して膝の上で折り紙みたいなことをしている。あ、落とした……。眠くはないみたいだが、僕にはわかる。……僕は手を伸ばしてハンカチを拾ってやった。きっとつまらないんだろう。僕も特別面白くはない。でも、学校の音楽の授業でCDを聴くより、前で人間が弾いているのが見えるんだし、こっちの方がいい。しかも、美桜は自分のピアノの先生なんだろう?ちゃんと見てろよ……。頼むから僕に話しかけたりしないでくれ。お母さんに怒られるのは僕なんだぞ。
「お兄ちゃん……」
ほら来た……。僕は無視した。
「お兄ちゃん!」
仕方なく顔をそちらに向けた。
「お兄ちゃんの友達どこ……」
僕は黙ってシンイチのいる方を指差した。
「こら、タケル」
ほら……何で僕がお母さんに怒られるんだ。
シンイチの方を見ると、二人とも熱心に聴いていた。あの小さくて可愛い妹は、座席にも寄りかからずに背中を伸ばして、動かずに前を見ていた。後ろからトン、と押したら前に落ちそうだ。すごいな……僕は感心した。
休憩時間になった。15分ある。滅多に来ない場所だ。僕はトイレに行ってもすぐに戻らず、探検がてら、わざと逆からぐるりと回って客席に戻ろうとした。
女子トイレの少し手前の椅子に、シンイチが座っているのが見えた。
「あれ、シンイチ。どうしたの?」
「あぁ、タケル。待ってるんだ」
何を?と聞こうとしたところに、あの小さくて可愛い妹が来た。今にも泣きそうだ。何だ何だ。
「……しんちゃん」
「かおちゃん、どうした?」
シンイチは妹に駆け寄り、しゃがむようにして目線を合わせた。
「……手をあらって、……ふこうとしたら、ハンカチをおとしちゃった……」
妹は手も濡れていたし、ハンカチは水でビタビタだった。あぁ、水を出した洗面所の中に落としたんだな。美桜もやったことある。シンイチはそのハンカチを受け取り、自分のハンカチをサッと出した。
「……ありがとう」
妹は両手で受け取ってお礼を言った。可愛いな。シンイチは、妹のハンカチを自分のスーツのポケットにしまった。濡れていたのに……。
演奏開始のベルが鳴った。
「戻ろうか」
シンイチが促したので、僕達は客席に入った。
後半は、妹の先生の先生の演奏だ。プログラムに写真があった。赤いドレスを着て、体は斜めを向いていて、少し振り返ってこちらを見て微笑んでいる……すごくキレイな女の人だった。この人がシンイチのお母さん……。シンイチは格好いいけど、お母さんとはあまり似ていないような……。お父さん似なのかな。プロフィールを見たが……首席、大学講師……よくわからなかった。美桜の先生よりもたくさんの内容が書かれていた。
演奏が始まった。すごかった。何がって言えないけど、すごいとしか言えない。美桜の先生の演奏だって上手いと思っていた。でも、ピアノの先生なんだし、それはあたりまえかなって。でも、シンイチのお母さんは、背中が真っ直ぐで、すごく堂々としていて、格好よかった。さっきと同じピアノで弾いているのとは思えない程、音がはっきりしていて、目が覚めるようだった。単に曲の違いなのだろうか?写真と同じ赤いドレスで、体が動く度にドレスがピカピカと光って見えた。こんな人がお母さんなんて信じられない……。家でもこうなのか?僕のお母さんがキッチンでエプロンしている姿とはずいぶん違うな。
美桜も、前半よりもよく聴いていたみたいだった。
ピアノのことなんてわからないけど、とにかくすごかった。圧倒されたっていうのかな。初めての経験だった。
演奏後、美桜の先生とシンイチのお母さんが並んで舞台に出て、丁寧にお辞儀をした。たくさんの拍手だった。僕もパチパチと手を叩いた。その後、先生達は二人で一緒に一台のピアノを演奏した。二人で微笑みあって、幸せそうで、僕は今日これが聴けてよかったと思った。美桜の先生だとか、シンイチのお母さんだとかより、音楽ってこんなに素敵なものなんだと思った。そして、シンイチはこれが好きなんだとわかった。うん、僕も好きかも。
お母さんは、美桜の先生に挨拶をするために、僕と美桜を連れてロビーにできていた行列の一番後ろに並んだ。
列に並んだ人は、美桜の先生とシンイチのお母さんにお花やプレゼントを持ってきていて、順番に話をして挨拶をしては、それを渡していた。僕のお母さんも、包みを二つ持っている。そういえば昨日、デパートで何かを買ってきていた。まだまだ人はたくさん並んでいる。
シンイチが、それらをまとめて預かってどこかに持っていこうとした。背の高い男の人がシンイチに声をかけた。
「シンイチ、それ持っていったらもうこっちに来なくていい。かおりの側にいてやれ」
「はい」
振り向いたその男の人の顔は、シンイチをそのまま大人にしたような男の人だった。きっとシンイチのお父さんだ。シンイチのスーツと同じ色で、格好よかった。
僕はシンイチに今日の感想を話したかった。そう、感動したって、こういうことなんだろう。僕は列を離れてシンイチに駆け寄った。
「シンイチ!」
「タケル……」
「今日、ありがとう。僕、初めて音楽をいいと思ったよ。美桜の先生のことも。シンイチのお母さん……すごく……ピアノ上手いんだね。今度、シンイチのピアノも聴かせてよ。いろいろ、聴いてみたい」
シンイチは驚いていた。
「ありがとう。うん。僕、ピアノが好きなんだ」
シンイチはいつもの笑顔になった。真っ直ぐに何かを好きだといったその真剣な言葉に、僕の方が照れたくらいだ。それで、全然関係ないことを聞いてしまった。
「妹、いくつ違いなの?」
「学年は四つ。でも、ほとんど五つ」
「じゃあ、今……年長さんか」
「うん。妹じゃないけど」
「え?」
「じゃ、また来週ね」
僕は何かを聞き間違えたのか?




