17 シンイチ、その音は怒り?
「僕の……生徒だ」
シンイチの発した、低い声がリフレインする。
僕は、席に着いてからも落ちつかなかった。
幼稚園からのつきあいだった、シンイチの妹だと思っていた「かおちゃん」が、妹じゃなかった……。幼稚園からと言っても、初めてあの子を見たのは僕達が四年生の時だ。あの時、確かかおちゃんは年長さんで、シンイチが手をつないでトイレに連れて行ったりしていたんだ。
プログラムに書かれた二人の名前を凝視した。遠い記憶の中で、確かに「妹じゃないけど」と言ったシンイチの声が思い出された。まだ高い声だったシンイチの声……。
でも何か違和感が、何だ……。
「ねえ、受付でシンイチの横にいた子、妹じゃないんだって」
僕は小さい声でお母さんに言った。
「やあね、そりゃあ妹じゃないわよ。雰囲気でわかるじゃない。ねえ、美桜」
「なあに?」
トイレから戻ってきた美桜は聞こえなかったらしい。
「シンイチ先生の隣にいた子、タケルが妹じゃないかって。違うわよねえ」
お母さんが言い直した。
「妹のわけないじゃない!お兄ちゃん、デリカシーなさすぎ!」
「こら、美桜、小さい声にしてちょうだい」
へえ、そうなのか。わかるほど違うのか。
舞台にあるピアノに向けられた照明が、開演を知らせた。
「藤原かおり、メンデルスゾーン作曲『ロンド・カプリチオーソ』」
アナウンスしたのはシンイチだった。
ゆっくりした足取りで、女の子が前に出た。
丁寧にお辞儀をして、慎重に椅子に座った。
プログラムには、年齢も学年も書いていない。確か、四つ下の学年だと言っただろうか。小学三年生か……。
ゆるやかな、流れるようなメロディーだった。かわいらしい、綺麗な綺麗な音だった。この子もきっと、シンイチが好き……。僕は、音でわかるような気がした。「音」そのものでそんなことを感じる、そんな経験は初めてだった。
曲の途中から、不穏な音になり、急速に、短く切られるような曲調に変化した。手から溢れてこぼれ落ちそうな何かを、一つも落とすまいとするような、胸に迫るような演奏だった。表すとしたら……「不安」だろうか?
僕は勝手に、このくらいの年頃の女の子は、童謡みたいな子供の曲を弾くのかと思っていた。去年は『キラキラ星』だったっていうし。美桜だって、シンイチに会わせた時にはバイエルを弾いていた。ちょっと遅かったにしても。それにしても……。
「僕の生徒だ」
受付でのシンイチの言葉が思い出された。
シンイチがこの子を教えたのか……。僕はその恐ろしさに、背中がゾクッとするようだった。
横を見ると、お母さんも美桜も同じ驚きに包まれているのは明らかだった。
かおちゃんは演奏が終わり、アナウンス席のシンイチの隣の席に座った。かおちゃんなんて、気軽に呼べないような気持ちにさえさせた。
シンイチは、彼女に笑顔を見せた。
まるで、よくやったねというような表情だった。
シンイチの出番になった。
自分でアナウンスをしてから出てきた。
すごい曲だった。すごい音だった。
いつも穏やかなシンイチが……。
弾く時は別人のように思えた時もあった。しかし、今日のようなシンイチには、会ったことがなかった。怒り……?そういえば、シンイチが怒ったところを見たことはない。同級生に何か注意をする時でさえ、「自分達で自分達の首をしめるようなことはやめようよ」とか言う奴だ。
外は暖かい陽気なのに、さっきとは違う寒気がするようだった。
さっきかおちゃんが弾いた、同じピアノとは思えない厳しさを伴った音だった。
……前と音が違う?先生を変わるかもしれないと言っていた。先生が変わったのだろうか……。
最近、シンイチのピアノの話を聞いていなかった。以前シンイチの口から聞いた、「文化の衰退」の話みたいなことは、軽々しく聞いてはいけないと思った。だが……またシンイチと話をしたい。
とにかく、いろいろな意味が交錯した。思い出しても鳥肌がたち、体中から恐怖と切なさの涙が出てくるようだった。
「お母さん、何か無理。私もう帰りたい」
美桜がぐずりだした。ませていて、それでいてプライドが高くて、まだ子供だ。お母さんは、これ以上美桜がぐずぐずしたら周囲の迷惑になると考えたのだろう。
シンイチに向けられた割れんばかりの拍手の中、お母さんは美桜と二人で外に出た。僕は何も言われなかったし、僕は動けなかったし、僕はもっとピアノを聴きたくて、そのままそこに留まっていた。動くことなんて、できなかった。
数々のピアノの音を浴び、新しい世界を知った。
それを知っているシンイチ、その世界にいるシンイチを、改めて尊敬した。
何ていう世界だ……。