18 かおちゃんに、悪戯を仕掛けたら?
自分の演奏が上手くいった。
本番前のちょっとした苛立ちが、手に負えなくなりそうで怖かった。激昂しそうだった精神状態が、かおちゃんの顔を見て、安堵して、戻っていった。かおちゃんのピアノを聴いて、何かを取り戻していくのがわかった。
発表会の前半が終わった。
僕はアナウンス席を立ち、かおちゃんに少し歩いておいでと促した。
タケルが聴いていてくれて嬉しかったが、美桜ちゃんとお母さんは既にいなかった。
タケルと僕は同時にお互いを探したようだ。ロビーで姿を確認した時にそれを察した。
僕は謝った。謝りたかった。
「悪かった。演奏前、緊張していて、嫌な態度だった。本当にごめん……」
言い訳をしてしまった。いや、嘘だ。タケルに嘘をついてしまったことを自覚した。僕は最悪な男だ。
「何言ってるんだ。全然……ピアノ聴きたかったんだ。ねぇ、先生変わったの?音が違うような印象を受けた……」
「わかるのか……タケルは耳がいいな。そう、五年生からロシア人のピアニストに習っている。最初は大変だったよ、余裕なくて。……今もだけど」
「ロシア人て!言葉は?」
「もちろんロシア語、もちろん僕はしゃべれない。お母さんからはそれ以来ピアノは教えてもらっていない。恥ずかしいけど、結構寂しくてさ。お母さんのレッスン、好きだったから」
「いや、こっちも話したいことはたくさんあるが……もう、後半始まるだろ」
「あぁ。後半も有名な曲ばかりだから教養になるよ。皆真面目で、大学でも優秀な学生ばかりなんだ。ぜひ聴いていって。じゃ」
かおちゃんが客席に戻ってきた。
僕はかおちゃんの席の椅子を引いた。
僕は、会場の皆が着席したのを確認してから、後半のプログラムを読み上げた。
かおちゃんがさっきより落ち着いた表情で座っていた。僕の精神状態が落ち着いたからだろう。かおちゃんはあまりしゃべらないが、僕の表情をよく見ている。どんな僕でも、ただ黙って側にいてくれる。今は側にいてくれるだけでいい。たまらなく愛しい存在だ。
好きだと伝えたいが、とても無理だ。
かおちゃんは、まだ小学三年生だ。
早く大人になりたい。かおちゃんを独り占めできるような男になりたい……。
音大生の演奏を聴くかおちゃんの横顔を見ながら、プログラムの上に置いたペンを握りしめた。
この学生は、よく弾いているけれど、真面目すぎるのか、あまり美しさを感じない。数小節も聴けば実力も音楽性もわかる。なのに、長い……。弾いている曲は、ようやくクライマックス……全体力を出しきる程のフォルテシモだ。クレッシェンド……そう、だんだん大きくなる。僕は音を立てないよう、かおちゃんの方にそうっとペンを転がした。
ペンはかおちゃんの膝に落ち、床に落ちた。ペンは僅かにカタッと音がした。
しまった!
かおちゃんはその音でペンに気づいた。つまり、自分にペンが一瞬当たったことに気づいていない。敏感なんだか鈍感なんだかわからない。
かおちゃんは、ペンの落ちた音から場所を特定したらしい。僕の椅子の下辺りに落ちたペンを拾おうと、体を傾けた……ら、こちら側に椅子ごと傾いた。
嘘だろ!
僕は急いで腕を伸ばした。
かおりを抱きとめる形になった……。
お父さんみたいに「かおり」って呼びたい……そう思っていた。
演奏が終わり、拍手が起こった。
僕は「かおちゃん」の体を椅子ごと真っ直ぐに戻し、手を伸ばして素早くペンを拾い、次のプログラムを読み上げた。
ヤバかったヤバかった……。
失敗転じて、別方向からの大成功……。
かおりに悪戯するのは楽しい。
かわいくてかわいくてたまらない。